その1
1、
シャルークの遙か西の果て、黒々と広がる大森林の中を切り裂くように続く一筋の旧街道を、旅人は足早に駆け抜けていた。
数十年前に新しい街道が整備されてから、この旧街道はから人の往来は絶えて久しい。森の樹木は、昼の光も届かぬほど、その枝葉を幾重も茂らせて天を覆い隠し、古びたレンガ道も伸び放題の雑草に絡めとられ、通行はきわめて困難であった。
それにもかかわらず、旅人はあえてこの旧街道を通って、北へと進んでいた。
「あのジジイ、でたらめな地図を売りつけやがって!」
旅人は、悪態をつきながら古びた地図を袋にしまい、馴染みの短剣で、行く手を阻む枝や草むらを切り払い、先へと進んでいった。陽はとっくに落ちていた。夜の闇が深まると、森に入ってからずっと耳障りに響く虫の音に、獣の咆哮が加わる。
普通、旅慣れた者なら、夜の森を一人で横断するような危険を決して犯さない。もちろんこの旅人も、森の中で道を見失いそのまま消息を絶った者や、賊や獣の犠牲となった者が、数知れないことも知っている。しかし彼は、こうした様々な森の危険を熟知しながらも、それをさして恐れる様子はなかった。彼は慣れた足取りで、松明も持たず、常人離れした夜目と、敏捷な身のこなしを頼りに、森の奥深くに分け入って行く。
旅人は、しばしば立ち止まり、後ろを振り返る。その時だけ、この命知らずの若者の顔に、かすかな怯えの色が浮かんでいた。彼は、かれこれ三昼夜、ろくに休むこともなく人目を憚るように移動して、辺境地へ向かっていた。
(あいつも、ここまで逃げれば、いい加減諦めたはずだ・・・)
旅人は、そう自分に言い聞かせたが、目的地に向き直って再開された彼の動きは、むしろ慌ただしさを増していた。
やがて旅人は、自身の進む先が、明るく輝いているのを目にした。
あれは・・・、月の光だ!とうとう森を抜けたのだ!
旅人は、矢も楯も堪らずその光に向かって、走り出していた。
あと30マータ、25マータ、10マータ・・・、森を・・・、抜けた!
月光の下に身を曝した旅人は、頭から膝の下まですっぽりと覆っていた外套を、慌ただしく脱ぎ捨て、全身にまとわりついた草や小枝を振り払った。
彼は改めて、周囲を見回した。夜目に慣れた彼には、月明かりに照らされた森の外は、とても明るく感じた。旧街道の続く先は、峻険な山脈に続いているようだった。
この古びた地図が正しければ、その先には辺境の山村が存在するはずだった。
「まったく、今度は山登りか?」
旅人は先ほどとは打って変わって陽気な様子で憎まれ口を叩くと、脱ぎ捨てた外套を拾い上げて、道に沿って再び歩き始めた。
2、
――――眩しい
ユアンは、窓から差し込む朝の陽光を浴びて、ゆっくりと瞼を開けた。
それから、上半身を起こし、いつものように横開きの窓に手をかけ外へ大きく開く。途端、冷え込んだ空気が彼の部屋に浸透していく。季節はすでに春だが、山頂にはまだ雪がかかっていた。
風に乗って遠くから朝を告げる教会の鐘楼の音が聞こえる。ユアンの集落には時計が一つしかない。教会前の広場の日時計がそれだった。突き立てられた1本の鉄柱が、陽を受けて産み出す影を地面に据え付けられた目盛りで読み取り、観測係が鐘の音で、朝と、昼と、晩の到来を告げるのだった。
その集落の名は、リドウィッチ。ゼーガ山脈中腹に位置し、マースラ王国ガゼル辺境伯が直接治める人口300ほどの山村で、人々は農耕と牧畜によって生計を立てていた。
ユアンは質素な朝食を摂り終えると、身支度を整えて家を出た。(もっとも、彼の住まいは家と呼べるほど立派な建屋ではなく、小さくみすぼらしい木造の一間の小屋だったけれども……)
朝の日課は、近隣の農家を訪ね、人手を要する仕事がないか、訪ねて回り、用があればそれを手伝うことだった。肉親に先立たれ、耕す土地も持たない一五歳のユアンは、こうした雑用と、山の森に分け入って拾った薪を買い取ってもらうことで、生計を立てていた。もっとも彼はこの集落で、蔑まれたり、虐げられていたわけではなかった。多くの人は、この健気で素直な黒髪の少年に好感を抱いていたし、本人もまたそうした周囲からの気遣 いや配慮に感謝しながら生きていた。少なくとも彼は、同じような境遇の者が経験しがちな劣等感や屈折とは無縁で成長してきた。強いて人々への不満があるとすれば、未だに自分が一人前の大人として扱われないことだった。
(もうすぐ16なのに!)
