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私とあなたの物語

作者: クロキツネ

              『長い前編』


「毎度毎度見る度に、相対する度に思うのだけれど、まぁほんっと、いつまで経ってもこればっかりは見過ごせないと言うか看過出来ないと言うのか、更にきつく言ってしまえば許せないって言うかそもそも私は許すつもりが無いと言えば良いのか」

 そうやっていきなりに一息に、僕の横に居た女性は何の前触れも無く喋り始めた。

 不意に聞こえてきたその言葉に僕は気を取られ、何気無しに彼女の方を、そして辺りを見回してみた。だけど、どれだけ見てみてもその空間には彼女一人だけしかいなかった。他には誰も居なかった。

 僕はそんな状況を不思議に思いながらも、『まぁ、何かの勘違いだろう』程度の認識で視線を元へと戻してみたのだけれど、それはやっぱりどうして、気になった。気になってしまった。

 若い女性の独り言が聞こえてくるなんて、いや、聞けるだなんて中々にして珍しい経験だと僕は思う。だから自然と意識を集中し、僕は有るかもしれない独り言の続きにへと聞き耳をたててみた。

 まぁそれが、僕と彼女の物語、その始まりであったのだけれども。


「ほんとふざけんじゃないわよ、ほんとなめてんじゃないわよ、ほんと冗談もほどほどに、っていうか元から冗談なんて言うんじゃないわよ、って感じ。全くもって理解不能だわ、何だってこんな仕打ちをしているのかしら。つくづくもって私なんかでは思考不能よね。あぁ、考えるだけ時間と栄養と脳細胞の無駄、無駄、無駄。何故これ程までに無駄と言われるような行為を何だってこいつらはしたがるのかしら、いいえ、しているのかしら。お客様お客様って言っている割にはその誠意の欠片も感じられない、極悪非道悪逆無道、果ては残忍酷薄な行いも良いところよ。ほんとにほんと、考えるだけで思慮するだけで苦慮するだけで馬鹿らしい。……はぁ、でもまぁそんな風に思いながらもこうやって、重い想いを思い思いに巡らせてしまう私はどうしようもないぐらいに重たい女なのでしょうね。ふふ、自分でも笑ってしまうぐらいの重たさだわ。滑稽よね、重たくなければならないのは私では無いはずなのにね」

 案の定にして有った言葉の続きを、彼女は一度も詰まる事無く、その意味の分からない文章を抑揚のないイントネーションで、流れるような舌捌きを持ってして言い終えた後に、唐突に突然に、『くわっ』と見開いた目を僕へと向けてきた。その目は真剣そのもの淀みが無くて、無意識の内に彼女を見ていた僕は思わず、視線を合わせたままに硬直してしまった。

「あなたは買うのでしょう? 買いたい為に、食べたいが為にこの時間、この場所にあなたはいるのでしょう? だからそれで、どう思うの? 私が今口にした事について、あなたはどう思っているの? 共感? それとも反論? 共感なら結構結構、砲法華経。そのまま何も言わずに、何も見せずに、何も起こさずに、お好きな商品を選んでさっさとレジに向かえば良いわ。そして家に帰って封を開け、そうやって自分が今しがた行ってきた行為について後悔しながらも、その類まれなる、いいえ、唯一無二という言葉が絶対的に過言では無い極上の味を堪能すればいいわ。でもね、でももしも今、あなたの抱いている感情なり感想なり感覚なりが私の意見に対しての反論、もしくはそれに近しいカテゴリに分類されるような代物だった場合は様相を一変せざる得ないわね。それはつまり、『覚悟は出来てるの?』って事で、だからそれはつまり『あなたは私とやり合うの?』って事になるのだけれど。……それでどうなの? あなたはこの件について、一体どう思っているの?」

「………いえ、ちょっと、いや、あなたの仰っている言葉の意味がその、よくわからないのですが……」突然の問いかけに、僕は戸惑い、困惑した。

 合わさった視線は一度も欠片も微塵も揺らぐ事は無く、僕を見据え続けている。何て冷たい目をしているんだ、彼女は。

 二重まぶたの彼女は喋る。

「あぁーそうきちゃった、そうきちゃった? ほんと見た目からして奇異で怪異な風貌をお持ちの殿方だとは思っていたけれど、わざわざ反論の道を選ぶだなんて、それはやっぱり必然的にそうだった訳なのね。訝しげな表情を浮かべつつ、訝しげな視線を送り、訝しげに探り探ってみて正解正解、大正解。ほんと予想通りと言いますか、必定そのものと言いますか。全くもって伏線の糸口すらも感じさせない男ね、あなたって。まぁそんな感じですからそんな訳で、これで少しばかりの訂正すべき事案が発生した事になったわ。んんっ? 何? その顔は。もしかして聞きたいの? 聞きたいって事なの? ふふっ、聞きたいでしょうね。そりゃ聞かずにはいられないのでしょうね、その顔は。ふふふっ、そういう正直な所は私、嫌いでは無いわ。

 まぁ、もったいぶっていても仕方の無い事だから率直に言うけれど、まぁ私達は赤の他人同士、つまりはこれまで歩んできた人生の中で、私が一度も話した事、見た事、見かけた事、存在の片鱗すらも感じた事が無い卑小なあなたの事を律儀にも『あなた』って呼称していた事実に他ならない訳なのだけれども、それを少しばかり若干程だけれど訂正させてもらうわね……ううん、訂正するわ、訂正します、訂正する。ふふっ、私ったら馬鹿みたい。既に決まってしまった事柄についてわざわざ逐一あなたの了承を得る必要性なんて微塵にも埃にも有りはしないのにね。ねぇ? 『あんた』」

 右手で『パチンっ』と音を立ててこちらを指差したと思ったら、彼女は唐突にそんな事を言い始めた。

 僕は『奇異で怪異な風貌をお持ち』の部分で思わず自分のファッションセンスを頭の中に思い浮かべて確認したのだけれど、すぐにそれが事の本題では無い事に気付き、慌てて彼女へと思考を戻した。

