曇りのち、晴れ
昨日、幼稚園からの親友、三田弘輝と派手に喧嘩をしてしまった河原誠は、当て所なく自転車を走らせていた。
喧嘩の原因はとても些細なことだった。
弘輝は、人づてに誠が自分の悪口を言っている、ということを聞いた。
弘輝はそのことで、誠のことを責め立てた。
しかし、それは事実無根の噂だった。
覚えの無いことで責められた誠は、腹を立て、思わず弘輝に悪態をついてしまった。
今思えば、自分でも軽率な行動だったと思う。
――でも、あれは弘輝が悪いんだ。長年の親友のことを、たかが噂程度のことで疑ったんだ。俺は悪くない。
ペダルを踏む足に力が入った。
誠の中に渦巻いていたのは、怒りと、後悔と、悲しみと――自分でもわからなくなるほど、色々なものだった。
行き場の無い想いは、誠に混乱をもたらした。
誠の感情に同調するように、空模様も芳しくなく、重々しい灰色の雲が、空を覆っていた。
「……チクショウ」
急ブレーキをかけ、地面に言葉を落とした。
ふと我に帰り、誠は辺りを見渡した。
――ずいぶん、遠くまで来ちゃったな……。
無我夢中で自転車を走らせていた誠は、気付かないうちに、隣町まで来てしまっていた。
すぐに来た道を戻るのも億劫なので、少し腰を下ろして休める所を探した。
しかし、周りには民家と、中学生の誠が入るには少し勇気のいる居酒屋しかなかった。
誠は落胆し、一度大きく息を吐き、踵を返し帰路に就こうとした。
刹那――誠の目に、飛び込んできたのは〈園田書店〉という古ぼけた看板だった。
自転車をゆっくりと進め、その書店に近づいてみた。
〈園田書店〉はトタン屋根、木造の、大きな地震でもあったら崩れてしまいそうな店構えだった。
誠は、恐る恐る店の前に立ち、店内を確認した。
店構えの通り、中にある本棚も、そこに収まる本もうっすらと埃をかぶっていた。
――古本屋、か。
さらに近付き、自転車を店の前に止めたところで、店内に何脚か椅子が据え付けられ
いるのが見えた。
ちょうど休みたいと思っていた誠にとっては、僥倖だった。
「おじゃま……します」
ただ店に入るだけなのにそう言うのはおかしいと、自分でも思ったが、そう言わずにはいられなかった。
………………。
返事はなかった。
カウンターの上に電卓がおいてあるだけの、簡易なレジはあったのだが、そこには誰もいなく、店の中を見回してみても、自分以外に誰かがいる様子はなかった。
――このご時世に、こんな店もあるんだな。
誠は、まあいいか、と低唱した。
何もせずに座っているところに店主が出てきて叱責される――という展開になるのが嫌だったので、手頃な本は無いか、と本棚を物色していると、文庫本の棚にある〈星の王子さま〉を見つけた。
「これでいっか」
〈星の王子さま〉は誠が幼いときに読んだ本だった。
内容は――あまり覚えていない。
それもそのはずだ。本に興味など無かった誠は、ただ学校の読書週間の一環で、その本を選び、適当に読み、感想文を書いただけだ。
誠は、想い出のページをめくる手を止め、〈星の王子さま〉の表紙を捲った。
――――僕が六歳だったときのことだ。
その一節から始まる物語に、誠は次第に引き込まれていった。
「星の王子様……かい?」
ちょうど本を読み終わったところで、誠の耳に低く擦れた声が聞こえた。
誠は驚いて、勢いよく顔を上げ、声がした方に体ごと向き直した。
入って来た時には空だったカウンターに、一人の老人の姿があった。
老人は、カウンターの内側にある椅子に座っているようで、胸の辺りから上だけが見えた。
「……あッ、あの……すいません。その……誰もいなかったので……勝手に……」
疾しいことをしていたわけではないのだが、なぜか焦って口早に答えてしまった。
「はっはっは。ここは本屋だからね。ここに置いてある本は自由に読んでいいんだよ」
老人は口角を上げ、白い髭を揺らしながら、温和に笑った。
その柔和な雰囲気に、誠の緊張感も少し和らいだ。
口髭を手で触りながら、視線を上に向けた老人は、ふと呟いた。
「星の王子様は私も何度も読んだなぁ……」
「僕は……二度目です」
恥ずかしながら、と付け足し、誠は照れ笑いした。
「いやいや、何度読んだか、なんていうのは、実はどうでもいいことなんだよ。一回読んだだけでも意味あることもあるし、何度読んだって無駄なこともある。要は、そこから何を感じ取るか、なんだよ」
