第二話 異界の学校 〜綜芸種智院に桜咲く〜
学校の門を通ってすぐのところに、桜が咲いている。
大きな桜の木だった。満開だ。
沖田は、黒猫と一緒に木の根元に立って、空に広がる桃色の花々を見上げる。
きれいだった。
「異界は、今は春なのかい?」
沖田は、ここまで案内してくれた異界の武士にたずねる。
「春でござる。だがこの桜は気まぐれでの」
異界の武士、高倉虎丸は喜んで答えた。
「夏に咲く時もあれば、冬に咲く時もある。まるでその時、その時の学童たちを祝福してくれるようにの。兄者も、拙者も、この桜によく励まされた」
「へえ……雪桜、見てみたいかも」
さすがは異界。不思議なことがまだまだありそうだ。
「君と浪平殿も、この学校に?」
「うむ。何を隠そう、菅原先生は、拙者たち兄弟の学問の師匠だからの」
虎丸に連れられて、沖田は校舎に。
校舎は、木造の三階建て。
横長の大きな大きな御屋敷だった。
土足で良いらしく、草鞋は脱がずに中へ。
「ニャー」
黒猫はやっぱりついてくる。
ここは、綜芸種智院。
異界の都、龍宮京の中にある学校である。
元新撰組一番隊隊長、沖田総司は、この学校の剣の先生になりにきた。
昔のように剣を教えながら、第二の生についてゆっくりと考えてみるために。
校舎の中は、江戸のお屋敷とはまったく異なる空間だった。
木の板を敷いた廊下が、奥まで奥までずっと続いているのだ。
先の世では、こういう建物がいたるところに建てられるのだという。
案内されたのは、二階の校長室。
沖田は心して座し、ここの校長先生と向かい合う。
黒猫は、虎丸が腰に抱いている。
「ようこそ、綜芸種智院へ」
年齢は六十代ぐらいだろうか。
黒い狩衣を着た物静かな男の人が微笑むと、温かく歓迎してくれた。
「ここの校長を務める菅原です。よろしく沖田総司君」
「沖田総司です。お世話になります」
並々ならぬ徳と知性を感じて、沖田は丁寧に一礼した。
「高倉殿から聞いたよ。新撰組……京にいたんだってね?」
「はい……」
菅原先生がそう言いながら向けてくれたのは、同情の念だった。
「一旗揚げようと故郷から出てきて、京でやっと花を咲かせたと思ったら病に侵され、戦にも敗れ、五年で追われることになりました」
「わかるよ。私もかつては京にいてね。出ていく時は何とも言えない気持ちになったものだ……」
心から哀しんでくれている。
「……同じ想いを抱いた者同士、一緒に子供たちを導いていこう」
「ありがとうございます」
まさかあの時と同じ想いを共にできる人と、異界の地で出会えるなんて思ってもいなかった。二人の心が通じ合ったのが嬉しかったのか、虎丸が微笑む。
「さて、この学校について簡単に説明しておこう。ここ綜芸種智院は、かつて京の地にあった、かの空海和尚が建てた学び舎を源流としている」
「空海の学び舎ですか……?」
「左様。身分と貧富の区別なく、あらゆる人々に教えようと和尚が建てられたのだが、残念なことに和尚の死後二十年で失くなってしまってな。このまま失われるには惜しいと、同じ名と理念を受け継いで、新たに建てられたのがこの学校になる」
「なるほど……」
想像以上に立派なところだったようで、沖田は何だか恐縮してきた。
「そのようなところで、私に教えられることなんてあるのでしょうか?」
「あるとも。君に教えてもらいたいのは、剣道だ」
「けんどう……剣の道と書いて、剣道ですか?」
「そのとおり。剣の道と書いて、剣道と呼ぶ」
菅原先生が、剣道について説き始めた。
「剣道とは、簡潔に言えば、剣を通じて己を鍛え、人の道を学んでいくという教えだ。この名が広まったのは、君が生きた時代から数十年経った後になる」
「数十年……」
先の世のこととはいえ、沖田は剣道の理念が理解できた。
自分が現世でああなれたのは、近藤さんから教わった剣を通じてだからだ。
