大忙しの転職
「マリナ、本当に辞めるの?」
そう声をかけてきたのは同じころにメイドになったエリーだった。心配そうな表情をしているけれど、その声にはどこか喜色が滲んでいる。
マリナとエリーは別に仲が良いわけではない、どころかエリーにとってマリナは目の上のたん瘤みたいなものだったから、辞めていなくなるとなって嬉しいのだろう。
「えぇ辞めるわ」
「そんな、一体どうして」
邪魔者がいなくなるという事実に喜びが隠しきれていない。
露骨に喜びはしていないが、しかし隠しきれていない時点で詰めが甘いな……とマリナとしては思うものの、それを指摘してやる義理もなかった。
心配そうな態度をしてはいるけれどあわよくば辞める理由を深く掘り下げて聞いて、マリナの不幸につながりそうなネタがないかを探ろうとしているのは今後のメイド仲間たちとの笑い話にしようとしているからだろうか。
別に家で何かがあって急遽辞めて戻ってこいと言われているだとか、密かに大きな失態をしでかして辞めるように言われたからだとか、そんな話ではない。
ここを辞めると決めたのは単純に――
「八つ当たりを受けたくはないから、かしらね?」
「なによそれ」
辞める理由とするには、そんな事で? と言われそうなものではある。
「あとマトモにお給金が出るかもわからないし」
「ちょっと、何の話よ一体」
「情報って大事よね」
にっこりと笑って言えば、エリーは苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。
「……休憩時間に、アップルパイで」
ぐぬぬ、と今にも歯ぎしりしそうに呻きながらも、エリーはマリナに向けて指を一本突き付けた。
アップルパイはエリーの好物で、先日何やら交渉の末に料理長に作ってもらう約束をしていたもので、そのアップルパイが今日貰えるという話だった。休憩時間に堪能するの、と喜びに満ちた様子で浮かれて周囲に話していたからマリナも知っている。
その好物のアップルパイを差し出してまで知りたいらしい。
マリナの言い方が何やら不穏なものであるから、というのもあったからだろうか。
マリナが自分の失敗で辞める事になるくらいならエリーにしてみれば面白いネタをゲットできたと思えるものかもしれないが、辞める原因が他にあってもしかしたら自分もまきこまれるかもしれないとなると、知らないままでいる方が危うい。
エリーがマリナを嫌っているというか、一方的にライバル視しているのをマリナは知った上で放置していた。
別に仕事で足を引っ張ってくるような事をしてきたわけではないし、精々がちょっと嫌味な物言いをしてくるだとか、勝手にどっちがより仕事を片付けられるか競争よ! と挑んでくるくらいでマリナからすれば可愛らしいものだからだ。
向こうがこっちをライバル視しているから、親切にそこはこうした方が……なんてアドバイスをするとムキになって聞き入れてくれなかったりと面倒な部分もあるにはあるが、扱い方を知ってしまえばマリナにとってエリーはとても楽な相手。
「そう、それじゃ無駄話はしないで手早く片付けましょう」
「わ、わわわ、わかってるわよぅ!」
そう言いはしたものの、マリナの仕事は既に終わっている。
エリーの割り振られた仕事はあとちょっとなので、エリーは大急ぎで残りを片付け始めた。
「――それで、八つ当たりってなんの話よ」
仕事を片付けて使用人用の休憩室、エリーは料理長から受け取ったアップルパイを乗せた皿を持ってやってくるなり言い放った。
本当なら独り占めする予定だったアップルパイ。それをナイフで半分に切り分けて――実際切り分ける時に半分よりちょっと多めに切ろうと悩んでいたようだが、葛藤の末にきっちり半分だった――断腸の思いだとばかりに皿をぐっとマリナに押しやる。