 黒くて長い髪を後ろで結い、真っ白であまり飾り気の無い、でもとても綺麗でお洒落なワンピースを着た彼女は指を差したまま、よくよく聞かなくてもとても失礼な事を一から十まで喋りきった後にこちらへと詰め寄ってきた。右手を固く握りしめ、左手には空の買い物かごを持ちながら。その足取りに迷いや躊躇なんてものは無く、その歩幅にも遠慮や冗談なんてものは感じ取れなかった。有るのは毅然とした態度と表情だけで、それらを浮かべて僕の目の前へと迫ってくるのだ。


 僕は考える。

 いやはや、これは一体どういった状況なのだろうか。『あなた』と呼称されていた僕はどうやら今、何らかの理由によって『あんた』という呼称方法、たぶん蔑称に変わったらしいのだけれど、いやはや、今はそんな些細な事が問題なのでは無い。

 僕は普通に買い物をしていただけなのだ。普通に買い物をする為に普通にスーパーへとやって来て、普通に商品棚の前に立ち、そうして普通に商品を物色している間に彼女が僕の横へとやって来て、結果、異様な言葉を呟いたのだ。だからそれはつまり……。

 ……。

 ………。

 ………巻き込まれたのか。

 あぁそうか、巻き込まれたのだな、これはきっと。

 だからこれはつまり、交通事故や誘拐事件、果ては嫁姑問題に挟まれている夫や『警察だ。犯人を追っているから車を貸してくれ』と言われたアメリカの一般市民よろしく、僕は不幸にも巻き込まれたのだろうな、厄介事に。

 ――ははっ、不幸だ。

 そんな事を考えている僕の目の前へと立ち、突く様な視線で僕の顔を覗き込んできている彼女は尚も続ける。

「良い? これは討論でも、ましてやディベートでも何でも無いの。良い? そんな生易しい言葉で一括りに、ルールを守っていないゴミ出しの日のゴミ袋の様に括ってもらってはいけない事なのよ。駄目じゃない? 馬鹿じゃない? って言われそうな事ぐらい、あんたにだって分かるよね? あんたにだって分かってもらえたよね? そんな、死んだ魚の目にも失礼な程に死に絶えた、死に過ぎて腐りに腐って病みに病んで濁りに濁った目で私を見据えてはいるけれど、その今にも溶けて流れ出しそうな眼球の奥ではちゃんと解してもらえたかしら?」

 高々に『ははんっ』と彼女は鼻で笑う。

「まぁ、どうせあんたみたいな人間の事だから、私がここまで言っても何にも考えてはいないのでしょうね。何にも解せてはいないのでしょうね。えぇ、えぇ、それが普通だと言われれば私もそれまで、確かにそれまでよ。でもね、何て言えば良いのかしら。まぁこれはつまり、運命だという事になるのでしょうね。私とあんたを一セットで語るというのは私個人としては生来的に、先天的にも後天的にも拒絶したい部分があるのだけれどそれは二千歩程譲ったと仮定して、だからしいてはそれが私とあんたの、運命。『ここで会ったが百年目』みたいな偶然百%ではなく、『待ってましたよ、お嬢さん』ぐらいに必然百%。そんな確定的で確信的な、それこそ的中率百%の占い師に告げられた予言ぐらいの勢いで私とあんたを取り囲んでいる、運命。取り囲んでいた、運命。……良い事? もう逃げられるだとか避け切れるだとか、そんな愚行とも愚慮とも言える愚考は終わりにする事ね。さもなければあんたという存在は、私とこの後に交わされる語らいの後に、永遠を越えた久遠の先にまで消し飛ぶ事になるのだから。それを物理的に言うのなら、つまりは今も尚広がり続けている宇宙の果てにまで到達出来てしまう事と同義なのだけれど。ふふ、まぁ良いわ。何だって良いわ、そんな事。私はそんな、未確定な結末や終末や終焉が大っ嫌いなの。反対に大好きなのは結果。全ては結果が教えてくれるのだから、ね。

 ……あら、えらく不満気な顔をしているわね、あんた。ちょっとあんたもしかして、もしかしてのもしかして、結果よりも過程が大切です、なんて青臭い事を言い出すのではないでしょうね?」

「え? ……えぇっと」中断遮断したとも思えるぐらいに彼女の主張(だと思う)は唐突と終わり、代わりに僕へと質問を投げつけてきた。

 んんーっと、僕は必死で考える。そして答えた。「えぇっと……良く分からないですけれど、一般的に言えば過程は大切だと……思います」

 それを聞き、「うそ……今確かに、『大切だ』って言ったの? 更に上乗せ輪をかけて、挙げ句には『一般的に』とか付け加えちゃったの?」と驚く彼女。

 そうして「あ……あは…………あはは…………」と笑い始めたと思ったら、「あははははははははははははははは!!」と大声を上げ始めた、彼女。

 店内に響き渡る、笑い声。

 気でも狂ったのか、それとも僕自身が僕自身でも気付けない内にすごいボキャブラリーでも発揮したのか。

 たぶん、前者である事に間違いは無い。

 たぶん、彼女の人格に問題があるのは間違いが無い……のだろうけれど。

 周囲にいる、その他一般の買い物客達が何事かと一斉にこちらを見てきた。

 やめて下さい。そんな目で僕を見ないで下さい。

 僕は全然、関係無いのです。


「あははははっ……ははっ…………はぁ。あーあ……あぁ、いえ、いえいえ、ごめん、ごめんね。あんたがあまりにも陳腐で不抜けで垢抜けない事を理路整然と言うものだから、つい。まるで絵具の青に青を足して『青です!』って言うぐらいに青臭い事言い出すものだから、ついつい。ふふっ、でも今のはある意味では高得点かな。落ち武者人間もそこまでいけば大したものよ。心の底から信じてはいなかったけれど、人は見かけによらないっていう格言は確かみたいね。私は妙な意味合いであんたの事が気に入ったのかも知れないわ。一応聞いておくわよ。聞いといてあげるわよ。あんた、名前は何て言うの?」

 一しきり馬鹿でかい声で笑い終えた彼女は周囲に視線を配る事も無く、僕の目を一点に見据えたまま何かに納得したようで、それがどんなルートを辿ったのかは知らないけれど、どうやら僕はお気入りの烙印を押されたようで、名前を聞かれた僕は率直に『こんな人物に名前という、個人情報の中でも重要度が一番低いと思われる事柄を教える』という行為さえも危険極まり無い行為だと思えたから、僕の口は自然黙り、黙り込み、黙秘を推し通していたのだけれど、でも再び『あんた、名前は何て言うの?』と訊かれた際につい『音村です』と答えてしまった訳だ。

