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29 カージン王国王立学園

ちょっと長くなりました。


逃げたい文官の書籍化が決まり、ちょうどストックも切れた事で更新がスローペースになります。

大変申し訳ありません。

 カージン王国の王立学園の魔術学教授であるテアル•リーソは、ここ数ヶ月で一番と言っていいほど、上機嫌だった。いつもは学生たちから、『美術室の彫刻の方がまだ人間らしい』と揶揄されるほど冷ややかな無表情が、春の陽だまりで微睡む猫の様に綻んでいる。


「失礼します、リーソ教授……? え? ど、どうかなさいましたか? 」


 リーソに呼ばれてやって来たマナー講師のエレン•ガディウスが、上機嫌のリーソを見て思わず声を上げる。学園で同僚として働いてかれこれ20年以上の付き合いがあるが、こんなリーソを見るのは初めてだった。学園を組織する教授会の長として、滅多な事では表情を崩さないリーソにしては本当に珍しい。


 リーソは楽しげな笑みを浮かべ、そっとエレンの前に手にしていた資料を差し出した。リーソの笑顔など、数えるぐらいしか見た事がないエレンは、何か天変地異の前触れかもしれないと、戦々恐々としながら資料を受け取る。


「これは……」


 資料は魔術の論文だった。マナー講師のエレンには、内容は難しくて詳しくはわからないが、隣国ドーン皇国の臨時学会で発表されたものらしい。そこでエレンの思考が一旦止まる。臨時学会? 臨時学会といえば、魔術大国と言われるドーン皇国であの世紀の大発明と言われる水魔石の論文が発表された時に開かれたものではなかったか。魔術の門外漢であるエレンだって、史実として知っているぐらい有名であり、よほどのことがない限り臨時学会は開かれないというのが常識だ。それが、ドーン皇国で開催されたのか。


 エレンは俄然興味が惹かれて、論文を読み進める。どうやら武具に魔術を付与する魔術と、収納に関する魔術らしいということは読み取れた。だがこれ以上の情報は読み取れず、エレンはお手上げという様にリーソに視線を向けると、リーソは無言で論文のページを捲り、一箇所を指差した。


「えっ? まぁ! 」


 そこにあった名前は、エレンのよく知るものだった。姓がないためエレンが知る人物と同じ人かは確証が持てないが、この人物がエレンの思っている人ならば、リーソが上機嫌な理由とも合致する。数年前に卒業した彼女は、間違いなくリーソの愛弟子であったからだ。エレンは彼女からの便りがここ数ヶ月途絶えていて心配していた。王宮に問い合わせてみれば、文官の職を辞して出て行ったといわれ、その後の消息はしれなかった。思いがけず彼女の無事が確認できてホッとした気持ちになった。


 この論文はリーソ宛にドーン皇国の魔術師ギルドから送られてきたものらしい。リーソはカージン王国王立学園の魔術学教授でありながら、彼自身も非常に有能な魔術師なので、彼の国の魔術師ギルドとは付き合いも深く、こうして時折、論文を送って来るのだ。


「一緒に、手紙も同封されていた。君宛の手紙もある」


 そういってリーソが手渡してくれたのは、可愛らしい花柄の封筒だった。それを見て、エレンは目を瞠る。彼女とは時折手紙を交わしていたが、送られてくるのはいつも飾り気のない、ハッキリ言えばお金のない庶民が使う安いレターセットばかりだった。彼女の暮らしぶりがギリギリであることを察していた。それが彼女が買える精一杯のレターセットだったのだろう。質の良くない紙ではあったが、綴られた文字は美しく、かつての教え子が元気に暮らしているのが窺えて、エレンは手紙を交わす度に安堵していたが、苦しい生活を思うと胸が痛くなった。


 それが、いま受け取った封筒は、一目で質が良いと分かるものだった。可愛らしい花柄の封筒と、美しい書体の宛名から、受け取る相手を喜ばせようという気持ちが読み取れる。一体何があったのか分からないが、この封筒一つとっても、彼女が以前よりは幸せに暮らしている事が感じられて嬉しかった。


 リーソに断って、はやる気持ちで手紙を読む。驚いたことに、彼女は文官を辞めこの国を出た後、ドーン皇国に向かったらしい。親切な冒険者と出会い、今はドーン皇国で働いているとあった。『新しい論文も書きました!』と楽し気に報告されたが、臨時学会の経緯は何も書かれていないのが彼女らしい。昔から謙虚過ぎるぐらい謙虚な子だった。