「そんな後にできた剣道を教えるなんて、尚の事私が教えてるなんて無理ではないですか?」
「なあに。君は現世でそうしてきたように、ここでも同じように剣を教えてくれればよい。剣を通じて、自身が学んだ剣の技と人としての生き方を。剣の道が人それぞれであれば、剣の教え方も人それぞれのはずなのだから」
「人それぞれ……」
「京で苦楽を共にした仲間たちは、どうだったかな?」
近藤さん、土方さん、山南さん、芹沢さん…………。
「……確かに」
「だろ」
菅原先生がニコッと笑った。
「そうやって教えながら、君も剣道というものを学んでいってほしいのだ。そうしていけば、異界での新しい生き方もおのずと見つかっていくだろう……私は時間がかかったがね」
「……私にできるでしょうか?」
「できるとも。新撰組の掲げた旗は『誠』であろう?」
「……わかりました。やってみます」
そう言ってもらえると、心が楽になってくる。
「あと助言を一つ。教える相手は、子供たちだ。だから教え方も、子供に合わせてだよ。いいかい、子供に合わせてだよ。沖田先生」
「もちろんですよ」
沖田は、子供たちに剣道を教えてあげてみることにした。
「最後に……その黒猫はどうするのかな?」
菅原先生と沖田の視線が、虎丸の腰に抱かれている黒猫に注がれる。
「ニャー」
せっかくの縁だ。
見知らぬ異界にて、一人、一匹だけというのも寂しいだろうから。
「飼ってもいいですか?」
「いいとも。子供たちも喜ぶだろう」
菅原先生が立ち上がる。
「さて、私はこれで失礼するよ。受験勉強のために来ている学生たちを待たせているのでね」
「菅原先生、ありがとうございました」
沖田は、虎丸と一緒に一礼して見送った。
「虎丸、後は頼んだよ」
「心得ました。兄者から言伝です。今度の詩宴にはぜひお出でくださいますようにと」
「喜んで伺うとも!」
菅原先生…………まさかね。
「さて。早速、剣道場へ案内しようかの」
「うん、見せてよ、見せてよ!」
それを聞くだけで、沖田は心が弾む。
この気持ち、虎丸はよくわかってくれているみたいだ。
剣を愛する者同士、二人は、はしゃぎながらそこへ向かった。
黒猫は、学校内のどこかへ行ってしまう。
綜芸種智院の剣道場は、校舎を出て、隣にあった。
稽古場の広さは、幅は七間、奥行き十二間。
剣の試合が、二つ同時にできる。
それだけでも驚きだというのに、同じ広さの稽古場が十軒、二十軒。
一列の廊下に沿って、立て続けに並んでいた。
「……広い。いい道場だ」
「ここで教えるのは、剣だけではないからの。槍、薙刀、空手に、柔道……何でもできるように備えられておる」
「……空手に、柔道って、どんな武術なんだい?」
物置き場に行けば、道着、面、胴、小手、木刀、竹刀が何でもずらり。
目にしただけで、身が震えてしまう。喜びか、武者震いか。
身の丈に合う道着と防具を、虎丸が拵えてくれた。
竹刀と木刀は、自分で選ぶ。
触りたかった。
「どれにするかの?」
「重たいのがいいな。天然理心流は腕を鍛えるために赤樫のを使うんだ」
赤樫の木刀があった。手を伸ばす。
――この感触。
柄を握るだけで、感情がこみ上げる。
片手で持ち上げ、一振り。
――振るえる。
一振り、一振り。
――振るえる、振るえる。
重い木刀を、何本か試す。
――弱い。
以前の威力はない。やはり昔のようにというわけにはいかない。
「……これかな」
もう一本、竹刀を選ぶ。
もっと重たいものにしたかったが、今はこれでいい。
今は、これがちょうどいいはずだ。
先ほどまでの高揚が収まり、気分が落ち着いてきた。
「どうする、沖田殿。道場で振ってみるか?」
「……いや。今日はこのぐらいにして、続きは明日にするよ」
疲れたような、物足りないような。
教師用の寮があり、そこで寝泊まりすることにする。
当てられた部屋は、一階の四畳半。
虎丸に案内され、襖を開けると、畳の部屋の奥に障子。