 僕の……馬鹿。

「音村? あんた音村って言うの? ふぅん、少し珍しい名前だね。すぐには思い付きそうにも無い名前。その様子からするとどうやらデマや嘘では無いみたい。まさか本当の名前を教えてくれるだなんて……つくづく変わってると言うのかおかしいと言うのか有り得ないと言うのか」

 妖艶な表情を浮かべ、見上げていた顔を更に上へと上げる彼女。身長では遥かに勝っている僕なのだけれど、その見下す様な、否、見下した視線には明らかに冷たいものを感じる。

 って言うか、変わってるのもおかしいのも有り得ないのも、たぶん全部、あんた自身だ。

 多少の苛立ちを覚え始めた僕は、今回初めて、自分から切り出す事にしてみた。

「あの、すいません。先程からその……あなたの仰ってる言葉の意味が分からないんです、本当に。その、あなたは一体何について喋り始めて、何について僕に語りかけてきたのですか?」恐る恐る、聞いてみた。

「えぇ? ええぇ? えええええぇ?」僕の問い掛けに何やら打って変わって、困惑の表情を見せる彼女。「あんた、今まで私が何について話していたのか、そんな事も分からずにずっと話を続けていたの?」

「ええっと……はい、そういう事になると思います。っと言うか、あなたが勝手に喋り始めて、そして勝手に進めていただけなんですから、分かれという方が無理ありますよ」

 それを聞いた彼女は腕を組み、俯く。『んんー』と言う唸り声、時折左右に振られる黒い髪。

 そうやって静かになった、彼女の領域。スーパーの館内BGMと子供達の騒ぎ立てる声しか聞こえてこなくなる。

 自然、僕も黙った。


「…………そうだ」

 彼女は長い静寂の後にそう言って、すぐに咄嗟に、まるで無条件反射の様な動きで棚に置いてあったポテトチップスを手に取った。そしてそれを、押しつけるようにして僕に突き出してきた。

「これだ」

「……………………はぁ、これ……ですか?」

「そうだ、これだ」

 切り捨てる様にして言った後、鷲掴みにしていた袋を器用に片手で回転させてその裏面を僕へと向け直す彼女。

 僕はそこに印刷されてある物を必死に読み取ってみたけれど、特に変わった部分は無いように思えた。じゃがいもと、広大な畑の合成写真。それは至って普通の、至って普通なスナック菓子の裏面だった。……当たり前だった。

「これが一体何なのですか?」

「はぁ? まさかまだ分からないの? ここまでやっても分からないんじゃ、ほんと救い様が無いよ? あんた」残念そうに、そしてひどく落胆した様に彼女は一つ大きなため息を吐いてから、言葉を繋いだ。紡ぐようにして、繋いだ。

 僕はどこか申し訳無い様な気もしながら、その言葉を聞いた。

「あのね、私が言いたいのはね、この部分の事なのよ。……そう、この部分、この『内容量』の表示についてよ。ほら、書いてあるでしょう? 内容量が『70g』って。……何よ、その訝しげな表情は。あんたまだ分かんないの? 70gよ、70g。これがどういう意味なのかが分からないとは言わせないわよ、あんた。あんただって見たところ……二十代の半ば……二十五、六歳と言ったとこかしら? っと言う事はあんただって、小さい頃から今に至るまで、三時のおやつにはこの『ポテトチップ』を食べてきたのでしょう? ポテトチップで育ってきたのでしょう? 『好きなおやつは何?』って訊かれたら即答で『ポテトチップ!』と答えてきたのでしょう? そんなあんたが分からないとは言わせないわよ、このトリックを。

 ここまで言えば薄々気付いてきている、もしくは薄々と感付いているとは思うのだけれど、まぁ折角だから私が一から十まで、この私が十全全てを話しきってあげるから感謝に次ぐ感謝、謝念に次ぐ謝念、それからまず真っ先に謝罪に次ぐ謝罪を口にしながら聞くと良いわ。ほんと、ありがたく思いなさいよ。」

 何やら遠い目になる彼女。

「そう、あれはまだ私達が小学生だった頃の話……って何よ、その疑るような眼差しは。最初っから話を止めないでよね。私はこう見えてもまだ二十四歳なのよ、二十四。あんたよりもきっと年下なんだから。全く……そんなつまらない事を気にしていないで、最初から最後まで一言一句、一言半句も聞き漏らさずに聞き切りなさいよ。つまりはね、今から十年以上も前はまだ、沢山入っていたのよ、『中身』は」

 そう言ってシャカシャカと、手に持っているポテトチップの袋を縦に振ってみせる彼女。

 あらぬ言い掛かりを付けられた僕は自分の視線の送り方に気を配りながらも、その今しがた彼女がしている行為を注視してみた。見た目には何も分からない。ただ、中からはどうにもスカスカで、じゃがいもよりも余分な空間の方が沢山詰まった、そんな音が聞こえてきた……気がした。

「聞こえるでしょう? この何とも情けない音が。空白だらけの空洞だらけ、空虚で虚空で皆無な微音。まぁこれがポテトチップだという事を加味すればそれでも、空空寂寂と表しても良いのかも知れないけれど、それはでも、それだわ。駄目だわ、赦せないわ、解せないわ。だってこの音を作り出しているのは……いえ、確かに中に入っているポテトチップよ。それは間違い無い。でもよ、でも。本来ならこんなスカスカでカスカスな音なんてしてはいないの、してはいけないのよ、本来ならばね。もっと重厚で肉厚な、憮然としながらも悠然に、不動でありながらも流動な、そんな確固たる音が聞こえてこなければならないのよ、本来ならば、ね。

