午前0時の雨の音
小説家になろうは初めてとの投稿となります。
読んでいただければ幸いです。
午前0時の雨の音。それをぼんやりと耳に入れながら、私は一人物思いにふける。境目の時刻にもう寝ないと、もう少しだけ起きていようとの葛藤を抱えながら、結局またグラスを傾ける。お気に入りの手作りミモザ。ほんの少しだけ口に含むと、ふっと短く溜息をつきながら虚ろな眼を濡れた窓ガラスの外へ向ける。
先程までは窓を打ちつける強さだったが、今は風も落ち着きしとしとと降っている。それが一層、心の傷をえぐる。雨が強ければ違う事も考えられたんだろうけど、落ち着いて降られると自分の内面へと目を向けさせるような気がしてたまらない。寂しさや切なさが雨粒一つずつに乗って、まるで語りかけてくるみたいだ。
どうしてあんな事しちゃったんだろう?
ずうっとこの自問ばかりが頭を駆け巡る。それに対して何かしらの答えを見つけようと、または反論しようと一生懸命考えているが、この雨音にうやむやにされる。酔いも回っているためだろうか、それともそもそも答えなんて無いものなのだろうか、それすらもわからない。ただただ今はこの雨音に自分の心を重ねているばかり。そうしてまたミモザを口にすると、主なき座椅子に目を向けてしまう。
悪態一つつこうと思ったけど、出るのは重たい溜息一つ。
一年半ほど前、私の心は荒んでいた。一生懸命やっても一向に評価されないどころか煙たがられる職場。だらしのない後輩や先輩に意見しては距離を置かれ、苛立ちが余裕を忘れさせ、仲の良い友人に会う事も忘れさせていた。孤独の中もがいて、あがいても結果の出ない日々。自分は間違っていない、正しい事をしているという信念や理念もかき消えて行き、一体自分は何のために働き、生きているのだろうかとも考えていた日々。
そんな中でも私は恋をしていた。相手は三つ上の先輩。こんな私にも優しく声をかけてくれ、見守り続け、頬笑みを絶やさなかった姿に惹かれ続けていた。そしてその恋だけがバラバラに飛び散って消えてしまいそうな自分をようやく繋ぎ止めていた。あの人に会えるから会社に行こう。あの人と少しでも話せるから仕事をしよう。あの人とほんの少しでも同じ空気を吸えるから、生きていようと。くじけ、めげそうな日々にそれだけを支えにしていた。どんな真っ暗闇とも思える中でも人を好きになる、その力はすさまじいものだ。
けれど、それもある日無くなった。
会社の飲み会で急に私が好きだった人が、まさか私が一番毛嫌いしていた人と交際宣言をしたのだから。外見はともかく、私からすれば内面が卑しく下劣で、平気で人を過小評価するような男が、まさか私の憧れの人と付き合っていただなんて。それでも彼女は嬉しそうに彼に寄り添い、皆の言葉に気恥しそうに笑顔を浮かべ、頭を下げていた。それがもう、悔しかった。どうしようもないくらい、大声で叫びたかった。
騙されないで、目を覚まして。私との方が、きっと幸せ。
でも、そんな事できるはずなかった。宴席のすみっこで私はきっと卑屈な微笑を浮かべ、小さな拍手を送っていた。だってわかっていた、どうしようもないって。彼女は前々からそうした趣向は無いって知っていた。少ないお喋りですら、無理だと悟っていた。だから私が何か行動を起こした所で、それはただ無残に終わるだけだとわかっていたから、黙っていた。そしてそれまでの関係の果てのように、誰も何も私に感想を向けなかった。
一次会が終わると私は挨拶もほどほどに駅に向かって早足で歩いていた。ほんの一瞬でも同じ空気をもう吸いたくなかったし、それに逃げたかった。誰も気づいていないけれど、負け犬の私の姿を一秒でも知り合いにさらしていたくなかった。火照った頬を切る風が悲しくてなんとも惨めで、やるせなかった。最初は好きな人と同席できて楽しかったはずのお酒の席がこうなってしまい、ほんの少しだけ酔いがさめていくのと反比例し、もっとお酒の力を借りたくなっていた。駅目前にしてふっと路地に足を向け、知り合いや同僚が行かないだろう店を探す。この焼鳥屋でもない、居酒屋でも無い、こんなお洒落な隠れ家的なバーでもなければと幾らか歩いた先に、とあるバーにふらっと入った。衝動だった。
「いらっしゃいませ」
十坪くらいの狭い店内とほの暗い照明のトーンに合わせているのだろうか、落ち着いた声が私を出迎えてくれた。
「お一人様ですか? では、こちらへどうぞ」
肩まであるだろう綺麗な金髪を後ろで一つにまとめ上げたバーテンさんに席を案内され、着席する。手慣れた仕草でメニューを開き、お決まりでしたらお声をかけて下さいと会釈する淀みなさと同時に向けられる涼やかで、優しい瞳。ピンクローズのピアスがまた、彼女の肌の白さを際立たせていた。あんな事があったにもかかわらず、数瞬見惚れてしまうくらい美しい女性。
それが彼女との初めての出会いだった。
運ばれてきたソルティドッグをゆっくり飲みながら、私はぼんやり先程の飲み会の傷を思い返し、くだらないと思っていても心の傷を少しずつえぐっていた。できるわけがなかったのに、告白もアクションも何も起こせなかった自分が臆病で、意気地なく、惨めで、子供でどうしようもないと自己嫌悪のスパイラルに自ら落とし込んでいた。そうしてそれに耐えきれなくなると、美しいバーテンさんを虚ろに見ていた。
店内は他に客もいなかった。あまり人目に着かない場所だろうから仕方ないのだろう。しかしそれが今の自分にはありがたく、この物静かなバーテンさんとの時間が心地良かった。彼女は黙々とグラスを磨いたり、棚のお酒を見たりしている。でも時折、こんな自分が気になるのか視線を感じた。