しばしば憤慨するユアンであったが、そのむくれた表情には、まだまだ子供っぽい幼さが色濃く残っていた。ふと、道端の川辺で足を止め、自分の姿を覗き込んでみる。村では珍しい黒髪で、背丈こそ人並みにあったが、体つきは華奢で力仕事には不向きに見えた。顔立ちは端正に整っていて、その二重で大きな瞳は見るものを魅了したが、本人には、逞しさに欠けた、ただの童顔にしか見えなかった。
彼の愛好する数々の騎士道物語に登場する英雄達は、遠目からもわかるほど雄々しい精悍な体躯に華美な武具装束を飾り立て、興奮と栄光に満ちた冒険に絶えず身を投じていた。それに比べて自分は……。剣術も誰かに教わるわけでもなく、暇を見ては棒切れを見よう見まねで振るって鍛錬するくらいで、ユアンの長所といえばこの集落の者にしては珍しく読み書きが出来るくらいのものだった。
多くの子供達は、教会で老神父から簡単な読み書きの手ほどきを受けるが、その老神父の講義はお世辞にも立派なものではなかったし、なにより教本に用いられる教会教書は、あまりにも世俗離れした用語の羅列で、子供にはあまりにも難しく退屈すぎた。
親としても、子供は貴重な労働力だった。手伝って欲しい仕事はたくさんあったし、そもそも文字を覚えたところで、このリドウィッチではその用途がほとんど無かったからだ。
そういうわけで、集落の子供達の多くは、自分の簡単な名前の書き方と、老神父の独特の喋り方の真似を覚えるだけで、卒業していったが、ユアンだけは違った。彼は、幼いころ亡き祖父から聞かされた、騎士道物語の書物を、じかに読みたい一身で、読み書きを学んだのだった。
そして安息日のこの日、ユアンはいつものように、「得意先」を回りながら、領主であるガゼル辺境伯の館へ向かっていた。安息日に限ってだが、ユアンは特別に館の蔵書を閲覧する許可を得ていたからだ。それはユアンの生活にとって数少ない至福と感じる時間だった。
(今日中に、ヴォルク航海記を、読破する!)
ユアンは左手をギュッと握り締め、勇ましく未知の外洋へと探検に出かけたヴォルク船長のように、その握りこぶしを天へ高々と掲げた。
「私は断固やり遂げる!わが手に宿りし、この大海原と同じ青き玉に誓って!」
ユアンの左手の甲には、ヴォルク船長同様、青い宝玉が埋め込まれていた。同じ色、同じ部位、それがユアンがこの作品を愛好する、大きな理由の一つだった。全ての人間は例外なく、洗礼の日に信仰の証として宝玉を埋め込まれる。それは信仰の証であり、言い換えればヒトである証であった。宝玉をその身に刻まぬ者がもし存在するなら、それはヒトではない。
3、
「よう、ユアンじゃないか」
背後から、若い男の声が聞こえた。すっかりヴォルク航海記の世界に浸りこんで、左手を高く掲げたままのユアンは、その声を聞いて、はっと我に返り、慌てて声のほうへ、振り返った。そこにいたのは、カロムという、ユアンと同い年の少年だった。ユアンに比べて背は低く、大きな顔の割に小さな目、団子鼻が特徴で、全体的に田舎くさい野暮ったさを感じさせるような外見であったが、どこか憎めない愛嬌のようなものを感じる人も少なくなかった。
彼は、リドウィッチではユアン同様に、読み書きの勉強を続ける奇特な少年だった。
「相変わらず、夢と現実を行き来に忙しいみたいだな」
カロムは、少し意地悪そうな顔をして、ユアンをからかうと、ユアンは思わず赤面して俯いてしまった。そのユアンの反応に、カロムは思わず噴きだしてしまった。
「今日も、あの領主様の辛気臭い書庫で一日を過ごすのか?」
「僕の勝手だろう?」よほど、先ほどのカロムのからかいがこたえたのか、ユアンは憮然とした様子で答えた。
「そりゃ、たしかにお前の勝手だ。ただせっかく読み書きを学んだのに、やることが、ただお伽話を読んで、空想にふけるだけって言うのがなぁ……」