左側の床の間に掛け軸、その壁際に机と座布団、行灯が置かれていた。
右側には押入れがある。
持ってきた着替え、道着、防具、木刀と竹刀を部屋の隅に置いて、足裏で畳の感触を味わってから奥の障子を開けると、縁側に広くてきれいな庭があった。
月が出ている。素振りができそうだ。猫を飼うのにも丁度いい。
「拙者も今日はここに泊まろう。何かあれば呼んでくれ」
「悪いね……」
「夕餉はどうする、沖田殿。拙者は風呂を浴びてから、食堂で先生方と一緒に飲もうと思うのだが、どうだ、お主も一緒に?」
「……すまない。今夜は部屋で食べることにするよ」
学校内にあった浴場に行って、ひとっ風呂浴びる。
――露天風呂に、温泉とはね。
浴場もとても広くて、なかなかに凝った場所だった。
稽古の後で、子供たちと一緒に入ることもあるのだろうか。
風呂から上がって、部屋に戻り、障子は開ける。
夕餉の時間になって、給仕の人に部屋まで一献持ってきてもらった。
ご飯とお味噌汁、漬物に、お魚。
お魚は、もう一つ。
座布団に座り、机の上に置いて、月と庭を観ながら食べ始める。
美味しい。
このようにまた食べられるなんて思ってもいなかった。
ゆっくり味わっていると、
「ニャー」
魚の臭いを嗅ぎつけたのか、庭に黒猫が戻ってくる。
「おかえり。ほら、君のだ」
もう一つの魚をやる。黒猫が美味しそうに食べ出した。
猫の姿に、少し癒される。
そういえば、名前はどうしよう。
「……トシ」
……やめておこう。
夕餉を食べ終え、食器を料理場に返して、部屋に戻った。
縁側に座って、月を拝みながら物思いに耽る。黒猫はそばで丸まった。
そのまま静かにしていようと思っていたのだが、身の内から湧き出る衝動を抑えきれなくなってくる。
とうとう立ち上がり、部屋で道着に着替え、赤樫の木刀を持って庭に出た。
「フン、フン……」
素振りを二回、三回。
――物足りない。
すぐに竹刀と防具も持ち出して、黒猫に見送られながら部屋を出た。
行き先は、先ほど来た剣道場。
何十軒とある中で、窓から月の光に照らされて、少し明るい稽古場を見つける。
沖田はそこに立って、赤樫の木刀で素振りを続けた。
「フン、フン、フン!」
――振れる、振れる、振れる。
――たまらない、たまらない。
――そして、物足りない。
汗びっしょりだ。
相手が欲しい。
「精が出るの」
稽古場の入口の方を振り向くと、まるで機を見計らっていたかのように、高倉虎丸が立っていた。
「相手をしてくれるかい?」
「いいとも」
沖田は汗を拭って、防具に着替える。
――相手と打ち合うなんて何年ぶりだろう。
物置きの方から、防具に着替えた虎丸が竹刀を持って出てきた。
二人は無言で、稽古場の中央に立つ。
向かい合って一礼し、互いに竹刀で正眼の構えを取った。
「まずは動かないでくれる?」
「構わぬ。沖田殿、拙者に気遣いは無用。思いっ切り打ち込んでこい!」
「ありがとう。それじゃあ――遠慮なく!」
沖田は一呼吸置いてから、全身全霊で踏み込む。
気合一閃。
沖田の竹刀が虎丸の面に打ち込まれ、見事な一本が決まった。
相手を打った時の手応えが体の芯まで伝わって、掛け声が口から迸る。
この感覚、この感覚だった。
何年寝たきりだろうと、身体が覚えている。
魂が転生しようと、この沖田総司が忘れるものか。
しかし遅い。
やはり身体が鈍っている。京にいた頃とは比ぶべくもない。
「もう一度!」
「来い!」
動かぬ相手に、また打ち込む。打ち込む。
何度打っても遅い、飽きない。
また打てる喜びと昔より劣った怒りが渦巻いて、思わず笑みがこぼれる。
沖田総司が、剣を振るう時の笑みだった。
「……凄まじいの」
虎丸もまた笑う。
剣豪が仕合たい相手を見つけた時の笑みだ。
「剣を握ると人が変わる性か、沖田総司」
「君こそ、餌を目の前にした虎みたいになってるよ」
異界の武士、相手としていかほどか。