押しやられた皿の上のアップルパイを見て、マリナは更に半分に切り分ける。
「生憎と甘いものはあんまりいらないからこれだけでいいわ」
言いながら切り分けた半分をそっとエリーの皿に戻せば、エリーはパッと表情を輝かせた。
なんともお手軽な娘である。一応エリーの方が年齢は一つとはいえ上なのだがなんだか妹を見ているような気分だった。
露骨に喜んでしまった事に気付いたのか、エリーはすぐさま顔を背けて「んんっ」と軽く咳払いをする。誤魔化そうとしているのがバレバレだった。
「なんの、って……貴方本当に情報収集とかしてないの? 近々お嬢様が帰ってくるのよ」
「お嬢様が? 帰ってくるからってそれは別に……八つ当たりされるような事がある?」
きょとんとした表情のエリーにマリナは、
(本当に大丈夫かしらこの子……)
思わず心配してしまう。
情報というのは大事だ。
貴族にとってはその情報の使い方次第で上にいったり下にいったり大忙しだし、平民であってもある程度世間の流れを把握しておかないと、最悪命を落とす事にもなりかねない。
戦争が起きるかもしれない、なんてキナ臭いものを知らないままだとある日巻き込まれて……なんて事もあり得るし、危険な出来事が起こり得るかもしれないという以外だと商人などは世間の流行を把握しておかないと商売で儲ける機会を逃してしまう事にもなってしまう。
世間の流れを一切知らないなんていうのは人里離れた場所でひっそりと暮らす世捨て人くらいだろうか。
いや、世捨て人であっても自分が平穏に過ごすために多少なりとも把握するだろうけれど。
さておき、自分が働いている屋敷の事だというのにあまりにも何も知らないエリーにマリナはなんだか不安になってきた。
「お嬢様が学園に入学してそろそろ卒業ってなってるのはわかる?」
「わかってるわよそれくらい」
「じゃあお嬢様がどの科にいるかは?」
「え? お嬢様騎士になりたいって言ってたんだから、当然騎士科でしょ」
「そう、騎士科。元々お嬢様に淑女科は無理って奥様も匙を投げたものね」
「うーん、昔からお転婆だったって言われてるものね」
マリナとエリーはほぼ同じ時期にこの屋敷のメイドとして働きだしたが、古参という程でもない。
お嬢様――アニタ・ジョエルスが学園に入学するより前に働いてはいるが、勤め始めて大体五年程だろうか。他の使用人たちと比べると新参扱いである。
それもあって、料理長あたりからエリーは可愛がられている部分もあるのだが。
なんでも死んだ娘に似ているとかどうとかで。
ただ、他の使用人たちも今後の事を考えてこの屋敷を辞する方向性で決めている者もいる。料理長もその一人だ。料理長がエリーを甘やかしているのは、恐らく辞めてしまえば今後会う機会もないと思っているからというのもあるのだろう。
紹介状を貰うにしても、また同じ場所で働ける可能性は低いのだから。
「お嬢様、お顔はどちらかといえば美人だけど、結構思った事ズバズバ言っちゃうし自分が上にいないと気が済まない部分もあるでしょ」
「でもお嬢様なんだから、そういうものじゃない?」
「それでも貴族の通う学園にいけば、お嬢様より身分が上の方々なんてそれこそ大勢いるし、それなのにそれらを押しのけたら顰蹙買うでしょ」
「えぇ? そうかなぁ? お嬢様騎士科にいってるなら、淑女科のお嬢様たちとは違うわけなんだし、むしろ男装の麗人みたいにきゃーきゃー言われるんじゃない?」
「既にいるのよ、完璧とも言える男装の麗人」
「うっそ」
