その3
ユアンは、書庫の鍵を返却すると、陽当たりのよい二階の小部屋で、持ち出したヴォルク航海記を広げて、読み始めた……
……世界初の周遊航海は困難の連続だった。嵐による沈没の危機、巨大ザメとの死闘、手足が次第に黒ずみ壊死していく壊血病の恐怖、ネズミによって食い荒らされる貴重な備蓄食料、真水の不足、そして果ての見えない航海に動揺し絶望した一人の水夫が発狂し首を吊ったことで、水夫たちのヴォルク船長への不平不満は頂点に達した。ヴォルクは、反乱を企てる者たちの中から首謀者を素早く突き止め、処罰を下すと、ただちに自殺した水夫を丁重に弔うことを公表した。
「諸君、聞いてくれ……」
『……あら、ユアン来てたの』
それは自殺した水夫の水葬の日のことだった。ヴォルクは失われつつある船内の信頼と結束を取り戻すために、この機会を逃すまいと、船の甲板の上で全船員に懸命に訴えかけた。
『相変わらず熱心ねえ……、ユアン?』
「……思い出すのだ、あの輝かしき船出の日を!未知への旅路を恐れず、約束された富と栄光に胸を高鳴らせた、あのころの勇気と情熱を!」
『ユ・ア・ン』
「もうすぐ、すべてが手に入るのだ。今こそ、あのころの団結を取り戻し、再び……」
『ねえ、ちょっときいてるの?一人でぶつぶつ喋るのって気持ち悪いわよ』
「聞いているか、諸君!私はもう一度……」
『あ・ん・たは、わたしの話を聞け!!!』
突如、天から降りかかる謎の怒声によって、世界は一変した。澄み切った青空が、眩く光り輝いたかと思うと。大海は割れ、船は粉々に粉砕され、あっという間に全ては闇に包まれた……
『ねえ、ちょっと大丈夫?』
(ここはどこだ?船が沈んで、陸に流れ着いたのか?)
ヴォルクは、後頭部に痛みを感じながら、起き上がり、声のほうに振り向く。
この声は確か……
「サムソンよ、お前も無事だったか、ここはどこだ?あの光は何だったのだ?」
『だれがサムソンよ!』
世界は再び一変した。澄み切った青空が、再び眩く光り輝いたかと思うと。大地は割れ、大気は全て燃えて失われ、ヴォルクの肉体は粉々になり、あっという間に全ては闇に包まれた……
ユアンは、後頭部および首回り一帯に激しい痛みを感じながら、目覚めた。
「僕は、一体何を……、あれ、リーザ、どうしたの?なんだか様子が変だよ」
ユアンは首をさすりながら身を起こすと、彼の傍で心配そうに自分の顔を覗き込んでいた、銀髪の少女に声をかけた。リーザ・ファルス・ガゼル。ガゼル辺境伯の一人娘であり、館に通いつめるユアンとは、顔馴染みであった。
「そ、そうかしら。……結構長く眠っていたけど、……大丈夫?」
「うーん、ああ、居眠りしてたみたいだ。なんでだろう。それになぜか頭と首も痛むし……」
「そ、そういうこともあるわよ」
ユアンは起き上がると、この一つ年下の少女に向き直り、逆に彼女を気遣う言葉をかけた。
「身体の調子はどう?」
「あたし?あたしなら大丈夫よ。みんな気を遣いすぎなのよ。この前も、中庭で裸足になって木登りしたくらい元気なのに」
しかしその勝気で威勢のいい言葉とは裏腹に、蒼ざめた顔色は病人そのものといった様子だった。言葉と顔色の不釣合いさに、誰もが彼女が無理をしていると、思うだろう。ユアンは、内心、リーザを気の毒に思いながらも、「そうだね」と無難に相打ちを打つだけに留めた。彼女は自分の言葉通り、他人から気遣われるのをひどく嫌う。ユアンは、長い付き合いの中で、それがよくわかっていたからだ。