常世の神様と死神 2
真っ白な世界で、アンリは立っていた。漆黒の足先まで隠れる長いローブに身を包み、薔薇の蔦の絡んだ、無骨なほどシンプルで大きな鎌を持って、ただ立っていた。青白い端整な顔は、普段は無邪気なあどけない笑みを見せるのだが、今回はなにやら深刻な、どこか泣きそうな顔で、長めの黒に近い青の前髪の間で煌く宝石のような青紫の瞳を揺らめかせて。
大きな溜息を、もう何度ついただろう。がっくりと肩を落とした迷子の子供そのものといった様子で、長い睫毛を伏せてのろのろと歩き出した。
「あー…とうとう来ちゃった…。逃げるわけにも行かないし。ってか逃げたらそれこそ何をされるか分かんないもんなぁ」
右も左もないような世界で靴音が吸収されていく。どこまでも続く白い世界に、真っ黒なアンリは目立つ姿でなにやら言いながら、行かなくてならない場所に向かって歩いていた。
ここは常世の手前。アンリが魂を届ける場所に当たる。普段、下界のおかしな骨董屋で幸せそうにお茶をすすっているアンリではあるが、本来はちゃんと仕事をしているわけでここにも来ることは来るのだが、今日は仕事以外で訪れている。
先日の事である。アンリはしてはいけない事をした。それはアンリにとってどうしても捨て置けない事情があったからだった(いくら何でもどこまでがいけないことか位はアンリも分かっている)。
アンリは本来は行ってはいけない常世の中に、許可も得ずに入ってしまったのだ。彼の愛する人間の子の魂が、常世の暗い、負の部分に触れてしまって危うく危険に晒される事件が起きた。
常世の中には綺麗なところばかりではない。賤しい存在の魂も集められているのだから、当然そういったモノたちの集まる場所がある。「正」と「負」の世界は基本的に交わる事がないようになってるのだが、時々その境界線があやふやになってしまう箇所があり、そこにアンリの愛する子達が堕ちてしまいそうになった。天界の自分の部屋でまどろんでいたアンリがそれに気づき、助けに入ったという経緯があるのだけれど、決して褒められて行為ではなかった。
常世にはそれを管理する神々がいる。上に立つ神、アンリが果てしなく苦手だと思っている銀髪の男神。その下に四人、アンリたち他の神はまとめて「管理人」と呼んでいる神々がいる。その神たちに依頼する事が本来の筋だったのかもしれないが、そのときのアンリにはそんなことを考えつく余裕もなかったし、そして猶予もなかった。だからこそ、怒られるのを覚悟で常世の中に入ったのだが…。
「いざ呼ばれると…怖いったらないよ」
あの、美しく典雅な微笑を湛えた男神を思い出すだけで、総身が震え上がる。「ひッ」っと情けない声を出したアンリが死神の鎌に縋りつくように身を縮こまらせた。
「もうこのまま逃げちゃおうかな…。あの人、綺麗な顔してるけど怖いんだもん。性格疑っちゃう…」
「誰の性格を疑うのですか?」
ぼやいたアンリの言葉を誰かが拾い上げた。その声に、アンリの全てが固まった。
「逃げるなんて…そんなことをしてどうなるか、分からないほど底知れない馬鹿なのですか?お前は」
いやに楽しそうな声はアンリのすぐ後ろで聞こえた。笑いを含んだような声と共に、アンリのすっぽりとかぶっていた黒衣のフード越しに、ふわりと撫でてくる手がある。極上に優しい仕草の手が。
なんで…なんでここにいるの!?ってか聞かれてた!?