 いつからだったでしょうね、たぶん小学校四年生か五年生辺りだったと思う。月初め、私は貰ったばかりのお小遣いを片手一杯に握りしめながら、いつもの様に家の近所にある駄菓子屋さんへと走っていたわ。目的はもちろん、ポテトチップを買う為よ。それ以外には何も無い、何かあっては駄目だったの。邪な気持ちはね。もちろん、私自身がわざわざ買いに行かなくたって、お小遣いを浪費しなくたってお母さんが時々ぐらいには用意してくれたわ、三時のおやつにと、食卓の上へ。でもそんな時は決まって五十円とかで売られている小さなサイズのポテトチップだったし、味は絶対に『うす塩』だったの。別にうす塩が嫌いだった訳じゃ無いわ。むしろ好きで好きで堪らなかったぐらいよ。でもね、時には食べたいじゃない? コンソメ味やのり塩味を。でも……その想いを、その胸の内をお母さんにどれだけ打ち開けても何故だか聞いてはくれなかった。聞く耳もたずって感じだったわ。謎よ、謎。世界の七不思議やオーパーツ並の謎々だったわ。だから私はお小遣いを貰ったら絶対に、自分自身の手でポテトチップを買いに行っていたのよ。好きな味を、好きな時に、好きなだけ食べられるようにとね。……ふふっ、今思い出してみても胸が高鳴ってしまうのが分かるわ。

 まぁそんな感じで、私は駄菓子屋さんに到着してからいつもの様に、どれを食べようかと迷っていたの。そりゃ向かう道中である程度は決めて行くのだけれど、やっぱり実物達を目の前にするとどうしても迷ってしまうのよね。さすがに小学生時分のお小遣いだもの、あまり無駄撃ちをする事は出来なかったわ。だから必然、チャンスは限られていた。だから真剣、選ぶのにも時間がかかった。そうやって私は三十分程悩みに悩んだ末に『やっぱり』と言う感じで『コンソメ味』を手にしたわ。あの濃厚で、若干スパイシーだとも言える味や匂いに誘惑されたのね。魅了されたのね。ふふっ、駄菓子屋のおばちゃんもほっとしたように笑顔を浮かべていたわ。でもね、でも……」

 彼女はそこまで言って、不意に唇を噛みしめた。何かを言いたげで、でもそれを口にするのをためらっているかのように。いや、もしかしたらその当時の光景を、感情を思い返すのが辛いだけなのかも知れない。

 大きく息を吸って、そして吐いた。

 彼女の視線は再び、僕へと向けられた。

「でも、私はその時に気付いてしまったの。自分の手の内にある商品の異変を、感触の差異を、つまりはポテトチップの変貌を。慌ててその違いを探したわ。何が変だと感じたのかを、何が私をこんなに不安立たせるのかを。そうやって血眼になって探した結果、意外な場所に、それは誰が見ても分かるようにしてその違いは表記されていたわ……『内容量』の欄にね。

 驚いたなぁ……うん、ほんとにびっくりした。そして、それと同時に愕然ともしたわ。だって減っていたんですもの……ほんの数グラムだけだったけれど、それは確かに減っていたんですもの……内容量が、中に詰められているポテトの量が。数にしたら何枚分なのでしょうね。ふふっ、さすがの私も気が動転してしまっていたから、何も考えずに家路を急いだわ。そうして自分の部屋へと雪崩れるように転がり込んで、机の上にそっと、買って来たばかりのポテトチップを置いたの。呼吸を整え、汗を拭って。何とか気を落ち着かせて冷静に、改めてポテトチップの袋を見てみるの。でもそこに在るのは外からでは何も変わらない、いつものポテトチップ、いつものコンソメ味。やっぱりいつもの凛々しさが、そこには滞在していたわ。

 『まさかね』。そんな気持ち……ううん、そんな希望にすがって私は袋を開けたわ。さっきのはたぶん、何かの間違い、私の思い違いなんだろうって。私は開封一番の香りが大好きだったから、封を開けた瞬間、すぐに鼻を開封口へと持って行くのが癖なの。そうやると、そこからは何とも言えない良い匂いがしてくるの。それは絶対に他では真似出来ない、例えキャビアやフォアグラやトリュフに松茸、国産和牛やつばめの巣や名だたる料理人達の一品にだって真似出来ない、近付く事さえも出来ない香りがそこにはあるの。私はそれを満足するまで存分に嗅いだ後、まるで温かい料理が冷めない内にとでも言わんばかりに、一心不乱にポテトチップを食べ始めたわ。だって急がないとその芳醇な香りが逃げてしまうからね。まぁそんな感じで、食べ進めていく内に先程まであった不安や絶望感は徐々に薄れていったのだけれど……残念、ラストに近付くにつれて消えていったはずの不安は大きな波となって押し返してきたわ。止める事なんて出来やしないぐらいに大きな津波となってね。ほら、津波が起きる直前って、海面の水位が下がるじゃない? 大きな津波であればある程、その下がり具合は大きくなっていく。それと同じだったわ。

 少なかった。どう考えたって数枚分、少なかったのよ、ポテトが。私の口は覚えているもの、決して間違う事無く、違える事無く。それはまるで、合計が百になるという事が予め宣言されている足し算をやっているかのようにね。それはつまり、『このサイズのポテトチップなら、残りはこれぐらい、次に食べるポテトチップのサイズはこれぐらいだから、残りはどれぐらい』みたいな感じでね。それは……そうね、厳しい訓練の後に手に入れた、条件反射の様なものよ。それが私の誇るべき能力……誇りに思っていた能力……。

 ……………………でも、今は…………」

 僕を見据えていた目線は下へと向き、彼女の視線は落ちるようにして手に持っていたポテトチップの袋へと向けられた。哀愁や悲壮感の漂うその視線で、彼女はそれを愛おしそうに眺め始める。それに従い、彼女のほとんど強気一辺倒だった口調も次第に弱々しくなっていった。

「でも今はね、そんな能力なんて要らないって、本気でそう思ってるの。持っただけで、食べただけで内容量の違いが分かってしまう能力だなんて。もしこんな力が無かったら、もしこれ程までにポテトチップが好きでは無かったら。……そんな想いばかりが巡るようになっていったわ、その日その時以来ね。だから次第に、私がポテトチップを食べる量っていうのは減っていったわ。それまでは週に何度も、多い時にはそれこそ週五ぐらいのペースで食べていたものを……。