「初めてですよね、ここ」
耐えきれなくなったのか、彼女から世間話を持ちかけてきてくれた。
「あ、はい。なんとなく、ふらっと足が向いて」
「ありがとうございます。今日は他でも飲んできたんですか?」
「そうですね・・・最初のお店があまりいい感じじゃなかったから、ここで飲み直そうと思って。今日はもう、とにかく飲もうって」
平静を装っていたけど、気付けば視線が下に落ちていた。きっとそんな自分の姿を彼女は見逃さなかったのだろう、すくいあげるように視線を絡めてきた。
「辛い時、嫌な時、お酒って助けてくれますよね。いい思い出が残らなかったなら、ここで少しでも憂さ晴らししてくれたら、私も嬉しいです。まぁ、色々ありますよね」
その言葉と初めて見せた人懐っこい微笑みに、思わず涙がこぼれた。酔っていてもそれは恥ずかしくて思わずうつむいた私に、彼女は眉根一つ変えずハンカチをそっと渡してくれ、続けた。
「他にお客さんも今日はいないですし、私でよければお相手しますよ。これ、サービスですけれど、よければ」
そっと差し出されたミモザと変わらぬ調子に、私は渡されたハンカチに強く目を押し当てていた。そうして、ゆっくり話し始める。自分の会社での境遇、ほのかに抱いていた恋心、そしてついさっき始まってもいなかった恋に終わりを突きつけられた事、その相手が自分の嫌いな人であった事。最初はぽつりぽつりと話し始めていたはずなのに、気付けば先輩と付き合うこととなった男の話の頃にはヒートアップしており、泣き腫らし赤くなった眼を強い語気と共に彼女にぶつけていた。
「だからほんと、あんな仕事もできなくて意地悪い人があんな素敵な先輩と付き合うなんてありえなくて。先輩も先輩で見る目が無くて。でもそんな自分も見る目が無くて。あぁ、もう、私はどうでもよくて、とにかく、許せなかったの。あんなカスみたいな男が先輩を抱くとか信じられないし、先輩もそれで幸せを感じるなんて、ほんと」
ため込んでいた想いが全て涙腺に集中する。
「ほんとみんな馬鹿。私もなんなの、ほんと。見る目が無くて、だめだめで、想いのかなわない恋ばかりして。好きになるばかりで、愛される事なんてきっと、ずっと、無い」
「そんなこと」
「もうね、わからないの……」
心の中で暴れる感情の答えは見付からず、ただひたすらに泣いていた。大抵の事ならば泣いてお酒でも飲んでいれば収まるのだが、この時ばかりは涙が止まらなかった。ハンカチはもうすっかりぐしょ濡れで、後に続くのは嗚咽しか出て来なかった。
「……あの、私の名前は木崎、木崎淳子と言います」
唐突なバーテンさんの自己紹介に会話の前後が思い出せなくなり、思わずハンカチから目を離した。
「えぇと、こんな話をしていてお客さんと呼び続けるのも何ですから、お名前を教えていただければと思いまして」
まっすぐな彼女の瞳に私は呆気にとられていた。
「宮澤かなで、です」
「では宮澤さん、でいいですかね?」
その視線を外せず、こくりと頷くほかなかった。
「私はその、同性を好きになった事もないですし、人をそこまで好きになれた事もないので的確な事は言えませんが、それでもわかることがあります」
ゆっくりと言葉を選ぶように話すその口元が何だか妙に艶っぽかった。
「羨ましいですよ、宮澤さんが」
「羨ましい? 私が?」
「はい、羨ましいです。私には無い強い情熱と熱量を持った真面目な人なんだなって、それだけははっきりわかります。そうでなければそんなに傷ついたり、落ち込んだりしないと思うんです。私はどちらかと言えば、流されやすく臆病な方なのでそんな風にぶつかっていったこと無いんですよ」
そんな事、初めて言われた。そしてそれが単なるお世辞や上っ面だけの言葉に聞こえない真剣さも含んでいるのは酔って泣いて、ぐちゃぐちゃになった私の頭でもすぐわかった。
「そんな風には見えませんけど」
「そうですよね、きっとこれですよね」
彼女はさらりと自分の前髪を触った。
「金髪にでもすれば何か変わるかなと思って始めたんですが、そんな事はありませんでした。まぁ、少ない常連さんから似合っていると言われているので続けているだけなんですけどね」
ふっと笑った彼女に鼓動が高鳴る。
「結局、外身を変えても内面は変わらないんです。人を好きになるって結構なエネルギーがいると思うんですけど、私はどうも苦手なのか、そこまでにならないんですよ」
「でも、それって傷付かなくていいじゃないですか」
「……ですね。まぁ、傷付きはあまりしないかもしれませんが、大きく満たされる事もないですよね。そういうチャンスにも巡り合わないって事です。だから宮澤さんのお話を聞いていて辛く悲しく思えましたが、逆に羨ましくも思ったんですよ」
「そんな……」
「だから大丈夫ですよ。そうした強いエネルギーがある宮澤さんにはすぐとは言いませんが、必ず素敵な出会いが巡ってきますよ」
慈しむような彼女の微笑みと温かい言葉に、私はまた涙を流していた。先程の冷たい涙とは違った、今度は熱い涙。日常の嫌な事も、今日の失恋も全てどこか遠くへ消え去り、今は目の前の彼女しか見えなかった。
「貴女みたいな人にこんな形じゃなく、出会いたかった。こんなに酔ったり泣いたり、みっともない姿じゃなく会えていたら、きっとって思っちゃう。初対面でこんな姿、引くよね。だから、いいの。嫌だよね、こんな私。こんな感じで好きって思っても、失恋直後のやけくそみたいな形で好きって思われても、きっと気持ち悪いって言うか」
