第三話 剣道の教師・沖田先生 〜剣道の授業〜
朝だ。
部屋で寝ていた沖田は、布団から身を起こした。
庭からの日差しが心地いい。
黒猫は、縁側に丸まって気持ちよさそうに眠っている。
黒猫を起こさないように、静かに立ち上がった。
昨日もらった道着にゆっくりと着替え、木刀と竹刀、防具を持って部屋を出る。
黒猫は、目覚めた。
寮の水飲み場で、桶に水を汲む。
顔を洗って、一口飲んで、学校の剣道場に向かう。
無論、朝の稽古のためだ。
さっきから胸が躍って仕方ない。菅原先生の許しは取ってある。
とはいえ、本格的な稽古は今日が初めて。
まして自分は新参者だ。
稽古場の掃除から始めよう。
剣道でもそうするものだと、虎丸から教わった。
物置き場から手桶と雑巾を借り、水を満たし、稽古場に運んだ。
雑巾を水の中に入れ、出して、よく絞る。
稽古場の端から雑巾がけを始めた。
朝の静かだった稽古場に、沖田の軽快な足音が響き渡る。
幼い頃に弟子入りして、近藤さんに毎日のようにやらされてきた。
病床に伏せていたため、自分で掃除すること自体、随分と久しぶりだ。
一番隊隊長になってからは、面目を保つためだと土方さんに禁じられていたな。
「お早いですな」
稽古場の入口から声をかけられ、沖田は止まって顔を上げる。
道着を着た、三十代ぐらいの体格のいい男が立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。お先に失礼しています」
朝の挨拶をして、青年からたくましくも穏やかな印象を受けた。
この学校、綜芸種智院の剣道の先生だろうか。
「もしかして……あなたが沖田先生ですか?」
「いかにも。私が沖田総司です。あなたは、剣道の先生ですか?」
「はい。お話は、菅原先生と虎丸殿から伺っています。あなたと共に剣道の指導をすることになりました、川井信高です。どうぞよろしく」
話を聞くと、本日の授業は、主担任が川井、副担任が沖田となるらしい。
授業とは、稽古。
主担任と副担任は、師範代と塾頭と似た意味の言葉だとか。
川井先生は、菅原先生と虎丸たちに剣道とこの学校について、沖田に教えるよう頼まれたという。
つまり沖田は、川井先生の指導を受ける立場にあるということだ。
「これはご丁寧に。川井先生、お世話になります」
沖田は、頭を下げた。
「いや、そんな……沖田先生」
川井は何だか照れた後で、真剣な眼差しを向けてきた。
「いきなりで恐縮なのですが……手合わせお願いできませんか!」
「ええ、ぜひ」
二人で共に雑巾がけを終えた後で、防具を身につけ、竹刀を構えて向かい合う。
「それでは……お願いします!」
「こちらこそ」
川井の方がなんだか下手に出ているのが気になった。
「キエエエエ!」
川井の口から凄まじい気合が迸る。
気合が入りすぎてはいないかとも思った。
沖田は冷静に、川井信高の剣を見定める。
うむ。かなり強い。
毎日のように剣に打ち込んできたのだとわかる。
剣や足の動きが、自分が知る剣術のどれとも異なっている。
長い時をかけて洗練されたものだと感じた。
おっとあぶない。打たれるところだった。
一昨夜の虎丸との打ち合いで、勘が半分以上戻っていため動きが読める。
おそらく、剣道の技なのだろう。
ただ、道場止まり。
戦に出て、人を斬ったことはない。
それゆえ、剣に淀みがない。
自分や虎丸のような荒々しさがまるでなかった。
自分が道場にいた頃よりも透き通った水のようなものを感じて、正直複雑な想いを抱く。きれいすぎるため、甘すぎはしないかと思うものでもあったからだ。
人を斬る気が無い。
これが、後の世で磨かれる剣なのだろうか。
だがこれだけは言える。次の世が戦のない世でなくとも、子供に剣を教えるのにふさわしいのは、自分より彼のような武人だろう。
勝負は、勝負。
沖田は踏み出して、川井から二本取った。
「いやあ、参りました。さすが、お強い!」
川井先生が床に座り込み、面を脱いで汗びっしょりの素顔を晒した。
「川井先生の方こそ、かなりのものでした」
立っている沖田も面を脱ぎ、顔を見合わせる。
お互いにいい汗を流していた。
「沖田先生は久しく剣を握っていなかったと聞いていたのですが、とてもそうだとは思えません」
「ええ。実はそうでして、体もまだ鈍っているのですが……、おとといの夜に、虎君……虎丸殿と手合わせしましてね、勘は幾分か取り戻せました」
「虎丸殿と……!?」
それを聞いて、川井がごくりと唾を飲み込んだ。
「失礼ですが、勝敗をお聞きしても?」
「私が二本取られました。まずは彼から一本取る。そして勝つことが、私の今の目標です」
「あれに勝つ……さすがです」
川井の声から畏怖と感心が表れて、沖田は気になった。
「高倉虎丸は、龍宮京でどれほどの使い手なのですか?」
「高倉浪平殿の懐刀。最も腕の立つ剣士の一人ですよ。……他にも浪平殿の重臣、高倉国盛殿をはじめ、肩を並べる人たちが何人とおります」