老人は一つ一つの言葉をゆっくりと、大事なもののように紡いだ。
誠は感慨深くその話を聴き、無言で頷いた。
「実は僕……今日、親友と喧嘩しちゃったんです」
自分でもどうしてその言葉が自分の口から零れたかは分からなかったが、誠は初めて会ったこの老人にその話をしたくなった。
「今思うと……すごく、小さくて、馬鹿馬鹿しいことなんですけど……。彼が、学校にいる他の奴から、僕が彼の悪口を言ってる、みたいなことを聞いたらしくて……。それで問い詰められたんです。なんか、その親友の言葉で傷ついて、それで僕も勢いで言い返しちゃって……ほんと、馬鹿なんですけど……」
老人は終始、柔和な表情で誠の話を聴き、ふむ、と頷き、こう言った。
「王子様と、薔薇の関係を覚えているかい?」
「……はい」
「王子様は自分の星に来た薔薇が、特別なものだと思った。薔薇自身もそう言っていたしね。だけど、王子様は地球に来たとき、薔薇は――その薔薇と同じ姿形をしたものがたくさんあることを知っただろう?」
「……はい」
「だけど、王子様は狐との出会いによって、自分の星にいる薔薇が世界にたった一輪しかいないんだと気付く。それは、王子と薔薇が、絆によって結ばれているからだ」
「……はい」
「きっと君の親友も、そして君も、学校の同級生たちに出会い、その大切さが分からくなっていたんだ。同級生という薔薇に囲まれているうちに、特別に思えなくなっていってしまったのだろうね。だけど、忘れちゃいけないよ。君たちの絆は君達だけのものだ」
「……はい。……そっか! 狐が言っていたように、僕は我慢強くならなくちゃいけないんですね!」
誠は、星の王子様の一シーンを思い出す。
――――我慢強くなることだ。
――――言葉は誤解のもとだから。
――――きみの薔薇をかけがいないものにしたのは、きみが薔薇に費やした時間だったんだ。
星の王子様には、たくさんのヒントが溢れていた。
弘輝と――たった一人の親友と仲直りするためのヒントが。
「人と人との繋がりは、今日の空みたいに曇ってしまうこともあるけどね、それがどんなに長く続こうと、決して晴れない、なんてことはないんだよ。曇りのち、晴れ――だよ」
老人は締め括るように言葉を添えた。
――曇りのち、晴れ。
その言葉は、誠の心の中に渦巻く暗雲をも振り払った。
誠は勢いよく立ちあがった。
「僕、親友のところに行ってきます!」
力強い誠の言葉に、老人はただ黙って、笑顔で頷いた。
「……っと! これお返しします」
駆けだそうとした脚の勢いを抑え、踵を返し、本を差しだした。
しかし、老人はそれを受け取ろうとしなかった。
「持って行きなさい」
「えッ!? で、でも……」
「いいんだ。どうせ、ここに置いていたって、古くなっていくだけだからね」
老人はそう言うと、ニコッと笑い、何も言わず頷いた。
「……ありがとうございます! 仲直りできたらまた来ます!」
誠は少し躊躇ったが、老人の誠意に対して、受け取ることを断るのは逆に失礼だと思った。だから、本の代金の代わりに、深々と一礼して、勢いよく店を出て、自転車に飛び乗った。
なんだか、老人が最後に見せた笑顔は、哀愁を帯びているように見えた。
腿がパンパンになるほど、自転車をトバして、誠が辿り着いたのは、弘輝の家の前だった。
ここまで勢いで来たのはいいものの、なんて声をかければいいのかわからず、誠は弘輝の家の前でたたらを踏んでいた。
その時――――弘樹の家から、誰かが出てきた。
「!!」
それは、誠が待ち望んでいた相手――――弘輝だった。
弘輝も誠の存在に気付き、居心地悪そうに視線を逸らし、家の中に戻ろうとした。
「弘輝!」
誠は思わず声を張り上げてしまった。
しかし、誠の口は止まらない。
「俺、言いたいことがあって来たんだ! だから、話……聴いて……くれないかな?」
尻つぼみにそう言うと、恐る恐る弘輝を見た。
正直、自分でも自分の想いを上手く伝えられるか、自信が無かった。
弘輝は、少し躊躇った後、ゆっくりと誠に歩み寄った。
「「…………」」
いつもより、少しだけ長く距離をとった二人の間には沈黙が流れた。
しかし、誠は勇気を振り絞って、話し始めた。
「……俺……弘輝に、問い詰められたとき、スゲー腹立った。俺のこと信用してないのか……って」