剣に生きる者同士、引かれ合っていた。
「試合、してくれる?」
「喜んで。お相手いたそう」
沖田は改めて、高倉虎丸と向かい合う。
今の自分では勝てないだろうが、試合をしたくてたまらない。
一呼吸置いて、沖田が先に踏み込んだ。
狙いは、最初の一撃と同じ面。
またもや気合一閃。
先ほどより鋭い一撃。
一瞬入ると思ってしまったが、虎丸にかわされる。
そのまま、きれいに面を返された。
やられた。打たれるのも心地良い。
そして、やはり強い。
「まだまだ!」
「おうよ!」
沖田は挑んだ。
なかなかに一本が取れない。
逆にこちらは、また一本取られてしまう。
自身が鈍ったというのもあるが、相手の何と隙のないことか。
そうであっても、勝てない悔しさなど湧かない。
「防具を脱いでやっていい?」
「応。寸止めでな」
もっと調子づき、防具を脱ぎ捨て、道着のまま続ける。
さらに息が切れ、汗まみれなのに、何度も、何度も剣を振るってしまう。
昔のようにまた剣を振るえることが、楽しくて、楽しくて仕方なかった。
そうだとも。
剣が振るえる。剣が振るえるのだ。
これで、近藤さんと土方さんの元に――。
――そうだった。
その願いを思い出した途端、力が抜けそうになる。
病で倒れた時のように、京を追われた時のように。
そう願っていたはずなのに、どうして忘れてしまっていたのか。
きっと、心のどこかで思い出さないようにしていたのだ。
沖田は心を落ち着かせ、剣を振るい続けた。
とうとう体力の限界を迎え、稽古場の端に座り込むまで。
まだまだ振るえたはずが、もう振るえなくなるとは。体力も落ちている。
虎丸が、竹筒に入れた水を持ってきてくれた。
「君、強いなあ」
「なんの。沖田殿の剣もまこと恐ろしいものでござった。これで病み上がりとはとても信じられぬ。拙者、何度も肝を冷やされたよ。ここでまた腕を磨いて、異界の剣術を学べば、お主はさらに強くなれる。拙者に勝つこともな」
現世にいた頃よりもか。
沖田は、水をありがたく受け取って、口元に運びぐいぐいと飲む。
水は旨くて、虎丸の言葉も嬉しかったが、心の穴は埋められない。
「……悔しいな」
沖田はこぼす。
「どうして異界なんだよ……」
動けるようになれても、剣を振るえても。
異界では意味がない、意味がないのだ。
近藤さんと土方さんの元で、あの旗の下で。
剣を振るうべきところでなければ、何の意味もないのだ。
このままの身体で、前世に帰りたい。帰れるのであれば。
「沖田殿……」
虎丸が、こちらの心中を察して話しかけてくる。
沖田は、彼の伝えたいことを何となく悟った。
「わかってる。帰れないんだろ」
「……いや、現世に帰るだけならばできる。家族に会ったり、墓参りするだけならの。現に拙者と兄者も、時々母上に会いに行ったり、一族を弔ったりしておる」
「そうなんだ……」
「だが現世の歴史に介入することは許されぬ。戦や政に関わってはいかぬ。それが、異界での掟なのだ」
それでは意味がない。戦や政に関わるのは、必定であろうから。
虎丸は、どうなのだろう。
「君は、現世に未練はないのかい?」
「ない。母上が息災であればそれでよい」
「それじゃあ……斬りたい奴は?」
沖田はいた。近藤さんを狙撃した奴らだ。
「一人おった」
虎丸は答える。
「父と兄者の一族の仇……拙者の伯父よ」
「そりゃまた……」
兄弟同士で相争ったということか。
浪平や虎丸にも、過去があるのだろう。
「一つ、異界での目標ができたよ」
沖田は、また笑えていた。
「まずは、君から一本取る。このままなのは嫌だからね」
「うむ。それはよかった。いつでも相手になろう」
「それから……名を戻そうと思う」
「名を?」
異界に来て、剣を教える暮らしに戻り、季節は春。
「諱をね。私は、沖田総司春政だ」
第二の生、新たな剣の道へ。
――未練はあるけれど、とりあえずここで生きてみます。