飲み込んだ言葉、それは
――――司書は語る。
『 あるところにある島国がありました。世界地図の一番東に位置するその島国を、大陸の人々は極東の島国と云い、その国の人々は自国を秋津洲と呼んでいました。 』
――――フレームの両端を押し上げて眼鏡を直す司書は微笑んだ。開いた本を閉じて、図書館世界の来訪者に差し出す。
「興味が湧いたのなら、読んでみるといいですよ。残酷な恋の物語、といったところでしょうか。この話が書かれた時期の秋津洲は、どうやら動乱に揺れていたようです。著者は小田原鬼言。題名は……、」
【呑み込んだ言葉、それは】
――――司書は困ったように眉尻を下げて付け足した。
「この物語の結末をどう取るかは人それぞれだと思います。鬼言の中での結末は、はっきりしているのでしょうがね」
――――――――――――
「そろそろ七夕だね」
討幕組拠点……という大層な名前を付けられた屋敷の縁側に座る霜髪の少年の傍らに、眼帯の少女が座る。霜髪の少年は眼帯の少女を見、ああ、と曖昧な相槌を打つ。
この時期には珍しくもないじっとりとした天気が続いている。縁側に臨む庭には水たまりが出来、かなり悪い足場となっていた。そんな天気の中、今日は晴れたのだ。少年は縁側に座り、水たまりに映る空を眺めているようだった。しかしその目はあまり晴れていない。少女は心配そうな顔で少年の顔を覗き込む。少年ははっと我に返ったように目を丸くして溜め息をついた。
「僕の顔に何かついているかい?」
「晴れた庭を見る顔してない、かな」
「はは、晴れたのはあまり嬉しくないからね」
少年は苦笑する。乾いた笑い声は偽りのものでしかないことを見抜くのは少女にとっては容易だった。しかしまた、それを指摘してほしくないという少年の気持ちを見抜くのも少女にとっては容易だった。
「ユメは夏は特に気を付けなくちゃいけないもんね、お天道様」
「面倒だったらありゃしない。冬はすぐに風邪をひくし、夏はこうして日の光に注意しなければいけない。不便な体だよ」
吸血鬼みたい、少女はそう言って微笑んだ。少年は吸血鬼が何なのかよく分からない様子でいたが、それについて聞こうともしなかった。
刺々しいまでの冷静さ、年に似合わぬ聡明さを纏った少年・坂下夢治は、七夕が近付くと、その刺々しさが少し鈍る。その刃が柔らかくなるというわけではない。その刃が潰れるのだ。切れ味が悪くなり、使おうにも使い物にならない。
夢治の変化について、仲間も何も言わないし、何も聞かない。親友や筆頭といった特定の相手以外には生返事しかしないから用がなければ放っておく。夢治の変化は既に年中行事と化している。そこには理由があった。
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遠きあの日々を、君は今も覚えているだろうか。屋根に登っていつまでも飽きず天の川を見上げていて、いつの間にか寝ていた。先に寝てしまった僕を、君は運んでくれたね。
七夕の夜こそ、雨が降ればいいのにと思う。天の川は見られないし、空の向こうで織姫と彦星はさぞ嘆いていることであろう。こちら側でもよく嘆く者もいる。しかし僕には、雨でなければ会うことは難しい人がいるとしたら。彼らは嘆くのをやめるだろうか。
雨が降ったら橋が架からなくて、とてつもない危険が待ち構えていることだろう。それでも、僕が彦星だったらあらゆる手段を駆使して織姫の元に行く。織姫はきっと危険だからやめろと言うだろう。彼女をも黙らせて会いに行く。僕だったら、そうする。
織姫と彦星は、雨が降ったら会えない訳じゃない。僕達だって。晴れていたら会えない訳じゃない。危険が伴うか否かで、僕達はいつだって自由なんだ。
揺らめく水面が美しい浅葱色の女物の着物を着る。討幕組に所属する親友の恋人であり、家事手伝いの少女に借りたものだ。化粧も彼女に頼んだ。ゆめは元が可愛いから気合が入るわ、彼女はそう悪意なく美しく笑っていた。鏡を見る。雪とも霜ともつかぬ細く艶やかな白髪を肩まで伸ばした病的に肌の白い少女がそこにいた。淀んだ血の如き紅の左目と、深く凍てついた氷の如き蒼の右目。全体的に他人に比べて明らかに色が薄いだけでもおかしいのに、『貰った右目』が僕が普通ではないことの主張をしている。いくら鏡を睨みつけて怖い顔をしてみても、全然怖くない。長いまつ毛や大きめの眼、薄い唇に小さな鼻などが少女に見せているのだろう。僕自身も僕の顔のつくりが他の男と明らかに違うことの自覚ぐらいはしている。可愛いとか、美しいとか、可憐だとか、そういう言葉なら、嫌というほど聞かされてきた。実際嫌なのだ。女に勘違いされて嘗められるか連れて行かれるかのどちらかなのだ(そういうことをされる度に制裁を下しているが)。
今日は、普段そうして弊害にしかならないこの容姿を生かせる数少ない機会。こういう機会がないと、僕は本気で鏡を叩き割ってしまうだろう。傘をさして玄関を出る。