弘輝は何かを言い返そうという仕草だけ見せたが、結局何も言わず、俯いた。
「でも……そうやって弘輝を悪者にして、自分を正当化していただけなんだ。俺、弘輝の悪口なんて言ってない。絶対に」
「だったら――」
「どうして、噂が出たのか、だよな」
弘輝は真剣な表情で頷く。
「きっと、それは俺が弘輝のこと馬鹿正直で、真っ直ぐすぎるところがある、って言ったのがねじ曲がって伝わったんだと思う」
「……そんな。でも……証拠なんてどこにもないだろ」
弘輝はそう言いながら、自分が言っていることも、何の証拠もない噂話だと言うことに気付いたが、言ってしまった以上、それを取り消すこともできないでいた。
「そう、証拠なんて無いよ。俺が、言ってる事も、その……噂ってやつも」
「…………」
自分が思っていることを、見透かされたような気がして、弘樹は何も言えなくなった。
「だったら、お互いが、どれだけ相手の言ってることを信用できるか、なんじゃないかな。俺、ついさっきある人に出会って――そして、この本に出会ったんだ」
誠は手に持っていた〈星の王子様〉を掲げた。
「俺は、この本とその人から、大事な――とても、大切な事を学んだんだ。同級生もいっぱいいるし、学校全体にはもっとたくさんの人がいる。学校の外にもたくさん人がいる――。でも、その人達と弘輝は違う。それは弘輝が『絆を結んだ相手』だからだよ」
「きず……な?」
「そう、絆。だから、俺は他の人が何を言おうが、絶対に弘輝を信じる。弘輝は俺にとって『特別』な存在なんだ。そんで……」
誠は意を決して、最後の言葉を紡いだ。
「俺の事も信用してほしい」
ずっと硬い表情で話を聴いていた弘樹が、ゆっくりと口を開いた。
「……ごめん」
誠には――二人の間には、その言葉だけで十分だった。
誠は緊張が解けるのを感じるのと同時に、強張らせていた表情を弛緩させ、ニコッと笑った。
「じゃ、仲直りな!」
歩み寄り、堅く握った拳を突き出す。
「ああ!」
弘輝も拳を突き出し、誠の拳に、ごつん、と突き合わせた。
二人の友情の合図だった。
「つーか、その噂したヤツ、マジでムカツク!」
誠は地団駄を踏んだ。
「だなっ。そんなんを少しでも信じた俺も俺だけど……」
また肩を落とす弘輝に肩を組みながら、誠は声を大にして言った。
「だーかーら、気にすんなって。俺も弘輝も悪いところはあったんだから」
「……ありがとな」
弘輝は恥ずかしそうにそう言った。
こうして、無二の親友たちは、すぐに二人の間に入った亀裂を修復し、より強い絆で結ばれた。
翌日。
放課後に、噂を流した元をつきとめ、さんざん二人で吊るしあげてやって、スッキリした誠は、感謝の気持ちを伝えようと、老人の経営する〈園田書店〉に訪れていた。
しかし、〈園田書店〉の目前に迫ったところで、あることに気が付いた。
昨日まで、確かに掲げてあったはずの看板が取り外されているのだ。
しかも、ちょうどその解体作業の途中のようで、店の前にはツナギを着た大人達が、そそくさと動き回っていた。
誠が恐る恐る店に近づくと、中から恰幅の良い中年女性が段ボールを抱えて出きた。
少し躊躇ったが、誠はその女性に声をかけることにした。
「あの……ここって、閉店しちゃうんですか…?」
急に声をかけられた中年女性は、驚いた、という表情で誠を見たが、なにかに納得したようで、すぐに優しい笑顔になった。
その笑顔は――――あの店主の老人を想起させた。
「あら、こんな子もいたのねえ。ここ、私の父が経営していたんだけど、その父が亡くなってしまってね。一人っ子の私も、私の旦那も、今の仕事を離れるわけにはいかなくて、それで、やむなく、閉店して、売り払おう、ってことにしたの」
「亡くなった!? それって、いつのことですか……?」
誠は確かに、昨日その人に会っているのだ。だから、亡くなったとしたら――あの後しかない。
それが、誠には俄かには信じられない。
「……一週間ほど前にね。ずっと元気だったのに、急に、ね」
中年女性は、寂しそうに、ふっと笑った。
「そんな! だって、確かに、き――」
昨日、その人に会ったのだ。と言おうとしたが、誠はそこで言葉を区切った。
目の前にいる、あの老人の娘というこの人が、嘘を言っているようには思えなかった。
――じゃあ、昨日俺が会ったのは……?
