表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

サイノクニ

医師

作者: 斉藤周二
掲載日:2026/05/04

 白衣を着ていなければ看護師だと思っただろう。木目調の丸テーブル、淡いグリーンの折り畳み椅子、壁掛けの液晶テレビ、ボスの青い自動販売機、ブラインドの降りた四階の窓と、その手前のテレビカード販売機。そんなちょっとしたラウンジのような空間にすたすたと現れたのは、小さく細く若い、女性の医師だった。医師は名札を示しながら内科医であることと、珍しい類の姓を名乗った。落ち着いて柔らかい、よい声だった。


 熱発、足のむくみ、意識障害、脳梗塞、お薬手帳、要介護3、デイサービス、今まで大きな病気は、入院手術は、八十一歳女性の方、九十二パーセント、鼻カニューラ、紹介状、認知症以外のご病気は、今の意識の状態は、周りの方でコロナになっていらっしゃる方とかって、放射線、心電図、救急外来、同一製剤、おむつプラン。

 そうした言葉たちが行き交う中、俺は同じ質問に答え続け、説明を繰り返し続け、署名をし続け、そして待ち続けた。終始感じていたのは息苦しさで、時おりの緊張、時おりの退屈、いくらかの孤独感、煙草を持ってくればよかったという後悔、そうした感情を交えながら、ひとりになればうなだれ、ため息をつき、首を後ろに倒し、あるいは左右に振りながら、俺は俺なりの機能を果たし、ようやくここに辿り着いた。

 包括の担当者とケアマネージャーが家に様子を見に来てくれたのは午前九時だった。午前十一時にひとつめの病院に着き、午後一時にこの病院に着き、一階の陰圧室前の通路で待っている間に、少しだけ開いた半透明の窓の向こうに午後二時半の小学生の下校時刻の放送を聞いた。時間はなかなか進まなかった。今はようやく午後四時を過ぎていた。

 いくらかの印象は残っていた。瞳に向けられる紫色のペンライト、処置室のスティール棚に置かれていた『今日の治療薬』、運び上げられるストレッチャーで揺れる点滴棒、女性看護師のパルスオキシメータについていた鈴。二度乗った救急車内でぴこぴこと鳴り続けていたベッドサイドモニタの心拍同期音には気が滅入ったが、鳴らなくなったらなったでさらに気が滅入る類の音ではあるのだろう。人が死に近づいていくプロセスというのは 厭なものだった。自分の死を理解していない類の人間の死のプロセスはなおさらだ。逃げたい。逃げられるものなら逃げたかった。


 スタッフステーションではぴこんぴこんと機器が鳴り続けていた。医師は俺の左斜め前に腰を下ろした。搬送、転送、そんな確認のあと、病状の説明に入った。コロナウイルスが陽性であることは、すでに別の医師から聞いていた。

「調べてみると、肺炎がしっかりあるんですね。コロナでも肺炎は起きるんですけれども、ばい菌の肺炎もちょっとあるかもしれないと思いまして――」

 肺炎球菌の尿検査が陽性。俺は曖昧に頷いた。

「肺炎球菌の肺炎は高齢者に多いんですけれども、もしそれが本当に起こっていた場合、かなり重篤になる可能性があります」

 頷きながら、俺は医師の話し方に好感を持った。事実は事実、意見は意見、仮定は仮定、可能性は可能性。あるものはある。ないものはない。医師はごく普通に話し始めた。リアリストだ、と俺は思った。それは望ましいことだった。

「今お話した感じ、意識ははっきりされているんですけども、けっこう、その、肺炎がひどいので、今後さらに進行してくる可能性があるかなとは思っています」

 今まで入院されたことはない、認知症以外の大きなご病気はないと拝見していまして、そんな確認のあと、医師は続けた。

「ただ、ご高齢には間違いないので、入院中、たとえばですね、急変してしまうことがあるとは思うんです」

「はい」

「そうした場合に、いわゆる延命処置、心臓マッサージであったり、気管挿管を行うかどうかっていうのは、お考えになられたことはありますか」

 思い浮かんだのは教習所の応急救護講習で人形に施した胸骨圧迫であり、延命処置としての心臓マッサージというのがどういうものかはわからなかったが、いずれにせよ俺は素直に答えた――特に考えたことはなかったです。医師は頷き、話を続けた。

「ご高齢ということもありまして、生命の機能とか、臓器の予備能というのは、だんだん下がってきてしまうものなんですね。体力もだんだんなくなってくるものだと思うんですけれども、たとえば肺炎がひどくなったりですとか、ご自身の治癒力よりも大きなイベントが起こってしまった場合、延命処置を行ってもご本人の体力だと元に戻る可能性というのは、かなり低くなってしまうんですね。そうした場合に心臓マッサージや気管挿管を行っても、本人がただ苦しいだけという可能性が高いんですね。なので、そういうときの処置をどうするかというのを、お伺いしているんですけれども――」

 俺は考え、言葉を選びながら、たどたどしく答えた。無理、なことは、しない、方がいい、という考え方ですね――。


 自然な流れで。


 選んでいたのはそういう言葉だった。生まれることも生きることも死ぬことも、自然な流れに過ぎない。これまでに重ねてきた生死に関する思考は、少なくとも理念上はそういう認識に達していた。医師は何度も頷き、それから言った。そしたら、元に戻る可能性が低い場合の心臓マッサージと気管挿管は行わないという方針で共有させていただきます――。


 それから、改めて病状と治療の具体的な内容についての説明がなされた。

 血栓の数値はそんなに高くは――酸素が必要な状況でして――一時的にステロイドのお薬を――炎症を抑える効果が――肺炎球菌に関しては――血液データと画像の所見からは――重症の部類に入るかなとは思いますので――なにかあったらすぐにご連絡いたしますので――。

 俺は医師の言葉に相槌を打ち続けた。俺がやるべきことは事実を事実として承知するだけであり、付け加えるべきことも差し引くべきこともなかった。話しながら、医師はA4サイズの白紙に文字を書いていった。


  コロナ 点滴 抗ウイルス薬 ステロイド 血液サラサラ 肺炎球菌 抗生物質


 小さく控えめで、いくらかの癖があるが、読みにくくはない文字だった。俺が知っている本当に賢い人間たちが、これと似た文字を書いていた。俺は医師の細い腕に残る火傷か薬傷の跡を、なんとない敬意を持って眺めた。


 リハビリテーションの話を終えて医師は去り、看護師が戻ってきた。退院支援計画書、ソーシャルワーカー、4階のD病棟、女性の大部屋、COVID、所属長、身体行動制限、譫妄、革製の手袋、心肺蘇生、主治医、病状説明、日常生活動作、退院目標、適切な場所に退院ができるように――。俺はまた頷き続け、チェックボックスにチェックを入れ、署名をした。


 母親の目は救急車の車内灯の白い光を映していた。小さい獣のような、黒く、澄んだ、きれいな目だった。顔を向けられ、その目で見られることは辛かった。


 控えをとって戻ってきた看護師から書類を受け取り、看護師に見送られてエレヴェイターで二階に降り、入院サポートセンターで手続きを終えて一階に降り、手を消毒して外に出た。疲れた、と脳内で呟き、息をついた。外は涼しくて気持ちがよかった。穏やかできれいな夕だった。長い一日だった。

 帰り道はわかっていた。春に鴨を眺めた川がそこに流れていることも知っていた。けやきの葉は黄や橙に染まっていた。まばらな夕雲の底が炎色に照らされていた。俺は医師についてなにかを思いながら駅の方向に歩き始めた。それから、ケアマネージャーとデイサービスに連絡しないとな、と思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