「なるほど。挑みがいがあります」
彼と最初に出会えて、運が良いのか、悪いのか。
他の方々にもご縁があれば、ぜひお会いしたいものだ。
「川井先生は、どのような剣の人生を? 私と違って剣道に通じておられるのでしょ?」
「はい。昭和の世に生まれ、少年の頃に『燃えよ剣』を読んで以来、毎日のように剣に明け暮れ、高校の時には全国大会まで行きました。そして教師となり、二年前に伊豆を旅行して山を歩いていた時に、異界に流れたのですが……まさかこのような……」
川井先生が膝をつけたまま視線を下げて、自分のことを独り言のようにぶつぶつ呟き、聞き慣れない言葉まで出てくる。自分の想いに耽っているみたいだった。
「しょうわ? 燃えよ剣?」
「あっ、いえ……こちらの話です。本日はよろしくお願いしますね!」
「ニャ~」
聞き覚えのある鳴き声が聞こえてくる。
稽古場の入口の方を向くと、黒猫が餌を探しているかのように入り込んでいた。
朝の稽古は、お開きとなる。
川井先生と一緒に、浴場でひとっ風呂浴びて汗を流す。
それから黒猫も連れて、食堂で朝食。
その後、剣道場に戻って、二人で稽古の準備。
入浴中、食事中、準備中、いつでも話を聞いた。
剣道について、この学校について、今日の授業について。
聞いておかなければならないことは山程あった。
川井先生は、何でも親切丁寧に教えてくれた。
まだまだ語り足りない。
「川井先生、もしよかったら今夜一緒に飲みませんか」
「えっ……ええ、喜んで!」
会った時から、妙に緊張しているのはどうしてだろう。
時は過ぎ、授業の時間となった。
川井と沖田が待つ稽古場に、二十人ぐらいの学生が順々にやって来て、着替えだし、雑巾がけが行われる。
いつの間にかいなくなっていた黒猫が入ってくる。
「今日から来てくれた新しい先生をご紹介する!」
隣で、川井先生の口から大声が出た。
稽古場の壁を背にして立つ沖田の前に、道着姿の学生たちが座っていた。
十代半ばの少年少女から、十歳未満の幼子まで。
行儀よく正座をしている子、あぐらをかく子、ひざを伸ばしている子、両膝を丸めて両手で抱える子、座り方も様々だ。
正座しながら震えている子もいる。
みんなが興味深そうに、沖田のことを見ていた。胸の内に、村の百姓たちとの出稽古と、子供たちと遊んであげた時の光景がよみがえる。
「はじめまして、沖田総司です」
沖田は、穏やかに名乗った。
それを聞いて、なぜか学生たちの多くがはしゃぐ。
どうしたのだろう。
新しい先生が来たのが、そんなに嬉しいのだろうか。
「こら、騒ぐな!」
川井がすかさず注意した。
「聞きたいことは山ほどあるだろうが、今は剣の稽古に集中しろ。皆、沖田先生とお呼びして、この人の言うことをしっかり聞くように!」
「ええー、一番聞きたいのは、川井先生なんじゃないの?」
男の子の一人が言い返し、川井が怒って、みんながどっと笑い声を上げた。
何を聞きたいのかわからないが、川井とこの子たちの仲の良さが伝わってくる。
「そうだよ。私の言葉はともかく、川井先生の言うことは聞かないとダメだ。君たちの一番の先生なんだからね」
沖田は、皆に笑顔で言った。
「みんな。短い間かもしれないけど、今日からよろしくね」
「「はーい、沖田先生!」」
皆が慕ってくれて、うれしかった。
黒猫は、稽古場の端っこで丸まっている。
「それじゃあ、早速始めようか」
稽古が始まった。
沖田は剣道の教え方がまだわからないため、川井先生に従う。
自分も学生の一人だと思って、一つずつ覚えていこう。
まずは道着の着方。
正しく着れているか一人ずつ確かめる。着れていない子は直しながら教えた。
紐を途中でほどけないように、しっかりと締めないといけない。
礼の作法。
相手に対する頭の下げ方、立ち方、座り方。気構え、心遣い。
これは勉強になる。
準備運動。
子供たちと一緒に首、肩、肘、手首、腹と背中、足腰を曲げ、体をほぐす。
なるほど、心と体が軽くなる。いいものを教わった。
いよいよ竹刀を持って、構える。
先生二人で、横に並んだ学生たちと向かい合った。
首筋を立て、あごを引いて、肩を落とし、背筋を伸ばし、腹と腰に力を入れる。
かかとをつけ、膝を伸ばし、右足を一歩出し、重心はへその前にして、自然に。
肩、肘と手の先まで力を入れ、抜いて、握りしめ、竹刀の先まで一体と化す。
目を前に向けて、全を見通した。
沖田は、竹刀を構えただけだ。
学生たち皆の目が、集まっていた。
横にいる川井先生の目まで引きつけられている。
「沖田先生……お願いします」
「わかりました」
川井の求めに応じ、沖田は頭の上へ竹刀をゆっくりと振り上げる。
川井と子供たちが目を離さず、沖田の動きに従った。
そして、
「面」
「「面!」」
沖田が掛け声に乗せて振り下ろすと共に、皆の竹刀が一斉に振り下ろされた。