「でもどうして、論文と一緒に送られてきたのです?」 


「安易に我々に手紙を送り、自分の居場所がバレるのを避けたかったようだ。論文が発表され、彼女の安全が確保できるまでは、手紙を送るのを控える様に助言されていたらしい。彼女の周りには随分と頼もしい味方がいるようだ」


「まぁ。あの子は誰かに狙われているのですか?」


「王宮の噂を聞いたかな? あの子が出奔した後、結界の魔術陣が作動しなくなったそうだ」


 ああ、とエレンは納得する。そして同時に、彼女を狙うのが誰かという事まで察した。

 結界の魔術陣は多くの魔力を必要とするので、常時維持させるのは大変だと聞く。それを彼女の魔力量で補っていたのだろう。学生時代から、彼女の魔力量は規格外と言われていた。その彼女が国を出たので、大量の魔力が確保できず、結界の魔術陣が維持できなくなってしまったのだろう。


 彼女、かつてこのカージン王国王立学園に通っていたリャーナは、エレンにとって忘れられない生徒だ。彼女はこの王立学園では珍しく、平民の特待生枠で入学してきた。平民の孤児という身分は、生徒からの反発も予想され、入学当初はリャーナがこの学園でやっていけるのかと教師たちは心配していたのだが。彼女は、そんな教師たちの心配を吹き飛ばす、とんでもない生徒だった。


 入学当初のリャーナは、それはもうまっさらな、何も知らない少女だった。入学試験の成績は上位だったが、それはあくまで入学に足りる力があるというだけで、実際に学園で教育を受けるには更なる学力が求められる。案の定、入学後、リャーナは授業についていけなくなっていた。貴族ならば金に糸目をつけずに家庭教師を雇い、授業の補習を受けるのだろうが、リャーナは実にシンプルでお金のかからない解決方法を実践した。すなわち、教授たちを質問攻めにしたのだ。


 教授たちも、初めは余りに質問の多いリャーナを鬱陶しいと感じていた。学園の教授たちは、教師でありながら自身の研究も続ける学者である。リャーナにしつこく質問攻めにされ、自分の研究時間が減ることに不満を持っていたのだ。


 しかし、リャーナは好奇心旺盛な少女で、授業の質問をしながらも教授たちの研究にも興味を持ち、次第に教授たちの研究内容についても質問をするようになった。自分が誇りをもって研究している事に興味を持たれて、嫌な気がする研究者などいない。しかもリャーナはどれほどマニアックな説明をしても、理解しようと努力し、理解すると凄い凄いと目を輝かせて賞賛する。教師というものは、学びに貪欲な生徒を応援したくなるものだ。教授たちは次第にリャーナの質問攻めも喜んで受けるようになり、時には時間を忘れて研究内容について語り合った。そんなリャーナが教授たちから可愛がられるのに、そう時間は掛からなかった。


 特にそれが顕著だったのがリーソだ。魔術師としてもカージン王国で一、二を争う実力の持ち主であるリーソは、リャーナの才能をすぐに見抜いた。豊富な魔力、魔術を学ぶに足る頭脳。そして何より、リャーナは魔術が好きだった。学園で支給される基礎的な魔術の理論書ではすぐに物足りなくなり、図書館やリーソの研究室に通いつめ、憑りつかれたように魔術書を読み耽るようになった。どれほど優秀であっても、魔術好きでなければその才能は伸びない。貪欲に知識を求めるリャーナに、リーソは己の全ての魔術理論を叩き込んだ。リャーナの知識がマニアックなのは、大半がこのリーソの仕業であった。


 リーソとしてはリャーナが卒業後は正式に自分の助手にし、ゆくゆくは身分制度の厳しくないドーン皇国に送り出すつもりだった。カージン王国では平民は魔術師になれない。特にリャーナの身分では、カージン王国に居続けても、卒業後は碌な就職先もないと分かっていたからだ。


 だがリーソの目論見はあっけなく潰えてしまった。あれは、リーソの魔術師人生の中でも、取り返しのつかない失敗だった。結界の魔術陣を研究しているリャーナに、師としてもっと目を配るべきだった。疑う事を知らないリャーナは、結界の魔術陣の論文を学園の教室内で作成しており、それに目を付けた王太子が論文の体裁を整える手伝いを申し出、あっという間にリャーナから結界魔術陣の論文を取り上げた。魔術についてはド素人の王太子ではあったが、結界の魔術陣の有用性や価値は理解していたのだ。王太子たちが論文の書き方、言葉の言い回しを助言したぐらいだったのに、いつの間にか王太子と側近たちの功績として発表されていた。