 あんたには分からないでしょうね、きっと。何故私がここまで落ち込み、何故ポテトチップを食べる量を意図的に減らしたのかなんて事。所詮、愛を感じない人間に愛を説いたところで意味は無い、釈迦に説法、馬の耳に念仏なんだから喋る気にもなれないけれど……でも、でも折角ここまで話したのだから最後まで話してあげるわよ……」彼女は意を決した様に、顔を上げた。

 と、その時。

 無遠慮に声を上げ、通路の奥から一人の子供が走って来た。その子は楽しそうに、そして心底嬉しそうにして棚にあったポテトチップを何の迷いも無く一つ手に取り、向こう側で待つ母親の元へと大急ぎで帰って行った。

 僕はそれに視線を奪われた。そして彼女も同様に視線を奪われていた。唐突に訪れた、一瞬の出来事であった。

 しばらくの沈黙が流れる。否、留まる。

 気まずかった。僕は耐えられそうにも無いその気まずさに耐えきれず、思わず口を開いた。

「あ、あの」「復讐よ」

 間髪も入れられない間隔で、彼女も喋り始めた。不思議と、その顔には笑みが浮かんでいた。

「復讐よ。私を裏切り、ポテトチップさえもを裏切った、そんな発売元のメーカーへの復讐。私個人がやれる、精一杯の復讐……それがその行為の意味であり目的であり手段であったのよ」

「復讐?」

「そうよ、復讐よ。内容量を減らし、更にはそれを無断で何の告知もせず、あまつさえ値段さえも変えないままに、『してやったり』みたいな表情を浮かべているメーカーへの復讐。だからそれはリベンジで報復で逆襲で……」

「ちょ、ちょっと待った」僕は慌てて言葉を遮る。工事現場の看板よろしく、丁寧にも片手を突き出して。「えっと、あなたの仰る話の内容はとても奇抜で奇怪で奇想天外なので理解に苦しむのですけれど、でもだからあなたは、つまり、その……小さい頃からポテトチップが大好きで普段から良く食べていたのだけれど、ある日を境にしてその異変に、メーカー側の策略悪意に気付いてしまった、と?」

「……そう言っているじゃない」睨みつけるような視線。

 でも僕は続ける。

「そしてその策略に陥らん、もしくは加担せぬようにといった意味で、大好きだったポテトチップを食べる量を制限した。多い時は週に5日も食べていた程に大好きだったポテトチップを。意図的に」

「だから、そう言っているじゃない」尚も睨みつけるような視線。

 でも僕は続ける。

「そして、その反逆は……復讐は今日に至るまで続いている、と?」

「……えぇ、そうよ」彼女はようやく頷いて、その睨みつけるような視線を解いてくれた。そうして手に持っていた商品を棚へと戻していく。代わりに、手ぶらとなった彼女は空の買い物かごを手に持ち、言葉を続けた。「でも、勘違いしないでね。確かに最初の頃は量を減らすだけで精一杯だったけれど、今は違う。今は違うの。そうね、それはたぶん、タバコや麻薬と一緒だと思うわ……やった事が無いから厳密には違うのかも知れないけれど。つまりね、私は徐々に食べる量を減らしていって、最終的にはその数値を零にしたのよ。零よ、零。一でも二でも無い、零。有と無の絶対的境目である、零。天地、空海、猿蟹合戦。S極にN極、S属性とM属性、もう一つおまけにキャッチ・アンド・リリース。そういった対照的な二つの事柄、そのどちらにも属さない、言い替えるのならそのどちらにも属せない、零。ふふっ、してやったりって気分だったわ。天上天下唯我独尊……この広い宇宙の中で、私にしかやれないたった一つの物事、事象。それに私は気付き、そしてそれを実践した。身を削り、呈し、晒け、投げ、そして無くしてまでも、ね」

 彼女はそこまで言って、大きく深呼吸をした。とても深い、読んで字の如き呼吸を行なった。そして手に持っている買い物かごに一度目をやってから再び前を向き、言葉を続けた。

「話が長くなったわね。ふふっ、ほんと私ったら馬鹿みたい。見ず知らずの人間に、こんな戯言を話すだなんてね。それじゃあ私はそろそろ行くとするわ。あんたもいつまでも突っ立ってないで、さっさと家に帰って晩ご飯の準備でもする事ね」

 はんっ、と。人を見下すような息遣いをこぼした後、彼女は僕の肩を二度叩いてから歩き出した。僕の横をすり抜けるようにして歩いて行く。長い髪が僕の腕に触れた様な気がした。


 僕は考える。

 ある意味で、現実離れしていると思われる、今回の出来事について僕は考えてみる。

 現実離れしているような、でもそれは決して夢世界で発生した出来事では無い、れっきとした現実世界で起きた、そんな今回の出来事について。

 僕もポテトチップは大好きだ。彼女程では無いにしろ、小さい頃にはやっぱり、他に漏れず好んで食べていた。好きな味もあったし、あまり好きでは無い味もあった。でもそれでも、僕はポテトチップが大好きだった。大好きだと胸を張って言えた。それが……彼女程では無いにしても、だ。

 考えてみれば、確かに僕もいつの間にかぐらいの認識で、その異変に……『内容量が減っている』という事実に気付いてはいた。そりゃそうだ。一昔前と比べてみれば一目瞭然な程にやせ細ったそのパッケージ、気付かない方がどうかしていると僕は思う。僕個人はそう思う。だけども僕は……でも僕は……。

 気付かないようにしていた。

 気付かない振りをしていた。

 気付かなくても『良い』と思っていた。

 だってそんな事、よくある事じゃないか。これだけ歩みや進化が止まる事を知らない世の中で、動き続ける世界の中で。それこそ不変不動な物なんてある訳無いじゃないか。今回の事だってそうだ。確かに主観的に見てみれば、それはつまり『内容量が減った』と解釈出来るのかも知れないけれど、一度客観的に見てみた場合、その様相はがらりと音を立てて崩れていくのが手に取るようにしてわかる。僕にはわかる。つまりはこういう事だ。『たまたま過去の内容量が多かっただけ。それがようやく適正な量に落ち着いた』。ただ、それだけなのだ。たったそれだけの事なのだ。