「それだけじゃない。乗馬や剣術だって学んでる」
「こういっちゃなんだが、自警団のおやじさんの乗馬術や剣術なんてあてになるのかな。それに今どき、剣の腕なんて磨いても仕方ないだろう。今の時代はこれだしな」
そういって、カロムは握りこぶしに人差し指を突き出し、ユアンのこめかみに向って、パン、と何かを撃ちだすような仕草をする。
「銃のこと?」
「そうだ。サニークの祭りで、銃士隊の実演を見ただろう?」
「あんなもの、子供だましさ。聞けば、撃ってもほとんど当たらないそうじゃないか。弓の方がまだましさ・・・・・・、それよりカロムの方こそ、何のために勉強してるの?」
「俺は成り上がる。商いの道だ。こんなど田舎の辺境地で、貧農として惨めに生涯を終えたくない。そう意味ではお前と一緒だよ。でも、お前も、この集落の大人たちも、俺に言わせりゃ何もわかっちゃいないんだ。読み書きを学んで出世するということは、必ずしも神学生になって坊さんになることだけを意味するわけじゃない」
「だからここに商人が訪れるたびに、大人達の商談に顔を出していたのか」
「そうさ、商いの空気を少しでも肌に感じて、ついでに商人たちの知己を得て算術を学ぶ機会を作り、コネを作るためさ。そしてゆくゆくはどこかの商家の奉公人になって、自分の立身につなげる。それが俺にとってこの境遇から抜け出す、唯一の手段だからな」
ユアンは、彼の言葉に驚き、また先ほど見せた醜態のときとは別種の恥ずかしさがこみ上げてきた。彼もいずれ騎士となり、諸国を遍歴し、武功を挙げて立身を重ねたいという夢は長年の宿願である。しかし、同じ十五の少年自分の目標に向って、具体的に行動していることに比べ、自分はどうだろう?
「機会は自分で探して逃がさないようにしないとな。じゃあな、ユアン」
カロムはそう言い捨てて、ユアンと別れた。安息日は、他所の町から商人が訪れ、広場で定期市が開かれる。彼はそこへ、彼自身の将来を掴むために向ったのだろう。ユアンは、カロムの言葉を聞いて、得もいえぬ焦慮を感じながら、領主の館へむかった。
4、
ガゼル辺境伯の館は、堀もなければ、城壁もない。壮麗とは無縁の、三階建てのレンガ屋敷であった。それは、リドウィッチの中では、最も大きな建物で、領民にとって自分たちの郷里の象徴とも言える建物だったが、王都の豪商なら、これより大きな屋敷を複数所有していることもざらに有るであろう。
しかし、かつて、王国が分裂の危機にあった大内乱時代は、周囲を壁と堀でめぐらせ、要所に矢倉を配置し、城館という呼び方がふさわしい機能を備えていたが、先代ガゼル伯は内乱の危機が去るや、それらを解体し、戦乱で家を失った領民のために、それらを建築資材として与えてしまった。現ガゼル伯も軍事に疎く関心が無いのか、あるいは王国の平和と安定を確信しているのか、一時の例外を除けば積極的に武備に手をつけようとはしなかった。軍備の軽減は、庶民にとって割り当てられる負担が少なくなり、本来歓迎すべきことだが、こうも軍備を軽視して、万一、内乱が勃発したり、異民族や山賊が侵入したりした場合はどうするのかと、内心やきもきする者も少なくない。
あるとき、そんなお節介な民の一人が、ガゼル伯に、若干の追従を交えながら、こんなことを言った。
「偉大な人間は、偉大な城に住むべきだと思います。かつて伯爵様のご先祖様方がそうであったように」
それを聞いたガゼル伯は、その言葉を、もっともだ、とばかりに鷹揚にうなずいてから、こう答えた。
「だが、わしのような卑小でけち臭い男は、壮麗な城に住まいたいという名誉欲よりまず、そこに必要とする金と、執事と、メイドと、庭師の数に恐れをなしてしまうのだ」
そしてガゼル伯は最後に一言、こう付け加えた。
「それにわしらには、『魔女の眼』があるからな」