「しかも公爵家の三女。お嬢様じゃどう頑張っても勝ち目無し」
「えーっ!?」
「その男装の麗人がお嬢様を見てあぁこれは駄目だわ、と評価を下してしまったの」
「なんでそんな事知ってるの」
「姉が学園で教師やってるから手紙で色々近況をね」
「なぁるほどぉ……えっ、でもそれでなんで八つ当たりに繋がるの」
そこからか、とマリナは内心でこの子本当に大丈夫かしら……と既に思った事を改めて思う。
マリナと違ってエリーは平民だ。といってもマリナの家だって貧乏子だくさんを絵に描いたみたいなところで子供たち全員を学園に通わせられなかったのでこうしてマリナは働いている。
エリーの家庭環境を詳しくマリナは聞いていないが、それでもお金に困って働き口を探してやっとの事でみつけた職だと言っていた気がする。平民である以上、貴族に関して幼い頃に親や周囲から聞かされているだろうし実際エリーは何も知らないわけではない、はずなのにどうしてそこら辺すっぽ抜けてるのかとマリナからすれば不思議で仕方がないのだ。
「お嬢様は騎士を目指してるわけよね?」
「それはわかってる」
「騎士がお仕えする相手ってどなた」
「それは王様とか王女様とか、それに近しい尊いお方なんじゃ……?」
「騎士の大半は男性だけど、女性がなれないわけじゃない。
護衛対象の女性が男性を苦手に思う場合、女性騎士が護衛につくなんて事もあるから」
「うん、それは……うん、わかるわ」
「でもね、お嬢様はその道を絶たれてしまったの」
「えっ、一体どうして」
「絶たれたっていうか自ら絶ったって感じなんだけど……
まずお嬢様は同じ騎士科の令息と仲良くなりました」
「将来肩を並べる相手との出会いね」
「それならマシだったんだけどね……その令息には婚約者がいました」
「うん? いたから、どうなの?」
「婚約者がいるのに違う女が近くにいたら、婚約者からしたら面白くないでしょ」
「あっ、それは……確かに!」
わたしも自分の恋人に違う女が近づいてたらヤだなって思うわ、なんて言っているので幸いな事にエリーは弁えている方だった。
「令息はお嬢様の事を友人だと言っていたみたい」
「性別を超えた男女の友情ってやつね。え、でも、今言ったのを思い返すとそれって」
「こいつは男友達みたいなものだから、って言ってたみたいよ、令息」
「お嬢様はそれを良しとしてたの?」
「どうやらね。お嬢様はほら、元々お転婆だったしそういう男勝りな部分もあったから。でも、お嬢様はもしかしたらその令息の事を異性として好きだったのかもしれない」
「そうなの?」
「学園の噂を集めた結果姉がそう思えた、ってだけで実際は違うかもしれない。
令息はお嬢様の事を気に入ってたのか、婚約者よりお嬢様を優先する事もあったみたい」
「優先ってたとえば?」
「武具に使う道具を休日に一緒に見に行くとか、馬で遠乗りとか。相手の令息も思い切り身体を動かしたい時があって、それで婚約者のご令嬢よりそっちを優先しただけなのかもしれない。でもそこにお嬢様が一緒だと」
「それ婚約者から見たら浮気じゃない?」
「よりにもよってそれでお嬢様が自分の方が上だってマウントとっちゃったみたいなのよ」
「えっ」
ここまで語ってようやくエリーは状況の不味さに気付いたらしい。
「どうやら令息の方もちょっと考えの足りない方だったらしくて。婚約は解消」
「婚約者のご令嬢からすると、それは良い事……?」
「どうでしょうね。次の婚約者が見つからない、なんて事になれば色々と苦労をするかもしれない」
「婚約者のご令嬢が令息の事を好きだった、とかだと災難ね」
「その場合お嬢様が割り込んだも同然なんだから、もっと大変な事になってたわよ。この家も」
