第二節 『惜別の朝に』
あの日以降、国中を霧のような靄が覆っていた。
晴れの日も、曇りの日も、雨の日も。いかなる天候であっても、それは変わることなく、圧倒的な存在感を放ち続けていた。
「あれから二ヶ月……。さらに瘴気が濃くなっておる」
観るだけで理解できる。
──あれは、触れてはならぬものだ。
「まさか、龍族の生命力を喰らうておるのか?」
肌が粟立つ感覚に、思わず両腕を抱きしめ、小刻みに身を震わせた。
「まるで、瘴気そのものが生きているようだ……」
幸いにも、わらわのいる封印禁地には、あの瘴気は侵入できぬ様子であった。
おそらく、ここがかつて聖戦の終焉地であったことが、その理由なのだろう。
わらわの身体から今も溢れ出る放射能ですら、この地では空気に触れた途端に無に還る。
肉体を持たぬ瘴気など、わらわの放射能と同じ。
──無に帰す対象なのだ。
とはいえ、そう呑気にもしてはいられぬ。
この地は無事でも、それ以外の地は、すでに……。
「都は……父上は……龍民は、無事なのか……?」
今も龍の生命力を喰らい続けているのなら──。
このまま放っておけば、やがて九龍は滅びるだろう。
「──させぬ!」
わらわはここに、強い決意を表明する!
「そんなことは、わらわが断じて許さん!」
母上が生涯愛したこの国を、未曾有の危機から救うために!
「貴様の瘴気! 九龍の龍皇女──蔡蕈霸が、根こそぎに喰らうてやろうぞ!」
思い立ったが吉日。
わらわは国の掟を破り、封印禁地の外へ出ることを決めた。
荷は持たぬ。
着替えも、食糧も、下着すらも持たぬ。
最悪、下着など履かずともよい。
母上の形見である──唐紅の中華女服さえ身に纏えば、それでよい。
他のものなど、現地でどうとでもなる。
「母上、わらわは国を救いに参ります。この呪われし力は、きっとこの時のために授けられたものなのでしょう。これこそが、わらわの天命に違いありませぬ」
黒曜石の墓標の前で、わらわは安らかに眠る母上へ、出立の祈りを捧げた。
背筋を伸ばし、踵を揃え、爪先は外側へ向け、顎を引き、両手を豊満な胸の前に掲げて、右拳を左掌で包み込む。
九龍式の最敬礼──拱手礼で。
「母上──どうか、この国の民をお守りください。わらわの呪いからも、そしてこの瘴気からも……」
長き祈りの末、わらわは静かに瞼開いた。
黒曜石の墓標に映る己の姿が、微かに揺らめいている。
それは、まるで母上が微笑みを返してくださっているかのように見えた。
胸の奥が熱くなる。それでも涙は零さぬ。
涙は、弱さの証ではなく、母上への感謝の証として心に留おくのだ。
「それでは、行って参ります」
わらわは一歩、また一歩と後ずさりし、やがて背を向けた。
振り返らない。
この日、この時を境に、星禁城を去る。
それが、わらわの選んだ覚悟だった。
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