アンリの綺麗な青紫の瞳が落ちてしまいそうなくらい見開かれて、瞬きも出来ない。冷や汗が一気に噴きだして頬を伝う。鎌を持っている手も何もかも震えてしまって動けない。そんな死神の目の前に、爽やかな風と共に姿を現した人物がいた。
白い世界を反射したように輝く長い銀色の髪に、深緑の瞳。整った顔に典雅な笑みを浮かべた、白い装束に様々な装飾品を身につけた美しい男神だった。すらりとした、アンリよりもまだ少しばかり背の高いその神が、黒衣の死神とは全く対照的な身なりで、アンリを阻むように立っている。
「あ…あ…あの…」
アンリの唇から言葉にもならない音が漏れる。あまりにも驚きすぎて何も考えられない死神の目の前で、普段こんなところにいない神が意地悪げな顔で震える黒衣の男を見つめる。
今からまさに自分が会いに行こうとしていた神が唐突に目の前に現れて、しかも絶対に聞かれてはいけない独り言を聞かれてしまったアンリの動揺は大きかった。手を伸ばせば簡単に届いてしまう神との距離にも、怖すぎてアンリは指一本でも動かすのが怖いといった様子だ。
「私がわざわざ出迎えに来て差しあげたのですから、ひれ伏すくらいしたらどうですか?こんな事は滅多にありませんよ?」
そんなことは一生なくて全然かまわないよ、と、思うものの、あまりにも近い神との距離と、その美しく残忍にも見える容貌に、アンリは唇を震わせてただ見つめ返すしか出来ない。本当は視線を外してしまいたいのだが、それすらも出来ない状況だ。
「なんとか言ったらどうです?言葉すら話せなくなっては、いくら馬鹿でも程がありますね」
楽しそうに、神は笑う。アンリの敬愛する聖堂の店主にどことなく似ているが、店主はなんだかんだ言ってもアンリを可愛がっている分優しさが充分含まれている言動を取る(たまに容赦ないときはあるのだが)。しかしこの神はそこまでアンリを可愛がっているわけでもない。旧知の仲の元・神、龍神なのに下界に降りてのんびりと隠居生活を送る男が目をかけている死神、程度の認識しか持っていないのだし、過去に店主を通してたいがいにしてほしいと思う他にない頼みを受けた事もある。少し前にもアンリのしでかした事を許してやったばかりなのに、今回また騒ぎを起こしてくれたこの綺麗な死神に対して、慈悲なんてものは殆どない。少しばかりの嗜虐心は持っていても。
妙にかわいげのある馬鹿な死神、といったアンリに向かって神は微笑む。
「やっぱり無理いぃっ!!」
典雅で猟奇的な微笑みに、アンリは気づくと背を向けて一目散に逃げ出していた。自分の考える前に身体が動いていた。死神の鎌を抱き締めて黒衣を翻して走るアンリを見た神は、くすりと笑ってふわりと姿を消す。そして次にその優雅な立ち姿を現したのはアンリの目の前だった。
「ぎゃあ!」
いきなりまたもや現れたその怖い存在にアンリは仰け反るくらいに驚き悲鳴を上げる。頭を抱え込むようにして蹲ったアンリの首根っこを、神は掴みあげて無理矢理立ち上がらせた。
「いたたッ。苦し…」
「誰が逃げろといいました?鬼ごっこでもするつもりですか」
「いや…そんなんじゃなくて…だって…怖いんだもん」
目に涙をためて自分を見る死神を、ぶら下げるように神は腕を高く上げる。そのほっそりとした腕のどこにそんな力があるのか。聖堂の店主もそうだが、神様も偉くなると力持ちになるのかなと、アンリは状況も忘れて感心してしまう。仮にも自分も最高神に次ぐ神なのだが、普段からそんな位には興味の欠片もない馬鹿なアンリは立場などすっかり忘れているし、そもそも常世も、かつて店主のいた東の世界もアンリのいる天界とはまた違った世界だ。そんな知らない世界のお偉い神様の事なんて理解できるわけもなかった。
踵の浮いた状態で震える死神に、神はどこからともなく手にした何かを突き刺すように青白い頬にひたりとつけた。涙を浮かべた青紫の瞳がそれを確認して、一層身体を震えさせた。
「ちょ…それ…」
見れば、それは鋭い剣。いつもこの神の座る金色の玉座の傍に、大切に置かれているまばゆい飾りのついた剣だった。身の震え上がるような妖しさのあるそれは、神が裁きを行うために使うもの。神が神を殺すのは大罪。だが常世の神だけはそれを許されている。神々の死を執り行えるのはこの神だけ。そのために神を殺すための剣を持っているのだ。それをアンリの頬にひたひたと触れさせながら、神は穏やかに笑う。深緑の瞳の中に意地悪で清廉な輝きを持って笑い、アンリに優しく声をかける。