「……それは確かに」
浮気からの婚約破棄、そして慰謝料。
そういった流れをエリーも想像したらしい。
もしそうなっていたらこの家の財政は傾いて使用人なんて雇っていられないだろう。
「婚約は破棄じゃなくて解消だからそこまで揉めるような事にはならなかったみたいだけど、でも。
令息もお嬢様も騎士としてやっていけるかっていうと、無理よね?」
「そうなの?」
「令息の方はまだギリギリどうにかなるかもしれないけれど、でも出世は無理ね」
「そうなの?」
「婚約って一種の契約だもの。解消とはいえそこに至った流れを知れば周囲は令息の事を信用するの躊躇うでしょうね」
「あぁ、そっかぁ……」
「だから騎士になれたとしても王家に関わるような近衛とか無理でしょうし、他の高位身分の家の私設騎士団に所属するにしても、多分マトモな家は断ると思う。
それでも入れたとして、出世するには相当苦労しないと難しいかも。精神面とか人間性とかに難あり、ってなっちゃうと実力だけでのし上がるってわけにもねぇ……」
「あー、確かに力ばっかりあってもそれをちゃんと使ってくれるかわかんない相手に命を預けたくはないかも」
信用できる相手が強ければ頼もしいが、その逆で信用できない相手が力を正しく扱うかわからないとなれば不安に思うのは当然だろう。
「まぁでもね? 令息はまだ最終的に冒険者としてやっていくっていう実力があるならのし上がれる道筋があるの。問題はお嬢様よ」
「お嬢様も令息と同じようになるって事?」
「むしろお嬢様は騎士になれない」
「なんで?」
「今までの話思い返してごらんなさいな。
お嬢様は令息の婚約者相手にマウントかましちゃったの。それでご令嬢から顰蹙買って、挙句に他のご令嬢の方々にもその噂が広まって女性陣からそっぽ向かれてるの。
公爵家の三女からもこれは駄目って評価下されてるのよ?」
「あっ、それじゃ確かに他の家の私設騎士団にも入れないわ」
「理解できたようね。公爵家の人から駄目って評価が出た時点で、しかも婚約者がいるのにも関わらず馴れ馴れしく近づいて振る舞うような相手、仮に騎士になったとして近くに置きたいなんて女性いないわ。だって他の男性にも同じ事をするかもしれないもの。
もし仮にどこかの家で騎士として仕えたとしてその家の旦那様に色目を使うかもしれない、とか奥様が勘繰ったっておかしくないでしょ?」
「お嬢様の男性の好みとしては趣味じゃない、って言ったところで信じてはもらえなさそう」
「既にやらかした実績がある以上、口で否定したところで本当にそうかしら、って疑われるのは避けられない」
「そうよね、一度失敗しちゃうと、次失敗してなくても一応念のため確認はしっかりされたりするものね」
「どの家のご令嬢もお嬢様を身近に置きたいとは思わない。この時点で大半の就職先を失ったも同然。
じゃあ、他の家ならどうだろう、ってなるけどお嬢様の実力って突き抜けてるとかではなくて、どこまでも平均らしくて」
「ご令嬢の家以外ってなると……男性相手の護衛とかそういう? いやぁ、無理じゃない?
お坊ちゃんの護衛に女の人とか、物語ならいいけど現実だとちょっと勘繰っちゃうかも。
実力が平凡とか、だったらもっと強い人置きたいわ。男の騎士の方がまだマシじゃない?」
公爵家のご令嬢が駄目だわ、と言った時点で王家がアニタを近衛騎士にするような未来は絶対にない。
「そもそも公爵家のご令嬢、実力がずば抜けていて学園を卒業後はプリンセスガード確定らしいのよ」
「近衛とはまた違うけどほぼ近衛では?」
「そこから駄目出しされた時点で、そんなのを受け入れたらそっち側からの印象は良くないでしょう?