「宮澤さん」
そっと左肩に手を添えられ、私は急にあふれ出る言葉を失った。
「そんなに自分を卑下しないで下さい。貴方のその想いは嫌だなんて思いませんから」
その後の事は覚えていない。なんだか大泣きして、それからまた飲んで、まるっきり正常じゃない状態で会計を済ませ……たのだろう。気付けば自宅のアパートの玄関先で寝潰れていた。朝、床の冷たさと猛烈な吐き気でトイレに駆け込んだ。それから顔を洗おうと洗面所の鏡で自分の顔を見て、血の気が引いた。
それから数日の間は自戒の念もあり、お酒はやめていた。外で飲んで酔っ払う事はあるけれども、あんなにもひどく酔って我を忘れたのは初めてだったから。それどころか初めて会った人にあんなに自分をみっともないまでにさらけ出し、挙句の果てに告白まがいの事までするなんて、少しでもそれが頭をよぎるたび頭を抱えたまま深い闇に落ちて行くような気分だった。
もう二度と行かないでおこう、あの界隈をも歩かないようにしよう。そう思って仕事に取り組んでいたのだが、職場でのストレスが心を浸食していった。好きだった先輩と嫌だったあいつが何気なく仕事をしていても、どこか周囲は祝福ムード。見えない温かさが自分の周りにまとわりつき、でもそれに異を唱えようものならば空気が読めない、人の心がわからない、冷酷人間とレッテルが貼られてしまうだろう。
会社に居場所なんて求めていなかった、ただ金銭を稼ぎ自分の生活を満たすためだけの手段として自分はここにいる。ほんの僅かな、でも無害なスペースがあればよかった。だのに今はそれが狭まっている気がして、息苦しかった。能率は落ちていないと自負していたが、他人からの視線がどこか非難されているようにより強く感じていた。
そんな息詰まる日々に光を時折射していたのは恥ずかしながら、あの日の彼女の笑顔と言葉だった。
思い出しては転げ回りそうな羞恥の記憶の中で、自分を認めてくれたあの言葉。あんなひどい自分をすくいあげてくれるような瞳、そして笑顔。何より、自分を気遣って名乗ってくれた事が嬉しかった。ただの店員と客を超えた、裸の抱擁をも感じていた。会いたい、恥ずかしいけれどももう一度会いたい。会ったら軽蔑されているかもしれないし、客と店員以上に距離が離れているかもしれない。独りよがりで彼女との思い出を美化しているだけで、向こうは全くこの気持ちとはかけ離れた所にあるかもしれない。
それにまた会えるかなんてわからない、もう会えないかもしれない。
かなり躊躇ったけれど、羞恥を衝動が大幅に超えた時、私はおぼろげな記憶を頼りに彼女の店に足を向けていた。駅近くの路地の先にある、あまり人目に着かないようなバー。彼女のように一見派手に見えるが、その実、落ち着いた雰囲気のあるこの店。会社終わりにまっすぐ向かったのだが、やや迷ってしまい、店内に入ったのは19時半になろうかというところだった。
「いらっしゃいませ」
カランとなり響くドアの音と共に彼女の声が響いた。そうして私を見るなりちょっとだけ目を見開いたが、すぐに落ち着いた感じで席に案内された。
「心配していたんですよ」
小声でそっと呟きながら、彼女は慣れた手つきでおしぼりを渡し、メニューを広げた。店内にはこの前と違って、数人の客がいる。だからこそ、なおさらそんな気の使い方が彼女にとって私が特別な存在なのかもしれないとうぬぼれるのには十分だった。
スプモーニを注文すると彼女の手際をじっと見ていた。氷を砕き、グレープフルーツを慣れた手つきでカットしていく。見渡せば、他の客も談笑の合間にそんな彼女をちらちらと見ていた。一種のショーであり、己の中の本格派の確認作業だろうか。それとも彼女はここでのアイドルであり、崇高な存在なのだろうか。ただ、私はと言えばそんな彼女の白く細い指先がグレープフルーツを滑らせる度、何だか胸が高鳴って仕方なかった。
そっとグラスが運ばれると軽く会釈をして受け取り、一口。そしてその美味しさに口角を緩めながらグラスを置くと、彼女はごく自然に顔を寄せてきた。
「あの後、無事に帰れましたか?」
その時の惨状を思い出し、ややうつむきがちに苦笑するしかなかった。
「えぇ、まぁ、なんとか。その、すみませんでした、あの時は」
「あの、本当に気にしないで下さい。あの日は私も嬉しかったんですよ」
小さく笑う彼女に何も言えず、私はスプモーニを傾けていた。
「帰り際、相当酔っていたみたいでしたので心配ももちろんしたんですけど、それと同時に好きだなんて言ってもらえた事を思い返して、嬉しくなってもいたんです。しかもその意味合いが漠然としたものではなく、異性を見る目でなんて」
あの時の気持ちは嘘ではなかったが、改めて本人を前にして言われると気恥しさが勝ってきた。頬どころか、耳まで赤くなっているような気がする。そんな私を見る彼女の眼はとても嬉しそうにしている。
「すごく、ドキドキしました」
「そんな……」
言葉に詰まっていると、他の常連に呼ばれた彼女は小さな微笑みを残し、すっと私の傍を離れた。
気の利いた返し一つできない自分が情けなかった。向こうから歩み寄ってきてくれたのだから、こちらから行けば上手くいったかもしれない。いやでも、周りにはお客さんも数人いるから、そんな時にぐいぐい行っても困らせるだけかもしれない。あぁ、何度自分は恋をする度にこんな答えの出ない事を考えてしまうのだろう。真っ暗闇の底へ滑り落ちて行くような、果てなき螺旋の滑り台。落ちれば落ちるほど、上れなくなるというのに。