「……あの、少し、中を窺ってもいいですか?」
誠の言葉に、驚いたようで、中年女性は目を皿にしたが、「いいわよ」と言うと、視線を店の方に一度向けてから、誠を見て、優しく微笑んだ。
「ありがとうございます!」
誠は、一礼してから、店内に入り、あの老人が座っていたカウンターの許に駆けた。
老人が座っていた椅子は、ひっそりとその主を待つように、屹立していた。
椅子の表面には、うっすらと埃が被っていて、そこに暫く誰も座っていないことを示していた。
――そんな! 確かに俺はここであの人と話して……。
誠がもう一度その椅子を注視すると、そこに一枚の紙切れが置いてあることに気が付いた。
誠はそっとその紙を持ちあげた。
どうやら、それは、和紙でできた栞のようだった。
元々、白かったのであろうその和紙は、端のところはボロボロになっていて、全体が黄色く酸化していた。
誠はその栞をゆっくりと裏返す。
そこには――――。
〈曇りのち、晴れ〉
と、筆で書かれた文字があった。
年季を感じさせる紙とは相反して、毛筆で書かれたその文字だけは、まるでついさっき書かれたように、黒々と輝いていた。
やはり、あの老人は、昨日、確かにここにいたのだ。
しかし、一週間前には亡くなっていて――――。
誠は混乱した。
昨日見たのは、店主ではないとしたら、誰だったのだろうか――。
「あら、それは……」
後ろから聞こえた声に反応して、誠は勢いよく振り返った。
そこには、空の段ボールを持った、先程話していた中年女性がいた。
「それ、私の父が大事にしていた栞なの」
そう言うと、中年女性はカウンターの端に置いてあった写真立てを持ってきて、ほら、と誠に見せた。
その写真には、昨日見た時より、かなり若く見えるが――今、誠が持っている栞を持ったあの老人と、女性が映っていた。
「これが、父で……これが私。いや~、私もこの頃は細かったのにねえ」
中年女性は指差しながらそう言うと、はははっと威勢よく笑った。
誠はその説明を受け、さらに混乱した。
――やっぱり、あの老人は、この店の店主でこの女性の父親だ。間違いない。だったら、昨日俺が会ったのは……?
答えを見つけ出せないでいる誠に、中年女性が声をかけた。
「それ、貰っていっていいのよ。その方が父も喜ぶでしょうから」
「それ……って、この栞のこと……ですか?」
「そうよ。私が持っていても使わないし、ゴミになっちゃうよりはいいでしょ? あ、必要無かったら、無理しなくてもいいのよ」
あの老人が大事に持っていたもの、ということは、この栞はこの人にとっても大切な形見のはずだ。さすがにそれを受け取るわけにはいかないと思い、栞を返そうと思ったが、誠の体は、その思いに反した行動をした。
「……ありがとう……ございます」
そう言って、深々と頭を下げると、誠は勢いよく駆けだし、自転車に飛び乗り、思いっきりペダルを踏んだ。
誠の想いの大きさに応えるように、自転車はグングンとスピードを増した。
あの中年女性の言っていることは嘘ではない。
しかし、確かに自分は昨日、あの老人に会ったのだ。
二律背反――矛盾しているように思えるが、この二つが本当だとするのなら――――。
――あの人は、道に迷った俺を導くために、神様が寄越してくれた、贈り物だったんだ。俺に大切な事を教えるために、来てくれたんだ。
その答えに辿り着いた時には、誠の目から大粒の涙がボロボロと零れ落ちていた。
涙は風に乗り、誠の後方にキラキラと霧散していった。
誠は、自転車を止め、空を見上げた。
昨日とは打って変わり、雲ひとつない晴天が広がっていた。
「曇りのち、晴れ……」
誠はそう呟くと、涙をゴシゴシと拭き、再び前を見て、ペダルを強く踏み込んだ。
ご一読いただきありがとうございます。
拙作は、一年ほど前に書いたものを添削・改稿した作品です。
『星の王子さま』(サン=テグジュペリ著)と私自身の出会いは、作中の少年より少し前の小学生の頃でした。それから、現在に至るまで何度も読み返した大好きな作品です。
読んでおられる方も多いと思われますが、もし未読の方がいらしたら、ぜひ読んでみてください。
きっと、心の中に何かが芽生えると思います。