そうまでしてお嬢様を引き取るメリットが他家にはない」
「あ、いや、でも、騎士としてじゃなくてお嫁さんとか」
「本当にあると思う?」
「ないわね」
最初はわけがわかっていない様子のエリーだったが、話をしていくうちに彼女の中でも情報が組み立てられていって、学園にいるお嬢様の状況が把握されつつあるとなれば。
「騎士科にいる時点でどこかの家の跡取りの妻としても、貴族夫人として務まるか……微妙でしょ」
「そうよね、この家の奥様だって別にただお茶飲んで優雅に微笑んでるわけじゃないのだし」
典型的な想像上の貴族といえば、豪華な服を着て優雅に微笑んで美味しいお茶やお菓子、食事を堪能して過ごすまさに毎日が至れり尽くせりのようなもの。実際エリーだって最初の頃はそれを想像していた。
しかし実際家を取り仕切るのは夫人だ。
ビシバシテキパキ指示を飛ばす奥様にエリーが圧倒されていたのも今となってはいい思い出である。
ただの我侭であれやってこれやってと言ってるわけじゃないのはエリーだってすぐに理解できた。
「それでなくても、夫人となって家を取りまとめて、周囲の家との縁を深めるにしたってよ?
既に大半の同世代の女性から嫌われてるお嬢様を妻にして、その家に何の得があるっていうの?」
「むしろ不利益しかない」
「じゃあ、男性ならって思うけど結婚した後で夫以外の男性に積極的に声をかける女ってどうかしら?」
「あばずれって思われるわね」
「騎士としても実力はどこにでもいそうなレベル。夫人に迎えるには不利益しかない。愛人としてなら、って思っても女なんて年とったら見た目も若さもなくなるんだから、そうなったら」
「若い頃に敵ばっか作っていい噂を聞かないババアの出来上がり」
「仮に愛人の座におさまったところで、そうなったら」
「捨てられるでしょうね。取り柄だった見た目と若さが消えたらいいとこゼロだもの」
仮にも現在お仕えしている家のお嬢様相手の発言ではないけれど、この場にいるのは二人だけで咎める者もいない。それに、周囲も直接口に出してはいないけれど多分内心ではそう思っているはずだ。
実際王都から流れてきた噂でお嬢様の両親はその噂の真偽を確認するべく色々な伝手から調べていたし、それが事実と知ってこの家はおしまいだとなりつつある。
この家の子どもはお嬢様だけで、いずれこの家は親戚から誰かを迎えて……と考えていたようだけどでもこうなったら、こんな家を継ぎたいなんて奇特な人物は現れない。
「このままだと近々爵位を返す事になるか、身分も何もかもを捨てて他の国へ移住するか……お嬢様への対処次第ではそうなる確率が高いでしょうね」
「あっ、でもそうしたらお嬢様は」
「そう。両親からは確実に叱られるし、結婚も国内では絶望的。かといって他国に縁があるでもない。家に閉じ込められるだけで済むはずもないし、そうなればすぐに現実を理解できないお嬢様は」
「立場の低い使用人へ八つ当たり、ってわけね。成程、そういうこと……」
マリナの言っていた意味をここで完全に理解したエリーは深く頷いた。
「どこに出しても恥ずかしい存在になっちゃうのね……だから皆最近そわそわしてたのか……」
「理解できた? それなら貴方も早めに今後の身の振り方を考えた方がいいわよ。今ならギリギリ旦那様か奥様も紹介状の手配くらいはしてくれるでしょうし」
「あれ? なんでその話屋敷の中で広まってなかったの?」
「なんでってそりゃあ……誰もいなくなったら困るでしょ?