それでも今日はそんな底に落ちる事は無かった。他の常連さんとの合間に私のところへ来ては他愛もない会話をしてくれるし、お酒やおつまみを頼めば来てくれる。凛として働く彼女を見ているだけで、じんわりとした幸せを感じていた。そしてそれをいつまでも感じていたくて、帰りたくなかった。もう一度、二人きりで話がしたかった。
客足が落ち着き、店内に彼女と二人きりになった頃にはその代償としてまた相当酔っ払ってしまっていた。当たり前だ、ゆっくり飲んでいたとは言え、四時間近く飲んでいたのだから。最後の客を丁寧に見送った彼女は踵を返すと、すっとお水を差し出してきた。
「大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫、です」
笑顔を作ってまともに話そうとがんばってみたが、結果彼女の溜息を誘っただけだった。
「大丈夫じゃないですよ、ほどほどにしておかないとお体壊しますよ」
「ごめんなさい。でも、どうしても私、二人きりで話がしたくて」
「……ありがとうございます。では、少々お待ち下さい」
彼女はすっと外に出ると、プレートを裏返しにし、ささやかなネオンの明かりを消して戻ってきた。そうして私の隣に座る。
「何か話したいのはわかっていましたが、他のお客さんもある手前、ごめんなさい」
「そんな。あの、ほんと、私のワガママなんですけど、また二人きりで話がしたくて。迷惑だってわかっていたし、長居も過ぎるともわかっていたけど、どうしても」
差し出されたお水ではなく、薄まったカンパリオレンジをぐっと飲み干す。
「好きなんです、貴女の事が」
もう後戻りはできない、後はこの情熱と身体に残ったアルコールの続く限り走り続けるしかない。
「私、昔から男の人が苦手で。偏見とかではなく、一緒にいてもなんだか怖くて。過去に二人ほど男の人と付き合った事もあるんですが、やっぱり駄目で。優しくしてもらっても越えられない男女差に抗えず、馴染もうとしても無理するばかりで、それでお互い傷付いて」
過去を思い出し、沈む視線。でも今は未来を見るために前を見ないと。そう思っていても、辛く苦しい思い出が酔いも手伝って涙と共に視線を落とす。
「女の人の方が安心した。過去に一人だけ付き合っていたけど、その時は幸せだった。本当に手を取り合って前に進める感じがしたし、男と違って分かり合えた事も多かったし、それに……私が好きであり続けられた」
再びグラスを傾けたが、もう氷しかなかった。ほのかに香るアルコールの雫を感じる前にグラスを戻すと、涙をぬぐった。
「だから私ね、貴女を好きと言ったのも本当にそういう意味なんです。世間一般の男女の恋仲というか、付き合いたいって思ったらもうどうしようもなくて、あの日の事が頭から離れないで今も、苦しい」
彼女の視線も苦しげに落ちて行く。
「好きなんです、好きなの、貴女が。こんなに綺麗で、可愛くて、素敵で、笑顔が私の心にどうしようもなく響いて、忘れられない。抱きしめて寄り添いたい、一つに……ごめんなさい、何言ってるんだろ、私。どうしようもないよね」
こぼれる涙を追うように、彼女が私の手をそっとおおった。
「そこまで言われて、響かない人なんていませんよ。私は貴方をあの時」
「だって、私は」
「……私はあの時、あぁ言われて、今こうしてまた想いをぶつけられ、それでも無視できるような心は無い。ただただ、嬉しい。そこまで強く想っていられている事が、とっても嬉しい」
言葉を出す前に涙と嗚咽が溢れていた。それがどこまでのものなのかわからなかったけれども、少なくとも明確に拒絶され、気持ち悪がられていないとわかった気がしたから。
「とりあえず、ここを出ましょうか。ここで話していても、私はどこかバーテンとお客さんとの関係を切り離せないから」
うながされるように店を出た。一人で歩くには飲みすぎた私は彼女の手を借りながら、歩いた。曇天はいつの間にか雨に変わっており、ぽつりぽつりと覗くような雨が私達を濡らしていた。道中、二人の間に会話はほとんど無かった。ただ、午前0時を回っていた事、そしてこの雨について話していた気がするが、そんな事はどうでもよかった。
彼女のアパートに着く頃には若干落ち着きを取り戻していた。それでも酔いと不安と心細さが自分をすとんと闇の底に落としそうで、繋いだ手に力を込め確かめるように寄り添っていた。身を数センチ寄せても彼女は嫌がりもせず、手を握り返してくれていた。
「散らかっているけど、よかったら」
照れながらそう促す彼女に続き、部屋の中に入るといい匂いがした。綺麗に整えられ、服も散らばっていない。黒とピンクのツートンカラーのカーテン、赤と黄色を基調としたラグマット、壁に掛けてある南国っぽい海の絵。なんだかどれもが彼女らしいと思えた。
「はい、お水。もう少し飲んだ方がいいよ。あ、好きなとこにかけていいから」
自宅に帰ったからか、それとも気を使わせないためにかやや砕けた調子になってきた彼女がより愛おしくて、お水をもらうと一気に飲み干し、彼女が座る小さなソファの隣に腰を下ろした。肩と肩が触れ合い、見つめ合えばその吐息すら感じられる距離。
「このまま一緒にいても、いいよね」
「今更でしょ」
ぐっと彼女が私を抱き寄せた。涙ぐんでいた私の視界は彼女の胸元に埋められ、何も見えなくなった。けれど、それがよかった。今は色々な物を見て考えるよりも、彼女に包まれている方が全てをさらけ出せるような気がしていた。