 リーソは結界の魔術陣をリャーナの功績として発表し直す様、王太子のみならず、国王にも直接抗議をしたのだが。平民には過ぎた功績だと、彼らがリーソの訴えをまともに取り上げる事はなかった。王太子の功績として発表してやるのだから感謝すべきだとまで言われ、国を挙げて大々的に発表されてしまい、リーソにはそれ以上、成す術はなかった。国と学園との確執になるのを恐れたリャーナに必死で止められたのも、リーソが抗議を断念した大きな要因だった。


「いいんです、先生。結界の魔術陣で助かる人がいるなら、私は嬉しいです。私、魔術が好きだから、結界の魔術陣を作るのが、とても楽しかったんです!」


 そう諦めた様に笑うリャーナに、リーソは無力感で打ちのめされた。悔しくない筈はない。どれほどあの魔術陣にリャーナが心血を注いでいたか、リーソは知っていた。あの魔術陣の一字一句が、リャーナの努力で出来ているのに、それを恥ずかしげもなく横取りする王太子たちに怒り、それ以上に自分に対して怒りが募った。

 どれほど教師たちがリャーナに目を掛けても、貴族である生徒たちの、リャーナに対する態度は変わらなかった。常日頃から差別され、侮蔑を受け続けたリャーナは、それが当たり前だと受け入れてしまっていた。それをリャーナに受け入れさせてしまう環境を変えられなかったことを、リーソは今でも悔やんでいる。


 結局リャーナは、結界の魔術陣の功績者の末席に加えられ、褒賞として王宮文官の職についた。あの偉大な魔術陣を構築した最大の功労者に対しては、安すぎる報酬である。この報酬もリャーナの為ではなく、カージン王国で魔獣対策の為に結界魔術陣を設置するときに、リャーナが王宮内で働いていた方がいいだろうと王太子が考えたためである。周囲からは平民にまで目を掛ける慈悲深い王太子などと褒めそやされていたが、どこまでも自分の都合の為だったのだ。


 王太子が自ら用意した褒賞を受け取らないなどという選択肢はなく、リャーナは王宮に文官として勤め初め、リーソたちの繋がりは僅かに手紙のやり取りをするばかりとなった。リャーナの仕事が過酷過ぎて、会う事もままならなかったのだ。リャーナは手紙では何の弱音も吐かなかったため、リーソたちは心配しながらもリャーナを見守るしかできなかったのだが。


「やはり、王宮での生活はあの我慢強いリャーナが出奔する程、辛かったのですね。あの子ったら、私たちには何も言わないのだから……」


 エレンの言葉に、リーソはギリッと拳を握る。リーソもリャーナからの手紙で、カージン王国を出るに至った経緯を知った。結界魔術陣で国の安寧を齎したリャーナに対する仕打ちは、リーソにとって、到底看過できるものではなかった。元々カージン王国を思う気持ちなど尽きかけていたが、リャーナの手紙は決定的だった。


「ふふふ。でも、リャーナには頼もしい味方が出来たのですね。ああ、あの子の笑顔が透けて見えるようだわ」


 手紙にはドーン皇国での生活が楽しそうに書かれていた。綴られた言葉にはリャーナの喜びが溢れているようで、彼女がドーン皇国で周囲と良い関係を築いている事が分かった。

 エレンは論文のリャーナの名前に目を落とす。論文の発表者が記されたページには、リャーナの名が一番前に目立つように書かれている。連なる名は、魔術に関して素人であるエレンでも知っているぐらい有名な魔術師ばかリだ。そんな凄い人たちを差し置いてリャーナの名が論文に堂々と記されているのは、それだけリャーナの功績が大きいという事であり、同時に、正当に評価されているという事だ。


 学生時代に発表した結界魔術陣の論文には、王太子ジェントの名が堂々と一番前に記されていて、リャーナの名前など論文の最後のページにひっそりと記されていただけだった。ようやくリャーナの功績が正しく評価されたのだと、エレンは嬉しくて視界が涙で滲んだ。