最低限のお仕事をしてくれる人くらいは残ってくれないと奥様や旦那様が自分で身の回りの事をするわけないもの。かといってお嬢様は……下手に自由にさせて屋敷から出ていかれたら不味いっていうのはわかりきった事だし」
けろっとした表情のマリナを見て、エリーは自分の表情が強張るのを感じていた。
最初はちょっと邪魔だなぁと思っていたマリナが辞めると聞いて、そうしたら今までのマリナの立場に自分がなる事もできるのではないかと考えていた。ところが実際はどうだ。
そういった話をわざわざ知らせてくれるでもなく、マリナがあえて教えてくれなければエリーは意気揚々とマリナが屋敷を出ていくのを見送って、それから――
他にも辞めると言っていた者はいる。
そちらについては素直に寂しくなると思っていた。
けれど、辞める理由がいかにもそれらしくて、エリーはこれっぽっちもおかしいと思わなかった。
マリナに関しては、辞めるような理由がなさそうなのと辞めるにしてもどうして今なのか、と考えた結果に過ぎない。家族に何か不幸があって実家に戻るとか、そういう話でもなかったのだ。
これ以上は付き合いきれない、と判断した者たちは早々に屋敷を辞するために動き始めていた。
最後までお供いたします……と覚悟をした者もいるとは思うが、エリーが思う限りでは恐らくそれは庭師夫妻くらいだろうか。庭師の夫婦は幼い頃からずっと仕えてきたという話だし、他に行くアテがない可能性も高く、であれば最後まで……と考えるかもしれない。
次の仕事先があるならそちらでやっていけそうな者はこの屋敷にしがみつくよりは……と考えるのも自然な流れだ。
旦那様も奥様も、一緒に泥船で沈んでちょうだいなんてみっともない事は言い出さないだろうし。
「今からでも紹介状とか、言ったら貰えるかしら?」
「……まぁ、貴方ならかろうじてアテはあるんじゃない?」
引きつった笑みでもって問いかけられて、マリナは少し考えた。
あれだけ自分が出ていく事を嬉々としていたが、残る方が後々大変な事になると悟った今となってはエリーもマリナと同じように早々に屋敷を辞するべき、と考えたのだろう。
マリナは実家の伝手があるから紹介状を貰ってはいないけれど、他の使用人たちは一応もらえてはいたようなのでエリーも言えば貰えるとは思う。
ただエリーは平民なので、行くアテが相当限られるだろうな、と思ったからマリナは断言まではしなかったが。
多少の失敗をする事はあるけれど、勤務態度は真面目な方だ。
使用人としてのアテがなくとも、彼女なら貴族の家以外の就職先もどうにかなりそうではある。
話の合間合間で食べていたアップルパイの最後の一欠けらを口へ運んで咀嚼する。
リンゴだけではなくカスタードクリームもたっぷり入ったパイは、マリナの想像以上に甘かった。
「じゃあちょっと……行ってくるわ。流石にここに残って荒れに荒れたお嬢様の面倒とか見れる気しないし」
「そうね、もし暴れるような事になったら貴方じゃ太刀打ちできそうにないものね」
「そうだった、相手は騎士科で訓練してるお嬢様だ……!」
八つ当たりが激しいものであれば、日常に支障をきたす怪我をするかもしれない。
そんな風に考えたのだろう。
エリーはそそくさと席を立つと、いつも以上に素早い動きで休憩室を出ていった。
「あらあら、皿の片付けを押し付けられてしまったようね」
言うだけ言ってはみたものの、マリナは別にそれをなんとも思っていなかった。むしろこうなるだろうなと予想していたので、エリーの分も片付ける事に関しては構わない。
なんだかんだで甘いアップルパイがあったエリーの皿の上には何も残っていなかった。
夢のように甘いお菓子ではあるけれど。
現実を直視した時点で最早そんな甘さはなんの慰めにもなっていない。
割と頻繁に突っかかってくる事もあったエリーではあるけれど。
マリナは邪魔だなぁとまでは思っていない。だからあえて教えたのだし。
「どうにかなるといいんだけど……」
呟いて、マリナは片付けるべく皿をそっと重ねたのであった。
次回短編予告
聖女に恋をした王子はある日側近たちを呼び出した。
婚約者との仲を終わらせて、聖女とどうにかして結ばれたい。
そのために協力してほしい、と。
次回 その愛の味方にはなれません
事前に連絡してくれるのはいいけれど、だからいいか、と聞かれると……




