その5
ユアンは、陽が南に高く上るまで、横からあれこれと話しかけてくるリーザの相手をしつつ読書を続け、飽きた彼女が立ち去ると、持参した昼食のパンを頬張り、それからしばらくの休息の後、書庫に戻って持ち出した本を、元の場所に戻すと執務室へ向かった。
執務室の扉の前に立つと、緊張を和らげようと呼吸を整える。他の部屋の扉に較べてわずかに凝ったしつらえをした扉のノッカーに手をかける。手がすこし震えていた。
(緊張しているな)
彼は今の自分の緊張を、どこか他人事のように見つめていた。会うのは初めてでもないのに、なんという情けなさだろう。しかし相手は伯爵閣下、仕方のないことかもしれない。
そんなことを考えたあと、コン、コンと控えめに扉を叩くと、すぐに部屋の内側から返答が返って来た。
「ユアンか?入れ」
精気あふれる壮年期の力強い声の主は、紛れもないこの館の主にして、リドウィッチ辺境伯の爵位を持つアムレートゥム=ファルス=ガゼル、その人のものであった。促されるままに、ユアンは部屋へと入っていった。
「失礼します公爵閣下。本日もご機嫌麗しゅう・・・」
「おお、よくきたなユアン。そう畏まらなくてもよいぞ」
「は、恐縮であります」
「だから、そう肩肘の張った話し方をしなくても良いというのに……」
執務用の机に大量の書類の束を載せ、半ば埋まるように椅子に腰掛けていたガゼル伯は、うんざりしたような様子で、ユアンの畏まった態度を咎めると、ユアンは狼狽した。
「いや、これは、まことに……」
「いや、だから……」
ガゼル伯はあごの下に蓄えた豊かな白い髭を片手でいじりながら、この生真面目な少年が、自分のからかいを真に受けて身を小さくする様子を見て、急いで本題を切り出した。
「ここに呼んだのは他でもないお前に頼みたいことがあってな」
「は、はい!」
「魔女の様子を見に行ってほしいのだ」
「ヴェルマータ様の?」
「うむ。ここ一ヶ月ほど、音沙汰がないのでな。あれも歳だ。孫娘と住んでいるし、よもや勝手に朽ち果てていることはないと思うが、様子を見に行ってきてくれんか」
「お安い御用です」
「それと、最近、『魔女の眼』で何か見えないか、お前からも尋ねて欲しい」
「承知しました」
「用件は、それだけだが……、ところで、相変わらず、騎士道物語や、冒険記のたぐいを読んでるのか」
「はい。伯爵閣下も、かつてヴェルマータ様とともに諸国を遍歴し、各地でその盛名を轟かしたと聞いています。僕……、いえ、私もいつか閣下のように諸国遍歴の旅に出たいのです」
ガゼル伯は、いつも自分の前では、いつも顔を強張らせ、おっかなびっくりといった様子で喋るユアンが、急に熱のこもった口調で話し出したことに驚いた。それに、真摯な尊敬のまなざしを受けながら、自分のようになりたいと言われるのは悪い気分ではなかった。
「ぜひ、閣下の武勇伝をお聞かせください!」
「なんの、気楽な次男坊が、修行にかこつけてただ遊んで回っておっただけに過ぎんよ。しかし、まあ、機会があればそのうち話そう」
「ぜひともお願いします!」
「では、魔女の件は頼んだぞ」
「はい!」
ユアンは、入室時の緊張はどこへやら、先ほどとは打って変わって、興奮で駆け出さんばかりに頬を高潮させ、恭しく礼をすると、退出のため後ろの扉に向かった。
「ところでユアン、その扉の表側についているノッカーだが……」
「はい?」
扉を開いてまさに退出しようとするユアンは、ガゼル伯に声をかけられ、再び彼のほうに向き直る。
「それはなぜそう呼ばれているのかのう?」
「それは……」
首をかしげた。これは一体、なんの謎賭けだろうか?その意図するところが、いまいちよくわからない……
「ではこれはどうだ?」
「ランプと呼ばれています」
「そうだ。そしてそれはなぜランプと呼ぶ?」
「……それは常識的な答えですが、ノッカーもランプも、おそらく教会がそう呼ぶよう定めたからです」
その解答は間違えていないはずだった。
ありとあらゆる「モノ」は、一度発明されると全て教会の審査を受けることになっており、名前は教会によって命名される。発明者が勝手に発明物に名をつければ、厳しい処罰の対象になるし、このシャルークで、その品物に関する商業上の法的保護は受けられない。すべてのモノは教会によって名づけられる。
ガゼル伯は、ユアンの答えを聞いて、大きくうなずいた。
「そう、そうだ。お前の言う通りだ。それがこの世界の常識だ。道理なのだ。しかしユアンよ、もし、やがてお前が旅に出てるなら、その常識や道理を疑い、自分の頭でよく考えて物事を見定めるのだ」
「……はい」
ユアンは、ガゼルの言わんとすることが、よくわからなかった。しかし彼が、なにか大切なことを伝えようとしているのだということは、感じることはできた。ガゼル伯がそれ以上は何も語ろうとしないのを確認すると、ユアンは今度こそ扉を開き、そのまま部屋を離れた。