帝国軍の帰還
恐る恐る、タバサは顔を上げた。
どのくらい時間が経ったのだろう?
顔を上げると、ゲルダの目と合う。ゲルダもまた床に腹這いになり、突っ伏していた。
もぞもぞとした気配に、その場に突っ伏していた蒸汽軍兵士たちや、三兄弟も顔を上げていた。皆、ポカンとした表情で、虚脱した目付きでお互いの顔を覗きこんでいる。
「何が起きた?」
声を上げたのは、ターク首相だった。タークはエミリー皇女をしっかりと抱きしめている。エミリーはしっかりと床に手の平を押し付け、立ち上がる。タークも立ち上がり、エミリーと目を見合わせた。二人の視線が絡み合う。
「パパ……」
エミリーが呟く。
タークは真っ赤になった。
「エミリー。どうして?」
皇女は頭を振った。豊かな金髪が、ふわりと揺れた。
「判らない。でも、やっと思い出したの。あたし、ずっと昔、怖いことがあって……それでね……」
なぜか、エミリーの口調は、幼い幼児のものになっていた。タークは目を瞠った。エミリーはタークを見詰め、にっこりと笑いかけた。
「思い出したのは、それだけじゃないわ。パパの顔も思い出したの。ね、あなたは、あたしのパパよね?」
エミリーの顔には期待が込められている。タークはゆっくりと首を振り、頷いた。
「そうだ。わたしが、お前の父親だ!」
「ああ、パパ!」
エミリーは両手を広げた。タークはエミリーの身体をきつく抱き寄せる。二人は顔を挙げ、聳える巨人を見上げていた。【裁定者】は二人を見下ろし、唇を開いた。
「エミリー皇女はシャドウにより洗脳を受けたが、エミリー独自の生い立ちにより、洗脳を跳ね除けた。仮想現実で、エミリーのような記憶を持つプレイヤーは、他には絶対に存在しない! しかし、シャドウの企みは、エミリーの本来の記憶を蘇らせることに役立った。故に、エミリーは本来の自分に立ち戻ったのである。エミリー皇女よ」
【裁定者】は直接エミリーに話し掛けた。
「そちはもう、自由である。【蒸汽帝国】に留まるのもよし。他の〝世界〟に遊ぶのも自由である。どうだね、これから後、そちには全ての〝世界〟が待っているのだ」
エミリーは【裁定者】を見上げ、微かに否定の形に首を振った。
「いいえ。わたしは【蒸汽帝国】の皇女です。その義務は、果たさなければなりません」
皇女は蒸汽軍兵士たちに顔を向けた。
蒸汽軍兵士は、毒気を抜かれたような顔つきで、呆然と立ち竦んでいる。全員が三兄弟とのパイ投げ合戦で、真っ白なクリームに埋まっていた。
エミリーは真っ直ぐガント元帥を見詰め、声を掛けた。
「元帥。さあ、【蒸汽帝国】に戻りましょう。国民が心配しているでしょう」
元帥は「はっ」と我に帰り、かつんとブーツの踵を打ち合わせ、敬礼をした。
「承知しました! 全軍、皇女をお守りし、【蒸汽帝国】に帰還いたします!」
タークはエミリーと腕を組み、悠然とガント元帥の車に近づいた。無蓋司令車は真っ白なパイに溢れているが、エミリーはまるで気にする様子もなく、優雅な仕草で後席に乗り込む。
「さあ、帰るのです!」
全軍に呼びかける。
ぐわああん、と蒸気エンジンが息を吹き返す。がちゃがちゃと蒸汽百足の足が動き出し、ぞろぞろと武器を抱えた兵士たちが階段に集まってきた。