雨は降っていない。既に日は沈み、闇は深い。深い黒の中、光の川は浮かんでいた。女装なんて嫌で嫌で仕方ないんだけど、今日は特別。最近、病の進行がよく分かるようになってきた。体が言うことを聞かないときがある。今はピストルしか持ってきていない。討幕派とバレてアサギに囲まれでもしたら、僕は二度と討幕組拠点に帰れないだろう。下駄も着物も、歩きにくくて仕方がなかった。
ごく自然な歩き方で裏路地の暗がりに忍び込む。君はそこにいた。僕を見て目を見開いて、その後に頬を緩めた。ほんの少し悲しげに眉尻を落としたような気がしたけれど、気のせいだろう。
「ゆめ」
「庵」
幕府を討つことを目的とし、都を中心に活動をしている討幕組。その二大参謀が一人、坂下夢治。対して、都の治安維持を目的に設立された、一番から五番までの五隊構成の治安維持組織アサギ。その二番隊隊長、洗朱庵
久しぶり、と微笑み合う僕達の姿に名を付けるとするなら、仇敵、或いは、旧友。
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「どうだい」
「なにが?」
「アサギでの生活さ」
「あぁ、そうね」
「男ばかりで、なにか困ったことはないかい」
「特にはないわ。女の私が隊長だから、局長は入ってきた女の子をよく二番隊に入れてくれるし」
「なるほど。つまり二番隊は脳味噌まで筋肉の男どもでなくて手先も器用な女の子達なんだね」
「ちょ、今のはうそうそ。二番隊は男所帯だったら」
「はは、策を立てるときは気を付けなければね」
二人は仇敵でありながら旧友として語る。しかし、旧友として語る二人の間には取り除けぬ決定的な壁が存在する。互いの思想、志が仇敵という壁を創り、二人を隔ててしまった。それでも二人はそれを創り出す思想と志を蔑ろにして壁を取り除き、語った。語ることで時を使う内に、やがて思い出す。否、気付く。気付かざるを得ない。壁は取り除かれたのではなく見えなくなっていただけで、確かに存在するのだから。
近況を報告しようにも、それは即ちお互いの組織の情報を仇敵に伝えることになる。組織の要人は、一夜にして諜報者になってしまうのだ。
今夜の壁の可視化は早かった。愛しいような苦しいような、楽しいような悲しいような……そう、切ないような顔で、二人は見つめ合う。何かを咎めるように。何を咎めるべきか、何を咎めたいのか、自分でも解っていないのに。そんな己に嫌気が差したのだろう。庵は星空を見上げた。夢治は俯いた。
「庵」
「なに?」
「もし嫌になったら、こちらにおいで」
「それはこっちの言葉よ」
庵は夢治を見て、困ったように微笑む。夢治は至って真剣に庵を見つめ、本気で言ったつもりだったが、あっさりとかわされてしまった。
「ゆめ、私はね、三國局長の率いるアサギに、探していたものを見つけたの。あそこには、人々を守る志と実行に至れるだけの力がある。何があってもきっと、局長に付いていくわ」
「随分ご熱心だね」
「からかわないでよ、そんなのじゃないわ」
「三國局長を語る姿が友人に似ていたよ。……我らが討幕組の筆頭に恋する、強がりな少女にね」
頬を染める庵。一瞬、夢治の胸を肉体的ではない針のような痛みが襲ったが、その痛みの正体に夢治は気付かないようにした。庵は必死になって説明しているが、そんな言葉は夢治には届かない。夢治にはもう解っている。この調子だったら、アサギの男どもの中に聡い者がいれば気付かれているだろう。
「三國局長の率いるアサギに、ということは……彼を殺せば、庵はアサギにいる理由がなくなるんだね」
「三國局長の元で鍛えられたらアサギには三國局長の魂が染み込んでいるもの。私も共に果てるわ。だから、ね、ゆめ」
「僕も、同じなんだよ」夢治は一度目を閉じ、星空を見上げてから目を開いた。一番に輝くあの星こそが、「筆頭……緋刀君。僕にとっての緋刀君は、君にとっての三國局長なんだ」
今度は庵が俯き、溜め息をついた。その吐息に我に返ったように夢治は目を見張ったが、特に何か言葉を発するでもなかった。ただただ、切なさに目を細めた。そうしてやっと、口を開いた。
「この話はやめにしようか」
「先に出したのはゆめじゃない」
「まあね。だからやめるって切り出すのも僕」
「前からこういう話題はなしって言ってるのに、大体出ちゃうわよね」
「仕方がない。これで最後にしよう」
「そうね。これで……最後よ」
夢治は傘を差し直し、何気ない足取りで通りに出る。別れの言葉はなかった。しかし、別れの挨拶はあった。
最悪の挨拶だった。複数の音。草履と地面、刀と鞘が擦れ合う音。夢治は、あっという間に囲まれた。他ならぬアサギの隊士数名が、夢治を囲んでいた。手には太刀、体には防具。ピストルでは間に合わないだろう。夢治は終わりを悟った。
「ゆめ」
「騙し続けた者は、最後は騙され殺されるのかい。滑稽だね」
「ちがっ……」
「なにが?」
なにが、ちがうの?