「リャーナが幸せそうで安心しましたわ。それにしても、あの子ったらこんなに素晴らしい論文を書き上げるなんて。さすがリーソ教授の愛弟子ですわねぇ」


 エレンが楽し気にそう言うと、リーソの眉が皮肉気に上げられる。


「ほう? それは君にも言えるんじゃないかね? 入学当時はカトラリーの名前すら覚束なかったあの子に、王族にすら対応できるほどのマナーを身に付けさせたのだから」


 そう返されて、エレンはリーソからきまり悪げに目を逸らす。エレンとて、学園での教えを超える範囲をリャーナに叩き込んだ自覚はあるのだ。


「あら、私が教えたのはほんの少しですわ。あの子、課題を与えると物凄く喜ぶんですもの。それどころか、自分で課題を作りだしては嬉々として取り組んでいて」


「ああ。楽しそうにこなしていたな。寝食を忘れて魔術陣の構築に没頭するから、休憩を取らせるのが大変だった」


「リーソ教授がいけないのですよ。リャーナに回復魔術まで教えるから。あの子、アレを覚えてから、『休まないでも勉強が出来る! 』って、ますます無茶をするようになって!」


「回復魔術は魔力を使うから、魔力が枯渇すれば懲りるだろうと思ったのだが。リャーナの魔力量を甘く見ていた。回復魔術を頻発するから元から多かった魔力量が更に増えて、悪循環だったな」


「フェントリン教授は、ジーランド王国の古代言語までリャーナに教え込んでいましたねぇ……」


「ジーランド古代語研究は、フェントリン教授のライフワークだからな。だが魔術理論構築にはジーランド古代語は役に立つんだ。必要な知識だと思ったから、あの子も習得に熱心だった」


 リャーナに関する思い出話は、彼女が卒業して何年も経つというのに一向に色あせる事がない。教授たちが集まれば、必ず一度はリャーナのエピソードが話題に上がる。それぐらい教授たちにとっては、印象深い教え子だった。


「最近、私の周囲を嗅ぎまわる()()がいるようだ」


「あらあら。それは困ったこと」


 先ほどとは打って変わって冷たくなるリーソの言葉に、エレンがおっとりと返す。カージン王国から自治権を守り続けている学園である。それぐらいの小さな厄介事は、今までいくらでもあったので、リーソもエレンも落ち着いたものだ。


「彼らは学園がリャーナを匿っているのではと勘繰っているのだよ」


 呆れた様に呟くリーソに、エレンは眉を顰める。


「まぁ? ドーン皇国で臨時学会が開かれたのでしょう? 彼女がドーン皇国にいるとまだ気づいていないのですか?」


「国内の派閥争いにしか目を向けない奴らだからな。国外の動きには疎いんだ。それに彼らはリャーナをとことん侮っていたから、彼女は私たちぐらいしか頼れるものはいないと考えているのかもしれない」


 リーソの言葉に、エレンは呆れかえった顔をする。


「まぁ。リャーナが私たちを頼るものですか。あれほど王国と学園が揉める事を心配していたのに。王太子だって、それを逆手にとって結界の魔術陣を手中にした癖に、どうしてそんな事を考えるのでしょう」


「王太子も学業は優秀ではあったがなぁ。根本的に施政者としての資質が足りんのだよ。考えが浅すぎる」


 在学中の成績だけで言えば、王太子はリャーナに次いで優秀ではあった。ただリャーナは他を大きく引き離したぶっちぎりの1位で、2位以下の順位は周囲が王太子に忖度した結果だともいえる。教授たちの目は、あの頃の学生たちの中には、王太子を凌ぐ有能な生徒は数人いたことを見抜いていた。家格の低い子たちだったので、王太子や側近たちを慮って実力を隠していたのだろう。


「それで、その()()とやらは、どうなさいますの? 」


「まぁ、お手並み拝見だな」


 リーソは楽し気に手を組んで、上機嫌に答える。かつての教え子は、王宮に勤めて数年経つ。権謀術数はどれほど身に着けたのか。リーソ相手に上手く立ち回れるのなら、将来の宰相としても頼もしいものだ。リーソを出し抜けるなら、この国も安泰だといえなくもないが。


 彼は知らないのだろう。宰相である父の手の者たちは、殆どがリーソに寝返り、宰相の手足となるどころか、リーソに情報を流している事を。

 可愛い教え子が王宮に奪われ、蔑ろにされた事に怒り、それまで政に興味を持たなかった学園側(教授たち)が、着々と王宮内に手足を伸ばしている事を。


「卒業後、()()がどれほどの成長したのか、楽しみだよ」


 厳格なる教師たちは、怠惰な生徒には厳しいものだ。



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― 新着の感想 ―
勤勉で熱心、向上心の塊のリャーナは学園の一部を除く講師陣からお弟子さん扱いされていそう。   貴族至上主義? 要らない個ですね。
言ってる自分が全力で内輪もめに参加してる…… 平民のことを考えるのは平民のリャーナだけだったか
書籍化おめでとうございます!!!
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