 別に大した事じゃ無い。ましてや見ず知らずの誰かを威嚇し、詰め寄り、頭ごなしに貶してまで主張すべき事柄じゃ無い。過去に何があったのかは知らないが、いや、厳密に言えば知っているのだけれど、知らされてしまったのだけれども、そんな事は知った事じゃ無い。いつもの様に買い物に来た、いつもの様に商品を選んでいた、いつもの様にあれやこれやと考えていた僕にしてみれば、そんな事は知った事じゃ無いんだ。……無いんだ、けれども。

 

 僕は振り返り、去り行こうとする彼女の肩を掴んだ。レジへと、出入り口へと向かう彼女の肩を掴んだ。

 空の買い物かごを持った、彼女の肩を。

 ……ほんと、粉う事無きお節介だよな、これは。


「ちょっと待ってよ」

「! ちょっと……あんたいきなり何すんのよ!」突然の行動に驚いた彼女は、空いた右手で僕の手を振り払おうと勢い良く弾く。でも、僕の手は離れない。

 いや、第一、そんな貧弱な力じゃ離れようが無い。

「ちょっと待ってってば」

「っもう! 全く……何なのよ?」

「どこへ行くのですか?」

「どこって……家に帰るに決まっているじゃない。それ以外に何があるって言うのよ?」一際怪訝そうな表情で僕を睨みつける彼女。でも僕は怯まない。

「家に帰る前にやらなきゃいけない事があるんじゃないですか?」

「はぁ? やらなきゃいけない事? ……はんっ。えらく随分な物言いをしてくれるじゃない、音村のくせに、音村のくせして。……それで? 何よ、やらなきゃいけない事って? あんた、先に言っておいてあげるけどね、ここまでやってしょうもない事を口にするようなら、それこそスーパーに常駐している警備員に突き出すわよ。そりゃいきなり見ず知らずの通行人の肩を、年頃の女性の肩を鷲掴みにしているのだから……覚悟する事ね、坊や」

 ははんっ、と鼻で笑う。僕はそれを確認してから手を離した。もう帰る気は無くしたのだと、判断したからだ。

 だから僕は、喋るのでは無く行動で示した。言いたかった事を、彼女がやるべき事を行動で示してみた。

 僕は棚に陳列してあった『うす塩味』のポテトチップを手に取り、それを彼女の持っている空の買い物かごへと投げ入れた。それから次に『コンソメ味』を、次に『のり塩味』を、同じようにして次々とかごへと投げ入れていく。

 彼女は僕のそんな突然な行動に、呆気に取られていた。何をしているのだと、一体お前は何をしているのだと言わんばかりに。

 僕は構わず投げ入れる。一つ二つ三つに四つ、五つに六つに七つに八っ……つ……。

 そうして八つ目を投げ入れようとした所でとうとうと、そのぽかんと開けられていた口からはついに怒号が飛び出してきた。

「きっ……貴様……貴様は…………貴様は何をやっている!」

 だけど僕は、答えない。

「おい、聞いているのか貴様! 貴様は何をやっているのかと私は聞いているのだ!」口調は荒々しく、その瞳は明らかに激昂しているように思える。

 それでも僕は、答えない。

「ふざけた真似を……! 私がポテトチップを食べる事を止めたのだと、決別したのだと、貴様は知っていて尚そんな行動をとるのか! 尚もそんな愚行を行うのか?! はっ! 愚の骨頂も良い所だよ! あぁあぁ、私の見る目も腐ったもんだね、これは。こんな馬鹿相手に馬鹿な話をしてしまうなんて、なんて馬鹿馬鹿しい。これなら馬と鹿を相手にしている方がよっぽどましだね!」

 でも、それでも尚僕は、答えない。

「聞いているのか?! 貴様……そろそろいい加減にしないと」

 と、ここで僕はようやくにと答えた。

「食べたいのだろう?」僕は答える。「食べたいのだろう? ポテトチップを?」応え続ける。

「っっっ……!」

 核心を突いた。

 狙い澄ました射撃のように、僕の放った一言は彼女の核心を貫いた。

 確信を得た。

 彼女の無言が、それを肯定している。

 肯定せざるを、得ないのだ。

「食べたいから、買いたいからわざわざ来たんだろう? こんなスーパーにまで」

「……は……はっ! な、何を言い出すかと思えば……馬鹿馬鹿しい。本当に貴様は馬鹿馬鹿しい! 私は夕食の材料を買いに来たんだよ。決してポテトチップを買いに来た訳じゃ無い!」

 彼女はうろたえる。そして迷う、探す、嘘を。

 だから僕は、追い込んだ。

「だったら何故? だったら何故手ぶらで帰ろうとしたんだ?」

「うっ…………」

 彼女は肯定せざるを、得ないのだ。

 もはやそれ以外に選択肢は残っていないのだ。

「あのさ、君は買えないんじゃない、買わないだけなんだ。買いたいのに、買わないだけなんだ。……もう一度聞くよ。何故君は夕食の材料を買いに来たのに、何故君は手ぶらで帰ろうとしたんだい?」

 

               『短い後編』


「…………そうだよ、あんたの言う通りだよ。あんたの言う通り、音村さんの言う通りだよ、全く。私は未練がましくも、買わないと誓っているのにも関わらず、その欲望を断ち切る事が出来ない、馬鹿な女なんだよ。だからこうやって用も無いのにお店にやってきては、まるで愛しい我が子を見る様な目でポテトチップを眺め続ける。そんな滑稽でどうしようもない女なんだよ、私は」

 長い沈黙の後に彼女は喋り始めた。そこにはもう気負いも勝気も何も無く、あるのは純粋無垢な、何一つ飾り気の無い彼女自身だけだった。

「笑えば良いよ。笑って笑って笑い過ぎるぐらいに笑えば良いと思うよ。ネタにして、オチにして笑えば良いんだよ、きっと。『実は昨日さ、スーパーで買い物してたら横に変な女がいてな』って具合にね」

 彼女はそう言って、自分のかごに投げ入れられた商品の数々をきちんと棚へと戻していく。そっと、とてもそっと、丁寧に。

「そんな事する訳、無いだろう」

 僕はそう返して、彼女とは対照的に、今度は自分のかごの中へと大量のポテトチップを入れていく。手当たり次第に掴んでいくから選り好みのしようもない。そうやって乱雑に入れていけばすぐにかごは一杯となった。見た目の多さとは反比例する軽いかご。それを彼女の方へと見せ、一言、「じゃあ、行こうか」と僕は言った。