柔らかな笑みを浮かべて、柔らかな口調で問う夢治。彼は至って落ち着いていた。見る限り、庵も了承したらしい作戦のようだ。驚きはなかった。いや、驚いたけれども、その驚きは夢治の冷徹な策士の鉄仮面を叩き割るには些か弱すぎたようだった。
月光を背に受け、下駄を鳴らして現れた小柄な男。夢治はその顔を何とか確認して、歯を見せて笑う。
「君まで駆けつけるなんて、一介の討幕志士を殺すだけなのに、随分気合いが入っているじゃないか。……三國湊君」
治安維持組織アサギをまとめあげる局長、三國湊がそこにいた。得物こそ抜いていなかったものの、隙なんて見つからなかった。仮に夢治が太刀を持っていたとして、今、三國湊に斬りかかっても、一刀の元に斬り伏せられるのは目に見えている。三國は、そんな男だ。
「今まで討幕派を潰してきたように君達を潰せないのは、優秀な参謀の存在もあるって、教わったんです」
「……それは、庵の情報かい?」
「怨むなら庵さんじゃなく僕を怨んでくださいね? この作戦を考えたのは僕なので」
歩み寄ってくる、己の死。"死"は月光を受け銀色に煌めく。あれが何人もの同志を奪った。やがて夢治も奪われる。夢治は不適な不敵な笑みを浮かべる。ピストルを抜く。銃身には青い輪の装飾。
向けられるのは死。向けるのは死。
向けられるのは太刀。向けるのは三國湊。
月光の元、空気に晒された血の如き淀んだ血の眼が見開かれる。夢治は発狂したような笑顔を浮かべた。
――――――――――――
遠きあの日々を、君は今も覚えているだろうか。家が隣同士で、近所に子供はいなかったから、僕達は毎日遊んでいた。彼女より幼い僕は遊んでもらっていたのかもしれない。面倒を見てもらっていたのかもしれない。それでも確かに、僕達は幼き日々を共に、笑い泣き、時に喧嘩をしながら過ごした。いわば、幼馴染なのだろう。そんな時間がいつまでも続かないことは分かっていた。僕の家も彼女の家も一応士分だったし、せめて同性だったら進む道は似ていたのだろう。が、僕の進む道は武士の道、彼女の進む道は武家の女の道だった。決定的に違った。
そんなあるとき、ひょんなことから、僕は討幕組に拾われていった。未熟な少年の僕が面倒見の良い筆頭に直々に迎えられたのだから、世間にはきっとそう見えたのだろう。僕はそれを否定する。僕には尊敬する師がいる。友がいる。彼らは討幕の志を持っている。僕自身も抱いている。
そして、あの出会いはもう二度とないと思った。だからこそ僕は、あの筆頭の元の討幕組に入ることを決意した。
僕は庵を好いていた。彼女はきっと僕など気にも留めていないと思っていた。だから何も言わなかった。それがきっと、いけなかった。あのとき、討幕組においでと言えたら、きっと僕と彼女の道がこんなにもたがうことはなかった筈だ。僕はあのときのことを今でも悔いている。
「治安維持組織アサギに入ろうと思っているの」
「庵は女子じゃないか」
「女の子じゃ入っちゃ駄目とは言ってないわ。私、男の子のゆめよりも薙刀は強いでしょう」
「でも」
「分かってる、もしかしたらゆめと戦うことになるかもしれないことは。でも、決めたの。私は、力なき民を守りたい」
「……今からでも遅くない、討幕組に、」
「いいえ遅いわ。私はもう決めたの」
彼女が治安維持組織アサギに正式に入隊する日の前日。僕は彼女に薙刀を贈った。
「討幕組がアサギの敵になるのなら、私はゆめを殺すわよ」
「おおこわいこわい。もしも僕を殺すときが来たのなら、その薙刀で僕を殺してね。一番に見つけないと、他の人に殺されちゃうよ」
「ゆめは、戦場で私を見つけたらどうするの?」
その問いに僕は、ただただ微笑んだ。
喉につっかかった言葉も呑み込んで、口を開いて出てくる言葉もなかったから。その言葉を言うには、僕の中に燃ゆる討幕の志はあまりに大きく、彼女の中にたぎる武士の血はあまりに熱かったから。
――――――――――――
「庵を、怨む?」死を生む刀身が振り上げられる。死を放つ引き金が引かれる。「僕が怨んでいるのは、庵じゃあない。愛しい彼女を奪った、君自身だよ!」
下駄の鳴る音。抜刀する音。肉を貫く音。肉を断ち切る音。肉が落ちる音。液体の滴る音。銃声。銃声。銃声。
死を生むいくつもの音が、星月夜に響く。
――――……ねえ庵。あのとき呑み込んだ言葉は、まだ言えそうにないよ。
「三國、湊ォオオオオ!」
冷徹な策士の激昂の声もまた、星月夜に響いた。