「ねぇ、もう一度名前を教えて。今度こそ、絶対に忘れないから」
「木崎淳子、よ。私も今度は下の名前で呼び合いたいな」
「かなで。宮澤かなで」
「じゃあ……かなちゃんでいいかな」
顔を上げると、彼女も真っ赤になっていた。それがもうたまらなく可愛くて、私は考えるよりも先にキスをしていた。びくりと肩をすくませたものの、すぐに私の肩に手を添え、キスを返してくる。同性を好きになった事は無いと先日言っていたが、男性とはそれなりの経験があったのだろう、上手なキスだった。やがてどちらからともなく舌を絡め合う。自分の行為が受け入れてもらえる、相手の事がもっと欲しい。お互いそう考えていたのだろう、どんどん激しさは増し、吐息が漏れる。
「ここでもいいけど、あっち行こう」
視線が彼女のベッドに向けられると、それまで抱えていた不安や恐怖はどこかへ飛んでいた。高揚感だけが私を支配し、今まで抑圧してきた情欲が脳をかき乱すような感覚さえおぼえた。だから薄暗くして場所を移した途端、私はもう自分の服に手をかけていた。彼女も私にならい、するすると服を脱いでいく。きめ細かい肌艶に形の良い胸は大きく、自分の体型に若干のコンプレックスすら抱く私には眩しい身体だったが、これからそれを自分だけのものにできると考えたら、破裂するように鼓動が高鳴った。
「かなちゃん、私、女の人とは初めてだから」
「ジュンさん、好き」
それまではリードをとってきたような彼女が見せた不安と怯え、うるんだ瞳。それを見た途端、傷付き涙していた自分が遠い過去の人間になった気がした。もう止まらない想いをそのままに彼女……ジュンさんを押し倒し、愛撫し合い、不安も性欲も全て舐め合い、求め続けた。それまでの全部を忘れるようにジュンさんを求めた。何度か果てても、求め続けた。私も経験がある方ではないけれど、過去のそれらに比べ尋常ではないくらい愛し求め続けても、ジュンさんは受け止めてくれた。そしてジュンさんも感じてくれていた。
酔いが回り、性欲が脳を焼け焦がし、いつの間にか私はジュンさんに抱きしめられながら意識を落としていった。こんなにも求め続けたのに、受け入れてくれる。こんな私なのに受け入れてくれる。こんな普通ではない関係なのに。今まで数える程しか出会いの無かった私からすれば、それはもう……ありえない。
ジュンさんの経験も過去も全て私で埋め尽くしたい。
最後に願ったのは純粋な欲求だった。
それから私達は時間が合えば頻繁に会うようになった。私は誰かと付き合ってどこかに出かけて何かをするという経験が乏しく、ジュンさんは女性と付き合うなんて初めてだったから一緒にいても初めの頃はぎこちなかった。デート中に手を繋ぐにしても、誰かに見られたらどうしようと戸惑い、なかなか実行に移せなかった。けれどそこは二つ年上のジュンさんがそんな私に気付いてくれたから、二度目のデートで彼女の方から握ってくれた。
お店選びもジュンさんの方がずっとセンスがよかった。どこかに食べに行こうかと思って調べてみても、彼女の方がお洒落でムードがあって美味しそうなお店を教えてくれた。だから私はいつもジュンさんの決めたお店に行こうと言っていたのだが、彼女は二回に一回は私が決めたお店の方がよいと言い続けた。
なんでも上手なジュンさんに嫉妬なんて一切起こらなかった。諦めも起こらなかった。ただ素直な気持ちで尊敬できたし、心から甘えられる事が嬉しかった。自分の彼女はこんなにも素晴らしいと胸を張れた。そして部屋で二人きりになればそんなモヤモヤを吹き飛ばすように寄り添い、求め合い、愛し合った。何度かすれば落ちつくのかと思っていたけれども、そんな事は無く、むしろ肌を重ねれば重ねるほどにお互いの深い部分にまで沁み込み、融合していくような感覚すらあった。今までの人生で味わった事のない多幸感、この世の誰もが私の下で見せる彼女の夜の顔を知らないという優越感。
そうした感情が日増しに強くなっていくにつれ、また彼女の優しさに慣れていくにつれ、私の欲求はエスカレートしていった。
「ねぇ、ジュンさん。今度ジュンさんのお店で飲みたいな」
「かなちゃん、ダメよ。約束したじゃない、付き合っている間はあの店で会わないって」
「だって、私達の思い出の場所だもん。ジュンさんはあそこに行けば色々思い出せるかもしれないのって、ずるいなぁ」
「……ごめん、かなちゃん。お店は本当に勘弁してね。あそこで会うと私、かなちゃんを当たり前だけどお客さんとして見れないから」
ジュンさんを困らせているのはわかっていた。
「ねぇ、今の電話誰からだったの? なんか、すっごい親しげに話してたけど」
「あぁ、取引先の酒屋さんよ。今度うちの店で仕入れてるお酒が安くなるって」
「……男の人?」
「男の人だけど……ちょっと、かなちゃん。そういうんじゃないから。私、あの日からかなちゃんしか見てないんだってば」
「だって、ジュンさん嬉しそうだった」
「そんな泣かないでよ、もぉ」
わかっていて、そうした事を続けていたりもした。
「え、ジュンさん今度の火曜日会えないの?」
「ごめん、どうしても外せない用事が入ったの。ちょっと実家の母親が具合悪いってこの前お兄ちゃんから電話が来たから」
「……私との用事はどうしても、じゃないんだ」
「かなちゃん……私、かなちゃんが一番大事だっていつも言ってるじゃない。なんで信じてくれないの。ほんと、ごめんてば。埋め合わせはするから」
困らせて彼女を傷付けて、我ながらサイテーだと自覚していた。でも、私からすれば確かめていただけだったんだ。