 眉を寄せ目を細め、困惑した様な顔を見せてくる彼女。

「えっ? 行くって……どこへ?」

「決まっているだろう、レジにだよ」

「…………はぁ? ………………………………はっ!」

 彼女は僕の言葉を聞き、何度か咀嚼するようにして思考した後に、いきなりに吐き捨てるようにして言葉を吐いた。そうしてすごい勢いで僕の前へと迫ってきて、胸倉を掴む。強引に、力任せに掴み上げた。

「馬鹿にして……あんたはとことん人を馬鹿にして! 何か? あれか? そうやってポテトチップを買えない、いや、買いたいけれど買わない私の目の前で、そんな哀れで惨めで陳家な私の目の前で、それ程大量のポテトチップを買うとは。見せつけているのか? 見せつけたいのか?! 貴様はこの私に! とんだ鬼畜で畜生だな、貴様は!」

「だからそんな事する訳無いだろう! 聞けよ、人の話を!」

 いつからか乱暴な口調になっている僕の言葉遣いは置いといて、兎にも角にも僕は、僕を力一杯に掴んでいる彼女の右手を払いのけた。「聞けってば!」

「っ! …………何なのよ、何なのよ一体。まだ何か言いたい訳?」

 意外な程簡単に解けてしまった彼女の右手。

 ……いや、って言うか、『まだ何か言いたい』のは君の方だろうが。

 そんな感じでちょっとばかり痛そうに、手首を押さえている彼女に対して僕は、

「……だからね、僕が今しがたこうやって、自分のかごの中に入れたポテトチップ達は決して君への当てつけなんかじゃ無いし、当然僕が自分一人で食べる物でも無い。だってそれはそうだろう? 僕は君じゃ無いんだから。一人でこんな量を食べる事なんて出来やしないし、ましてや人に意地悪出来る程、僕は人間が出来てやいない。良いかい? これはね、僕が自分のかごに入れた大量のポテトチップはね、君の為なんだよ。いや、違うな。そんな押し付けがましくもおこがましいものじゃない。そうだな……これは君の物……お陰? せい? まぁ良く分からないけれど、兎にも角にも、これは君が食べる分なんだよ」と言った。

「………………………」と、彼女。

「………………………」と、これは僕。

「………………………意味が、分からない」と、怪訝。

「だろうね」と、肯定。

「………………………当り前だ」と、こちらも肯定。

「だろうね」と、更に肯定。

「………………………何を考えている?」と、追求。

「さぁね」と、曖昧。

「………………………食えない男だな、あんたは」と、彼女は諦めて、

「でも、ポテトチップは食えるだろう?」と、僕は会話を締めた。


 僕らはそんなやり取りを交わしてから、一緒に仲良くレジへと向かった。空になった彼女のかごの上に僕のかごを重ね、傍から見れば仲睦まじいカップルの様に、二人してレジを通った。

 無作為に選ばれていた全部で八つのポテトチップ。僕はその代金をクレジットカードで支払い、彼女はその間にそれらを全て、綺麗に袋へと詰めた。パンパンに張った買い物袋。まるでこれからパーティーでもするかの様な勢いだった。


 そうして僕らは店を出た。

 初夏、夕暮れ、風の音。

 騒音、夕闇、男女二人。


「さてと、じゃあ僕は自分の食べたい分を一つだけ貰おうかな。残りの七つは君が持って帰れば良いよ」

 そう言って、僕は彼女の持っている買い物袋へと手を伸ばした。半透明の袋には中の文字が透けて見えている。僕は一しきりそれらを確認した後に、『コンソメ味』を持って帰る事に決めた。

 僕は買い物袋の口にへと手を伸ばす。

 でも、しかし。

「ちょ、ちょっと待って」

「うん?」

「ちょっと待ってって言ってるの」

「うん?」

 彼女はいきなりにそう言って、買い物袋を持っている手を引っ込め、僕から遠ざけてしまう。

 ふむ。たった一つだけなのに、僕は種類を選ぶ事さえ出来ないのだろうか?

「あのね……………そ、そうだ。ちょっとあんた。あんた、名前は何て言うの?」

「名前?」僕は訝しげな表情を浮かべた。「名前ならさっき言ったじゃないか。忘れたの? 音村だよ、音村」

「違う、そうじゃない。あんたの名前よ、名前。フルネームを聞いているの」遠ざけていた買い物袋を体の後ろへと回す。

 白のワンピースが風になびいている。

「あぁ、フルネームか。僕の下の名前は薫だよ。音村薫。それが僕の名前だけど……それが一体どうしたんだっていうんだ?」

「ふぅん」それを聞いてニヤニヤと、彼女の表情が変化していく。「薫ねぇ……ふふっ、薫ちゃんねぇ。何だか女の子みたいな名前だよ、あんた。音村薫……字面だけを見れば間違い無く、もしくは九割九分九厘女の子だね、あんた」

 ははんっ、と笑う彼女。

「じゃあ次はあんたの家ね。見たところ仕事の帰りっぽいから……あんたの家はきっとこの近くなんでしょうね。わざわざ家から遠いスーパーで買い物する人なんて、あんまりいないでしょうし。ねぇ、あんたの家はどこなの?」

「い、家? ……んと」そう聞かれ、僕はさすがに少し悩んでしまった。まぁ、でも……良いか。ここまできてしまったら、もう良いか。

 何だ? この清々しいまでの諦めは。

「近いよ。ここから歩いて五分ぐらいの場所にある。見た目は古いけど一応はマンションの、三階に住んでいるよ」

「ふぅん、そう。意外な程に近いのね。意外という言葉以外には言葉が無いのだけれど、まぁ意外だわ。歩いて五分、か」何やら考え込み始めた。名探偵よろしく、右手を顎先に当てながら、呟きながら。

 僕の脳裏には、一抹の不安がよぎっていった。

「ねぇ、ちょっと君」「じゃあ行きましょうか」

 またしても、間髪入れずだった。

 改行すらも、間に合わなかった。

「……行くって、どこへ?」

「決まってるじゃない、あんたの家よ」

「んんっと…………えっ? どうして?」

「決まってるじゃない。ポテトチップを食べる為によ」

「ええっと…………んっ? どうして僕の家で食べるんだい?」

「決まってるじゃない。あんたの家で食べたいからよ」

「ああっと…………うん? どうして………」

「さぁ、行きましょう。『あなた』のお家にね」

 彼女はくるりと踵を返し、悠然と毅然と俄然とした面持ちで、どこぞへと向かって歩き始めた。

「あ、ちょ……ちょっと待てってば!」

 僕はそんな彼女を慌てて追いかける。

 またしても何だ? この破天荒な展開は。予測や予想以前の問題に、そんな選択肢があっただなんて、僕は寡聞にして知らないぞ。

 ……いや、そもそも君は、僕の家の場所を知っているのか?

