オタクを辞めたい僕の、初めての体験
「あれ、アランのセリフ、でしょ?」
ひとしきり勉強を終えて、店から出ようとしたところで紗良が僕に声をかけてきた。
あかりと遥は先に店を出て、本屋に向けて歩き出していた。二人が楽しそうに談笑している後ろ姿が目に入る。
「あれって?」
「俺の女……って」
どうやら紗良は、コスプレイベントの時の事を言っているようだ。
(それにしても俺の女ってのは凄い言葉だな……)
今、この状況で目の前の紗良に向かって「お前は俺の女だ」なんて口が裂けても言えないだろう。コスプレしていたのもあるだろうが、今だに自分がそんな事を言ったなんて信じられないのだった。
「……あの時は言いそびれちゃったけど、ありがとう」
「いや、別に僕は何にも……運営の人が来てくれなかったらどうなってたか……」
「ううん、シンイチ君がああやって守ってくれて……嬉しかった」
僕にだけ聞こえるぐらいの小さな声でそういう紗良は、少し照れたようにはにかんでいた。
「そ、そう?」
「ねえ、さっき国語の勉強している時にも言ったけど、シンイチ君の書く小説、読んでみたいな」
「え?」
「シンイチ君が書くなら、きっと素敵な物語になると思うから」
先ほどの小さな声とは打って変わって、はっきりと僕に聞こえる声で紗良はそう言った。僕を真っ直ぐ見据えるその表情はとても晴れやかで、僕にはとても眩しく写った。
「師匠ー、紗良ちゃーん!はやくー!」
「二人とも、おいてくでー!」
先を歩いていた遥とあかりが、僕と紗良を呼ぶ声が聞こえる。
「今行くよ!」
僕は答え、紗良を促し早足で二人の後を追った。
◇
家に帰った僕は、部屋で一人考え込んでいた。
(小説か……読むのは好きだけど、書くなんて考えた事無かったな……)
僕は部屋の片隅に佇む本棚を覗き込む。ぎっしりと本が並んだ本棚。それは常に僕と共にあり、僕の世界でもあった。剣と魔法の世界、過去や未来、異世界や神々の世界など、さまざまな世界で繰り広げられる物語は、僕を魅了したし、僕の世界を広げ満たしてくれるものでもあった。
(僕に、書けるのか……?)
最初に浮かんできたのは疑問だった。小説なんか書いた事が無い。学校で作文を書いた事はあるが所詮はその程度だし、いくら国語の記述問題が書けたとて物語を作るなんて全く別の次元の話だろう。
ふと、本棚の一角に目が止まった。同じ背表紙の本がずらっと並ぶ中に、明らかに見た目の違う本が一冊紛れている。『空の王国と蒼穹の乙女』の第一巻。
(思えば、これが切っ掛けだったんだよな……)
ほんの数ヶ月前なのにもう遠い昔のようだ。
あかりが「オタクになりたい!」と言ってきた時は面食らったものだ。あの時はまだ世界は僕と本だけで満たされていた。ぴたりと本で満たされた僕の本棚に空いた穴。あかりに貸した本が失われ、開いたその穴から、僕の世界は変化し、広がっていったのだ。
僕は手元のスマホで画像フォルダを開いた。そもそも僕のスマホには画像なんて殆ど入っていなかったのだ。だが、今ではちらほらと、学校の行事や普段の写真などが増えているのだった。
最初に目に入ったのは本屋に向かう道すがら、おどけた表情で写真に収まるあかりと、少し気まずそうな僕。あかりが僕のスマホを無理やり奪って自撮りした写真だ。
「えー、師匠のスマホって写真全然無いじゃん。私が撮ってあげるよ!」
その時のあかりの声が聞こえてくるようだ。
写真を切り替えて行くと、紗良の姿が混ざるようになってくる。
まさか紗良も『空の王国と蒼穹の乙女』を好きだとは。偶然、かもしれないが僕にはそうは思えなかった。運命、と言うと大袈裟ではあるが、あかりと、そして本の穴がもたらしてくれた出会い、なのかもしれない。
紗良は医者になりたい、と言う。成績優秀な紗良の事だ、きっとその希望は叶うのではないだろうか。とは言え、紗良も何もせずにその成績というわけでは無いだろう。あまりそのような姿は見せないが、裏では必死の努力をしているはずだ。
体育祭の写真が画面に表示された。三人で例のポーズで撮った写真だ。
(このTシャツ、良くできてるよなあ……)
あかりがこの部屋で泣いた日の事を思い出す。一度は無くした、絵を描くことへの情熱。あかりがそれを取り戻すのに、少しでも役に立てたのなら、僕も師匠としての役割を多少は果たせたのだろうか。
あかりはもう立派な「オタク」だろう。今だに僕の事を「師匠」と呼んでくれるが、むしろ僕の方があかりに世話になりっぱなしだ。
スマホの中の画像フォルダも最近の写真に近づいてくる。コスプレ衣装を身に纏った僕と、あかりと、紗良と、そして遥。
(まさか、僕がコスプレすることになるとはねえ……)
遥との縁もまた、本が繋いでくれた物だ。まさか本屋で見かけたあのゴスロリ少女が遥だったとは面食らったが……
神出鬼没で飄々としていながらも常に堂々としている遥。彼女のコスプレ衣装作りにかける情熱も、また本物、なんだろう。外見だけでは無くて設定やキャラクターの背景まで理解し作り込むその意識と、それを実現するための技術と努力。遥の絆創膏だらけの指先はその証左だ。
だからこそ、あの時、僕はそれを傷つける奴が許せなかったし、柄にも無く戦う事を自然に選んでいたのかもしれない。
あかりと紗良と遥、三人共が自分の夢に向かってひたむきに努力をしている。じゃあ僕はどうなんだ?
『何かはよく分からんが、一生懸命やってみろ、その先に、多分お前の夢が見つかるんじゃないかな』
父さんの言葉が頭に浮かぶ。
(一生懸命……か……)
僕は今まで、何かを一生懸命やった事なんてあったんだろうか。
決して怠惰な日々を送っていた訳では無い。受験勉強もやって志望の高校にも入学したし、入学してからもまあ、そこまでいい成績では無いがそこそこの成績は収めてきた。
ただ、そこに僕の意志は無かった。
僕は自然と机に向かっていた。パソコンの電源を入れる。
(やり方なんてわからないけど、まずはやってみるか……)
とりあえず、ワープロソフトを起動する。思うがままにキーボードをタイプすると、画面上に文字となって入力されていく。
決して上手でも美しくも無いその文章。ただ、その文章には僕の意志が込められている。その事実に、僕の心は高揚するのだった。