「ジュンさん、やっぱり男の人の方が……」
「だから違うってば。一番大事なのはかなちゃんだって言ってるじゃない。ちょっとテレビ見て俳優の話したらダメなの? ただの世間話じゃないの。私、かなちゃんが一番だって何度も何度も言ってるけど、どうして伝わらないの?」
私の言葉で困り果てて傷付いてもなお、私を結局選んでくれるってことを。
こんなにも素敵なジュンさんになお愛されていると。
「……かなちゃん、ごめん、もう無理かもしれない」
それは二ヶ月前の言葉。私のアパートで宅飲みをしながら私はまたジュンさんの愛を確かめたくなり、ちょっとからかっただけなのだが、彼女は私の傍からすっと離れ頭を下げた。私はジュンさんが何故頭を下げて謝っているのか、全然理解できなかった。返す言葉も忘れ呆然としていると、ジュンさんはうつむき、私の目を見ずに淡々と続けてきた。
「私、かなちゃんが好きだった。あの日、あんなにも熱い想いをぶつけてきてくれたのは後にも先にもかなちゃんだけだと思う。私は最初、かなちゃんを一時でも癒せればと思っていた恋の始まりだったけど、いつしか本気になっていった」
「ジュンさん」
「一緒にいてもどこか不安げで涙もろいかなちゃんから、目が離せなかった。この人を一生懸命受け入れよう、大事に大事にしようって思っていたの。でも」
「え、ちょっと待ってよ。ごめんて、ほんとにごめんてば。私、そんなつもりじゃ」
「かなちゃんがこうした結末を望んでいるだなんて思っていない。ただ、私がもう無理なの、耐えられないのよ」
肩を震わせるたびに美しい彼女の金髪も悲しげに揺れていた。
「ねぇ、なにもこんな雨の中行かなくてもいいじゃない」
咄嗟に出たのがこの言い訳。午前0時になろうかという頃、雨が強くなってきていた。
「……いいの、雨は好きだから」
「もう、駄目なの?」
少し間を置き、長く息をつくとジュンさんは赤くなった眼を私に向けた。
「そうね、もしかしたら私の心が狭かっただけかもしれない。けど」
その眼からまたぽろぽろと涙がこぼれる。
「私じゃもう、かなちゃんの寂しさを埋めてあげられないの。かなちゃんは寂しかったのかもしれないけど、ただそれだけかもしれないけど、その想いにもう応えられない。暴れるように求めるんだもの、もう無理だよ」
「だって、それはジュンさんが」
「ほら、まただって。いつもそう、私の言葉をさえぎり、自分のだってばかり」
私の言葉にかぶせるように言ってきたその反論にがんと頭を叩かれたような気がして、咄嗟に言葉が出なかった。あぁ、もう本当に駄目なのかもしれない。私はもしかしたら幼稚な確認と甘えの為にとんでもない失敗を今つきつけられているのかもしれない。
「確かに好きだったし、愛していた。自分なりに愛してはいた。でも最近わかったの、私の愛は貴方に届かないんだって。何か間違っていたのかな。もしそうだとしても、それを直す気力なんて、無い」
ジュンさんは涙を拭うと身支度を手早く整え、私に背を向けた。
「もう行くね。ごめん」
そうしてそのままアパートの階段を控えめに、甲高い音を立てて去って行った。
求め合う事、そしてそれを抑え相手に合わせる事の二律背反。埋まらない寂しさや欲求を求める事が悪い事なのだろうか。家族や友人に埋められないものを恋人に求める事は駄目な事なのだろうか。私だって多少の我慢はしたが、その先にあるものは幸福ではなく更なる寂しさだった。幾ら水を飲んでもうるおわない渇きのような感じ。どうして恋人が傍にいたのに苦しかったんだろう。どうすれば私は幸せになれるのだろうか。自分の欲求を頭ごなしに押さえつけていたら、自分が壊れて行くのを感じた。二十四年間生きてきてようやくわかったのが、自分がどうしようもない欠陥人間ってことか。自分も他人も幸せにできない、求められない存在。
でも今本当にどうしようもない事はジュンさんが傍にいない事。二ヶ月前のあの日から今まで感じた事もないくらいの喪失感を味わっている。日中はまだよかった。夜一人になれば息苦しいほどの孤独を感じている。捨てられずにいる彼女の箸を見詰めては、あの日の夕食を思い出す。洗濯カゴ入れてあるピンクのシーツを見れば、あの愛し合った夜を思い返す。どれももう、手に入らないのに……。
ぼんやりと午前0時の雨音を聞いている。あの日から好きになったミモザはもう三杯目。カーテンの隙間から窓の外に目をやれば、濡れそぼった窓ガラス越しに街灯の明かりが薄ぼんやりとしていて、自責の念がそんな景色と酔いに溶け交じっていく。私はなんてことをしていたのだろうか、こんな寂しさの中で飲むくらいならばもう少し、ほんの少しでもジュンさんの顔色をうかがえばよかったのではないかと。こんな涙を流すくらいならば、幼稚な態度よりも素直な言葉でジュンさんに伝えればよかったのではないかと。
走り去るトラックの音が耳に響くたび、幸せが自分から離れて行くような気がした。これからどうしようか。いや、もう、どうしようもない。この空いた穴は別の誰かでは埋められそうもない、そのくらい私はジュンさんを愛していたんだろう。いや違う、愛ではない。恋だったんだろう。愛していたなら、あんなに傷つけなかった。恋だけだったからワガママになりすぎたんだろう。
会って話をしたい、謝りたい……かもしれない。でもきっとジュンさんを前にしたら彼女の優しさと臆病さにつけこみ、私はまた今までの私のように振る舞うかもしれない。そんな私に彼女と会う資格なんて、追いかける資格なんて、求める資格なんてあるのだろうか?