「お前の馬鹿さ加減はあの方から聞いてはいましたが、私の領域まで入り込んでくるとは…どうですか?やはり一度死んでおきますか?」
聖堂の店主によく似た口調で、どこかで聞いた事のあるようなことを言う。
「死ぬのは…怖くないけど、や、やっぱりひどいことをするんでしょう?」
また同じやり取りになってしまう馬鹿なアンリに、神は少し考えてにやりと笑った。
「お前は意外にも穢れに弱いらしいではありませんか。それならいっそそのものになってみますか?一生出る事の叶わない暗いところで過ごしてみるのも楽しいかもしれませんよ。くだらない天魔波旬に成り下がって這い蹲るお前を見るのは楽しそうですね」
くつくつと喉の奥で神は笑う。アンリはあの飛び込んだおぞましい空間を思い出して震え上がった。常世の最深部と言って良いあの暗く汚い場所。憎悪や邪念しかない穢れ切った場所にいた下等な者たちに成り下がれと、この男神は言っている。未来永劫転生の出来ない日々を過ごすなんて、考えただけでも吐き気が込みあがってくる。
「そんなことする位なら…殺して」
アンリはやや睨むように神を見て、苦しげに呼吸を繰り返した。しっかりと掴みあげられた身体は不安定で辛くなる一方だ。
「ほう…死を選びますか?」
アンリとは対照的に、神は穏やかな様子で言葉を返して、アンリの頬に添えていた刃をすいと動かした。
「いた…」
ピリッとした痛みを感じて思わず顔を顰める。薄く皮膚を裂かれて血を滲ませたアンリを見た神は、ふとその黒衣の体を解放した。
突然離されたアンリはその場にぺたりと座り込んで、苦しかった喉元を押さえながら立っている神を見上げた。
その目の数ミリ前に、鋭い切っ先を突きつけられて、また息を飲んで目を見開いた。白い世界を映しこんだ刀身が眩い光を纏い、その向こうに見える神の美しさを際立たせている。
死神の鎌を抱きかかえて震えるしか出来ないアンリに、神は微笑んだ。
「少しは懲りましたか?」
「…へ?」
穏やかな笑顔と声に、アンリは間抜けな声を出してきょとんとした。先ほどまで見せていた猟奇的な微笑ではない神の笑顔にまた驚いてしまう。そんなアンリの前で、神は剣を治めて言う。
「さすがに今回は怒らずにはいられません。どんな理由があっても、どんなに高位の神でも、私の許可もなく常世の中に入る事などされては、こちらもたまったものではありませんからね」
「……それは…ごめんなさい」
俯いて素直に謝る死神に、神は少しばかり愛情の篭った眼差しを向ける。
「ですが、人間の子の綺麗な魂を守った事は褒めて差し上げます」
「え?」
「私とて、綺麗な魂は貴重だと思っています。たかが人間ではあるけれど、わざわざ綺麗な物を汚してしまう必要もありませんからね。本来ならば私達に任せてしまうのがお前の出来る事だったのですが、そこまで考えが及ばなかったのもお前らしいと言えばお前らしい事です。それに、今回は痛い思いもしたようですしね」
おかしそうに神は笑った。言われた事に、アンリは自分の腹部を無意識になぞり、思い出す。黒髪の少年に刺されたときの事を。
「ですから。今回も特別に許して差し上げます。もう二度と、何があっても、無断で常世に入る事はなりません。良いですね?次はあの方が何を言っても私はおまえを許しませんから」
最後に再び戦慄の走る笑みを見せて、神は言う。それにアンリは小さく悲鳴を上げて身を縮こまらせた。
その様子を見ていた神はふと、少し離れたところに視線を流して意味ありげな笑みを浮かべる。
これでよろしいですか?
深緑の瞳が流した視線の先には、誰もいない。でも確かに感じる気配に向かって、神はそう呟いた。
ご迷惑をおかけしました。
その視線の先の気配が、そう言って穏やかに微笑んだ。
自分のことで精一杯で助かったという安堵感でいっぱいのアンリは、そんなやり取りなど気づきもしないで、ただ大きな溜息をついてがっくりとうなだれただけだった。
*おしまい*