「あはははっ! 何慌ててるのよ、あなた。もしかして見られてはいけない物が家の中に転がってるって言うの?」

 でもそこで、初めてそこで。

 生命の花が咲いたような、闇夜で星が弾けたような、願いが叶った子供のような、そんな笑顔を彼女は見せた。

 人を馬鹿にしていない、正真正銘の笑顔。

 初めて彼女が笑ったような気がした。

「あら、そうだ。まだ私の名前言ってなかったね? 私は七村ヒカリって言うの。漢数字の七に、市町村の村。そしてカタカナでヒカリ。七村ヒカリ」

 にこりと笑う、七村ヒカリ。

 太陽にも負けないぐらいの、光り輝く笑顔だった。


「音村薫さん、これからはよろしくね」



           『それからの後日談、というかすぐ後の話』

 


 それから僕達二人はゆっくりと十分程かけて、スーパーのすぐ近くにある、僕が住んでいるマンションへと歩いて行った。異様にテンションの高い彼女を横目に、僕は必死に隠すべき物、整理すべき物のリストを頭の中で作成していたのだけれど、そんな事は知った事かと、ヒカリは僕の部屋の前に着くなりに、『さっさと開けなさいよ、薫さん』と言って部屋へと転がりこんでしまった。

 だから僕は、彼女の視界を遮りながらも一所懸命に、隠すべき物を隠し、整理すべき物を整理した訳なのだけれど、またしてもそんな事は知った事かと、ヒカリはただただソファの上に座り、買ってきたばかりのポテトチップを眺めているだけだった。

 全くもって勝手だなとは思いながらも、その様子に一種の安堵感を覚えながらにして作業を終わらした僕は、テーブルを挟んで彼女の前へと座り、そうして一緒にポテトチップを眺めてみた。

 まぁぶっちゃければ僕にはやっぱり、そこに並べられている八つのポテトチップは例外も異例も無くただの八つのポテトチップでしか無かった訳なのだけれど、眩しいぐらいに目をキラキラウルウルさせている彼女に対して、よもやそんな事が言えるはずも無かった。

 そうやって、僕も一緒になって眺め始めてから五分が経過し、十分が経過した。その間ヒカリは一言も発さずに、ただひたすらにポテトチップを眺め続けていた。

 長くて緩い気の持ち主であるさすがの僕も、そんな状況にはいつまでも耐えられる訳も無く、遂にと言った感じで時計の針が十五分経過を教えてくれた所で僕は口を開いた……いや、正確には口を開こうとした所で、不意にお腹の鳴る音がした。静寂を引き裂くような、『ぐぅー』。

 それはもちろん、ヒカリのお腹発信だ。

 

 結局はその音を合図にして、僕達二人はポテトチップを食べ始めた。別々の袋を同時に開けるのでは無く、一つの袋の背を破いて大きく開き、そうして仲良く一つのポテトチップを食べ始めたのだ。

 僕はここ最近食べ慣れていなかったせいもあって、二袋目でギブアップしたのだけれど、彼女は今までのブランクを取り戻すかのようにして三袋目、四袋目を次々に開けては完食していった。たぶん、僕が心配になって止めに入らなければきっと(いや、正確に言えば止めに入っても止まらなかったので、強制的にポテトチップを取り上げたのだけれど)八袋全てを食べていた事だろう。……全く、何て食欲、何てポテトチップ愛なんだ。

 ちなみに余談ではあるけれど、ポテトチップを食べている最中の彼女は驚く程に『えっ、これがあのヒカリさんなのですか?』と言われそうな程に可愛く、無邪気で、快活で、健気だった。まるで子供の頃へと帰ったようだった。

 そうやって今は満足したのだろう、ヒカリは僕の家のソファで、指を咥えながら眠りこけている。

 僕はそれを横目で見ながら、どうしたものかと悩んでいる。

 ……全く、良い迷惑だよ、本当に。


 だから僕は考える。

 本日仕事帰りに立ち寄った、スーパー内での出来事について考えてみる。

 様々な情景を思い返し、そこに張られた伏線やら糸口やらを見出しては思考してみる。

 そうやって考えに考えて、考えられるだけ考えてみるのだけれど、でも辿り着く先というのか答えというのは結局のところ、一つだけだった。それ以外には何一つとして確信なり手応えなりを感じられる解は無かった。


 ある場所にポテトチップを愛して止まない女がいて、それがある時に、些細で重大な事件を発端としてその『ポテトチップ愛』と決別した女がいた。それから無情にも年月は流れ、決別は溝となり確執となっていったのだけれど、偶然ある場所でのある男との出会いがきっかけとなり、その失っていた『ポテトチップ愛』を取り戻した女がいた。

 その際にひどくねじ曲がってしまっていた性格も元へと戻り、重要なキーの役割を果たした男の呼称方法を『あんた』から『あなた』へと訂正した。

ただ、それだけの事だったのだ。


 その他には何も無い。

 それ以外には何も無い。


 人生は小説よりも奇なり。

 ポテトチップはメーカーの策略よりも愛なり。


 ……馬鹿馬鹿しいけど、格言だ。

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめましてスクロールと言います。 ものすごい文章量の会話に圧倒されました笑 ポテトチップスにこれだけ語るところがあるとは・・・ 七村さんはポテトチップスに対してツンデレだったんですね ポテ…
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