自分で言うのも何だが、仕事に私情を挟むタイプではない。だから会社の誰にも付き合っていたことや別れた事は気付かれなかったはずだし、気持ちの変化を表に出した事なんて無かったと思う。ただ、仕事終わりにふっと飲みに行きたくなってもさすがにあのバーには近寄らなかった。それどころか、外で飲む事すらためらった。それでもお酒を飲んでいないと自分の中で渦巻く気持ちに飲まれ、押し潰されそうで、自宅では飲んでいた。
今飲んでいるミモザだって、互いの家で飲むようになってからジュンさんが作り方を教えてくれた。お店のような器具がないのと、お手軽にとシャンパンの台用でスパークリングワインを使った簡単なものだけど、家で飲むには十分だった。今ではすっかりお気に入りのお酒なんだけど、何だかいつまでもこうしているのは未練がましくもある。そろそろ新しい道を探して歩くべきなんだろうけど、でも今まで恋した人や付き合った人と違ってその一歩が異様に重い。動けない。自分の心をじっと見ると、幼い私が困って泣いて頭を抱えている。ここがすごく嫌なのに、でも怖くてどこにも行けずにぐずっている。自分の手元を見るとスマホがあり、メールかラインでも送ろうかと思うけど、その先を想像して怖くてロックすら解除できないでいた。
「ほんと、どうしたいんだろう……」
三杯目を飲み終えようとする頃、そんな自分の呟きの意味さえもわからなくなってきた。わかるのは逃れられない日常が明日も待っている事実だけ。日中は黙々と働き、夜は人目を知れず悲しみの崖から飛び降りながら飲み続ける日々。明日を思うと憂鬱で、溜息しか出て来ない。睡眠時間は刻一刻と減って行く。寝られない。幸いして明日は休みなのだが、明後日以降の私もきっと同じだ。この繰り返される毎日は仕事に支障をきたしてしまう。そうなれば色んな噂や勘ぐりが私を襲うかもしれない。あぁ、駄目だ、もう一杯飲もうかな。飲んでしまえば、何とか寝られるだろうから。
不意にスマホからラインの通知が届く音がした。こんな時間に誰だろうと若干目が覚めながらアプリを開くと、息がとまった。
『お久しぶりです。もし起きているなら、お話しできませんか?』
ジュンさんからだ。アルコールと眠気でぼんやりしていた頭は瞬間覚醒し、その文面を二度も三度も見返す。一体どういう気持ちで送ってきたんだろうか。もしかしたら私に会いたくなったのだろうか、いやでもあんな別れをしたんだ、期待を持つ方が馬鹿を見る。でもそうして別れを切り出した相手に会いたがるだろうか。ほんの一分くらいだけど、私の脳はフル回転し色々な分岐点を探っていたのだが、結局考える事はやめた。この文面から真意を読み取るなんて不可能だ。ならば飛び込むしかない。私は打ち間違えないよう、慎重に返信を行う。
『いいですよ』
送信した傍からすぐに既読のマークが付いた。そして間もなく、コール音。思ったよりも早いそのレスポンスに心構えができぬまま、震える手で通話モードに切り替える。
「もしもし」
「もしもし、淳子です。ごめんなさい、こんな時間に急に」
「あ、それはいいけど、うん……どうしたの?」
お互いにか細い声。ジュンさんはこれからを知っているが、私には全然予想もつかない。だから私は極力期待も込めず、非難も入れず、つとめて平静を装いながら気遣うように、以前のように、失礼の無いようゆっくりと返した。
「声、聞きたくなって。それで、こんな時間だけどもしよかったら、会えるかな?」
「今から?」
か細いジュンさんの声、求めて止まなかった彼女の声。何でもない事を装っていたかったが、やはり無理で声がうわずってしまった。時計を見れば時刻は0時30分。確かに会うのには非常識な時間だろう。
「いいよ。私も、ジュンさんとまた話がしたかったから」
でも迷いは無かった。
「それで、どこに行けばいいの? いつものファミレス? それとも近くのコンビニかどこか? まさか、あのバーじゃないよね」
「……ごめん、もうドアの前にいるの」
勢いよく目を見開き飛び上がると、慌ててドアスコープを覗いた。そこには確かにジュンさんがいた。スマホを耳に当て、ひどく沈んだ、伏し目がちの顔をしている。パッと見の外見からは全く想像できない弱々しい姿。押せば、吹けば消えてしまいそうな彼女。私は洗濯を怠っていた部屋着な事も忘れ、ドアを開けていた。
「ジュンさん、どうして……?」
私を見た途端、彼女の目から涙が一筋こぼれた。そんな彼女を見るや否や、これまで抱えていた不安やうっ屈した感情や悩みが一気に決壊し、思わず抱きしめていた。雨が降っているからか、ブラウスの胸元がしっとりと濡れている。傘もささずに来たのだろう。その真意を推し量るべくもなく、私はただ新たに彼女のブラウスを濡らしていた。
「こんなに冷たくなって、なんで」
ジュンさんはただ黙っていた。私を抱きしめ返す事も無く、立ち尽くしていた。これから何が起こるのかさっぱりわからないけれども、今はただまたこの匂いと感触を得られるだけで幸せだ。
「中に、入って。どんな話でも、今はしたい」
「うん、ありがとう」
ぎゅっと一度抱きしめられると、介抱するようにジュンさんは涙が止まらない私をベッドに連れて行き、座らせてくれると、しばらく涙と嗚咽が止まらなかった。来てくれた事が嬉しくて、こんな私にまた何でもいいから会いたいって言ってくれた事が嬉しくて、そしてその嬉しさがあの日々の後悔を際立たせて、辛かった。
ややあってどちらからともなく一旦距離を取り、お互いに赤くなった眼を見つめ合う。
「私は」
ゆっくりとジュンさんが口を開いた。
「かなちゃんが前に私にしてきた事を今でもひどいと思っている」
覚悟はしていたが、いやでもこの流れでは言われないだろうとどこかタカをくくっていたからか、ぐさりと彼女の言葉が胸を刺し、顔を青ざめさせる。
「私の都合も聞かず、自分の都合ばかり押し付けてきて、すごく嫌だった。私の逃げ道を潰して困らせるかなちゃんが、すごく嫌いだった」
