駅発夕霧台行き
「ねぇ運転士さん。横にいる学生さん寝てるね」
旧盆の夕暮れ時。
路線バスに乗る客はいつもより少ない。
後ろにいた客に話しかけられた僕はフロントガラスに映る客を見て、そうですね、と短く答えた。
路線バス車内にはたくさんのミラーが付いている。お客様に万が一の事故が無いようにドア開閉したり発車したりするために付いているのだ。しかし実のところ運転席の後ろはミラーでは殆んど見えない、その為に夕暮れ以降はフロントガラスに映る様子で確認を取ったりもするのだ。
この夕霧台、少し前までは長閑な果樹園が広がっており路線バスも運行はされていなかった。しかし造成会社が果樹園を切り開いて区画を切って住宅街を造成したのだ。それに運行のお願いがあって既存バス路線を無理矢理延伸して今では夕霧台線と呼ばれている。しかし造成されたばかりの新興住宅地は未だ売地が多く、家が疎らに建ってるだけの侘しい住宅街だった。
フロントガラスに映る妙齢女性が目線を送る先には、ブレザーを着た女学生が寝てるのも見えた。まぁ運転業務をしていたらそんな事は日常茶飯事、終点までに目を覚ましてくれればと思うだけだ。
一旦停止。左ウィンカーを出して大通りを確認し左折する。
そして数百メートル直進して終点の夕霧台へと到着した。
「毎度ご乗車ありがとうございました、終点です」
右手で操作して前ドアを開ける。
しかしミラーを見てもフロントガラスを見ても誰も居ない。
僕は一つため息を付いて車内確認をする。車内は誰もおらず、お客様の忘れ物のお数珠だけが一つシートに置かれていた。
僕はなんとなく気付いていた。
声をかけてきてくれた、フロントガラスに写った妙齢の女性の顔は黒の水彩絵の具で塗りつぶされたかのようにしか思い出せないし、しかも何故妙齢の女性だと思ったのか分からないのだ。しかも寝ていた女学生は、こんな夏なのにブレザー姿だったのにも違和感がある。
お盆だからバスに乗って帰ってきたのかな。そう思いながら車外外周を一回りして問題ないことを確認した上で、行先表示機を回送に切り替えて車庫へと向かう。
「お疲れ様です。お盆勤務、いろいろ大変だったでしょ?」
「いえいえ、日が暮れるとお客様も車も減りますからね」
運行管理者に運行表と車両装備具を返却し、忘れ物のお数珠も提出。飲酒検知をして点呼簿に異状なしと記載する。
「今日も異状なしでした、ではお疲れ様です」
「お疲れ様。ちゃんと塩撒いて家に入るといいよ」
お盆の夕暮時。昔は野菜を馬に見立てて迎え火を焚いてたけど、今では殆んど見かけない。だからか最近ではバスに乗って帰ってくるようで。
僕も体験した運転士たちに伝わる話でした。
実話です