もう目を見詰める資格なんて無かった、初めから無かった。ただひたすらにうつむき、罰を受けるがままでしかない。それだけの事を自分はしていたのだから仕方ない。今になって思い返せば、寂しいではすまない悪意があったのかもしれない。
「でも、そうなったのは私のせいでもあるって思ったの」
思わぬジュンさんの言葉に顔をあげる。そう至った経緯の意味が分からなかった。
「求める事が怖かった。かなちゃんが私を必要としてくれる事は嬉しかったし、必要とされていると感じて、心が満たされた。だからこそ、自分の思いを少しでも出したら、かなちゃんが求めている以外の想いを出したら壊れてしまうと思って、怖かった」
「ジュンさん、それは」
私ははっと思いとどまり、言葉を飲み込んだ。そうして次の言葉をじっと待つ。
「私はね、今までそうだったの。何でも、幸せも、未来も人任せ。今だってもこんな事を話して引かれて呆れられてるかと思って、怖い。人とぶつかって、意見を押し通そうとして傷付けてしまうのが怖い。例え相手が受け入れてくれても、ふつふつとした怒りを溜められているかもしれないと思うと怖い。自分のしたい事があってもそれでイザコザが起こるくらいなら、最初から自分が我慢すればいい。自分さえ我慢できれば、きっと円満。かなちゃんと一緒にいた時も、ずっとそう考えていたの」
ぐいっと手の甲でジュンさんは涙をぬぐった。
「でも、かなちゃんと離れてみて考えたの。私は多分、この人に心を開けなかったら一生このままだって。死ぬまでずっといつも、きっと、いつも……」
その頬を伝う涙に私の心は凍りついていた。
「人を信じ、愛する事なんてできないって」
二粒、三粒とその涙が増えていく。
「色んなものを越えて飛び込んできたかなちゃんに私、心開いていなかった。一緒に抱き合い寝ていても、きっと私、何も心開いていなかった。愛してるって言った時のときめきは間違いなかったけど、愛する私の姿はもしかしたら演じていたかもしれない。私を求めて全てをぶつけてきたかなちゃんに対して、私は背を向けて寝ていた。だからそんな私を振り向かせようと、きっとかなちゃんはあぁなったんだろうって。一緒にいてもどこか寂しさを埋めきれなかったから、あんな事をしたんだろうって。そう思ったら私」
そこまで言うとがくりとうなだれ、大声でジュンさんは泣きだした。子供のように手で顔を覆う事も忘れ、ひたすらに泣いている。そんな彼女の姿がもういたたまれなくて、私は強く抱きしめていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。そんな風にばっかり思わせて、そんな優しい心に甘えてばかりで。私も怖かったの。求め続けないと飽きられそうで、見捨てられそうで。ジュンさんが困っていたり、嫌だってわかっていても、私にはそれしかわからなかったの。だから嫌われても仕方ない、許してとも言えない。あんなワガママばかりの私、好かれるはずもないから出て行かれて当然なんだけど、でも」
溢れる涙と想いが止まらない。ぐちゃぐちゃな声と思考の中で焦り、もがきながら何とか必死に求めようとあがく。押し寄せる情熱と理性のせめぎ合いの間に手を伸ばす。
「それでも、ジュンさんが好き。好きなの。大好きなの。だから、またもう一度一緒にいたい」
言いながらしゃくりあげる自分が恥ずかしくて、でもどこかで全てを包み隠さず伝えている自分が誇らしくて。勝とうが負けようが、自分は今真ん中を歩いているのがわかった。正しいかどうかわからないが、はっきりと自分の気持ちの真ん中を歩いている。
「やめて、かなちゃん、泣かないでよ」
抱き締め返す力が強くなる。
「私もやっぱりかなちゃんが好き、好きなの。忘れていたのかも、お互い。好きだけども色んな周りに流されて、疲れて嫌になって、好きが義務になってそれがまた疲れて。顔色ばっかりうかがって、本音すら出せなくなっただなんて、駄目だよね。お互い好き同士だったのに愛し方もわからなくなって離れるなんて、バカみたいだよね」
涙を流しながらふっと笑う彼女が可愛くて、愛しくて、どうしようもないくらい情欲を駆り立てた。私は気付けばジュンさんの唇を奪い、その舌を求めた。急な行為に彼女は驚いたように身をすくませたが、すぐに私を受け入れてくれた。そして私よりも情熱的な、今までにないくらいのキスを返してくる。互いの感触を確かめ合い、手前や奥までその味を求め合う。鼻頭を突きつけ合うようなキスはややしばらく続いた。
「かなちゃん、私もう少しここにいたい。もう少しだけ私のワガママに付き合ってよ」
「いいよ。だって私も同じ気持ちだから」
言葉が切れるより早く、私達は求め合った。互いの味や感触を一つにするように、違った身体を求め合い同化するように、快楽の波を受け入れ溺れるように、もうそれ以外見えなくなっても永遠にいいように、永遠を求めるように、真っ白に消えてしまうかのように求めあい、果てて、なお求め……。
やがて涙は違う色を帯びていた。
裸のままうつぶせになりながら、私達は穏やかな笑みを浮かべていた。じっとりとお互い汗ばんでいたが、すぐにシャワーを浴びる気にもなれなかったからだ。ジュンさんは私の髪の毛を愛おしそうに触っている。
「雨、止んでるね」
「あー、そうかも」
耳を澄ませても、雨音は聞こえて来なかった。けだるそうに私は窓の外を見やる。
「明日、どこかに出かけよっか。休みなんだよね、私」
「んー……そうね、起きて晴れていたらね」
「晴れるよ、きっと」
「ポジティブだねー。でもそうじゃなかったらどうしよっか?」
ジュンさんはすっと身体を伸ばし、私にキスしてきた。
「何でもいいよ、一緒にいれるなら」
午前0時の雨の音、2時には雨も上がりその余韻は無くなっていた。ただ、つっと落ちる名残の雫は二人の未来を決めかねていた。