8 俺の気持ち
目を覚ますと、洋間のソファに俺は横になっていた。
ひっきりなしに降り注ぐ雨音が、薄暗い洋間に響き渡る。百合の花型の電灯に黄色い光が灯っている。カーテンをかけた窓の傍には静野さんが立っていて、テーブルに置いた鍋からスープのようなものをすくっていた。
「やあ。目覚めたね」
彼女は湯気の立つお椀を手に、ソファの傍らにやってきて、枕元におかれた椅子に腰掛けた。
「びっくりしたよ。突然倒れるのだもの。具合はどお?」
「まだ少し、ぼーっとします」
「すごい熱だったよ。具合が悪かったんだね。ごめんね、仕事なんかさせて」
そう言って彼女は頭をちょこんと下げた。
「いえ。いいんです。そんな」
慌てて起き上がろうとする俺を制し、彼女はお椀を突き出す。
「まだ寝ていた方がいいよ。これ飲んで」
お椀の中の茶色い汁をすすると、不思議な味が口の中に広がった。苦いような甘いようなからいような……。一言で言うと、ひどくまずい。
咳き込む俺を見て、静野さんは少し頬をほころばせた。
「それは漢方薬さ。滋養強壮の効果がある。体を温め、体力を回復し、熱もさます」
そして白衣のポケットから小さな箱を取り出した。
「それでもきついときは、これを飲んで。これも解熱鎮痛剤だから。ほかに、具合の悪いところはある?」
「だるいです」
「咳は出るの?」
「いいえ」
「痰とか鼻水は?」
「いいえ」
「じゃあ、今は熱と倦怠感だけか……」
そう言いながら静野さんは俺の額に手を当てた。そしてその姿勢のまましばらく考え込む。彼女の手のひらは少し冷やりとしていて気持ちよかった。
静野さんがじっと俺を見つめている。何だか頬がほてってきて、額にも汗がにじむ。彼女の手に自分の汗がつくのが何だか恥ずかしくて、俺は慌てて身を引く。
「あの。風邪薬飲めば大丈夫ですから。ほら。よく宣伝でやっているでしょ。パパロン総合風邪薬。あれください」
「ダメだよ」
静野さんはまじめな表情で俺を見つめたまま、諭すように言った。
「薬はね、むやみやたらと飲むものじゃないの。あの風邪薬はいろんな成分が入っている。今の君には必要のない成分が。だからあんまりおすすめできない」
「では、どうすれば?」
「やっぱり漢方薬だな。今飲んでもらったのと同じようなのが市販のでもあるから持ってきてあげる。それを一日三回飲んで。散剤をそのまま飲んでもいいけど、お湯に溶かした方がよりいいよ。あとは、栄養を摂って休養する。おかゆ作ってきてあげるよ」
そして静野さんは立ち上がり、洋間の出口へと向かった。
その白衣の後姿を俺は目で追う。背筋を伸ばし、ひっつめの黒髪をゆらしてさっそうと歩く、その後姿は、医療ドラマの主人公のように格好いいと思った。
「静野さん」
俺は思わず呼び止めてしまう。呼んでしまってから逡巡する。何歳も年上の社会人にたいして、慰め的なことを言うのは不遜かもしれない。説得力をもってその苦悩を和らげられる材料を俺はなにも持っていない。だけど、俺が彼女に感じる思いは、伝えたって罰は当たらないと思うんだ。
出口付近で振り返り首をかしげる静野さんに、俺は思いきって言った。
「お……俺は、静野さんがダメな人間とは思いません。俺から見れば、静野さんは十分に格好いい大人です。演奏家としても、薬剤師としても。あこがれてしまうほどに」
言った。言ってしまった。鼓動が激しい、顔が熱い。恥ずかしい。今にも消えてしまいたい。しかし後悔はしていないぞ。そう思いながらも体にかけられた毛布を引き上げて顔を隠す。その瞬間、俺は彼女が笑みを……今まで見せたことのないような、花開くような笑みを浮かべたのを、スローモーションのように見た。そして彼女が戻ってくるまで、毛布の中で何度もその表情を再生する。俺の脳裏に焼き付くまで。
〇
梅雨が明けたのか、次の日曜日はそれまでの雨天が嘘のように晴れ渡っていた。
俺と静野さんは久しぶりにあの美術館公園へと出かけた。街も公園ももうすっかり夏の風情だ。頭上を覆う空は青く、公園の木々のはるか向こうに大きな入道雲がそびえている。セミの鳴き声の降る林の枝々を見上げれば、緑の色はますます濃く、その間から漏れる陽光は熱く眩しい。空の明るさとのコントラストで暗い林床に浮かぶ木漏れ日が、あたたかい風が吹くたび波のように揺れる。
静野さんはいつものように、すっかり定位置となったひょうたん池のほとりの林の入り口で立ち止まる。俺は彼女からちょっと離れて立ち、観客を装って腕を組む。彼女の演奏を聞くのは、あの日以来だ。今日もやはり哀しい曲を吹くのだろうか。そう思って待っていたが、この日はなかなか演奏をはじめようとはしなかった。
静野さんは、オカリナを持ったまましばらく考え込んでいたかと思うと、やがて楽器を手にしたまま芝生広場の方へと歩きはじめた。
俺は慌てて彼女を追う。
「ちょっと。静野さん、どうしたんですか」
「いいから。ついてきて」
彼女が立ち止まったのは芝生広場の真ん中に立つクスノキの下だった。そこからは広場で憩う何人もの人々の姿が見える。
「どうしちゃったんですか、静野さん。ここじゃあ……」
みんなから丸見えだよ。大丈夫なのか、こんなに人の目にさらされて。……と言いかけた俺に、静野さんは笑みを向ける。まあ、観ていなさい。とでも語り掛けるような、不敵な笑みを。
彼女はひっつめていた髪を解いた。少しウエーブのかかったつやのある黒髪が風になびく。その風に乗る香りをかぐように目を閉じ、深呼吸して、オカリナを口につけ息を吹き込んだ。
それは、誰もが知る有名な曲だった。
美女と野獣の「ビューティー・アンド・ザ・ビースト」。
とめなければ。とっさに俺はそう思った。それは彼女が最も苦手とする類の曲だ。以前子供を泣かせたことを忘れたのか静野さん。ここには何人もの子供がいるぞ。
その大勢から指をさされ、「下手くそ」と嘲られる場面を想像して俺は戦慄する。そのあと切れた静野さんににらまれて泣き崩れる子どもたち。その子を抱いて顔を青ざめさせながら逃げ出す母親……。平和な公園が阿鼻叫喚の生地獄と化すさまを……。
俺の呼びかけるまもなく、静野さんのオカリナの音が飛んでゆく。
俺は伸ばしかけた手をとめた。彼女の演奏をとめなかった。とめることができなかった。どうしてとめることなどできよう。こんなに素晴らしい演奏を。
それはその場の空気を一瞬にして変えてしまうような演奏だった。窓を開けたら花の香をのせた爽やかな風が吹き込むような。空を覆っていた雲が分かれて青空が覗き、光が差し込むような。
それは今までの彼女の演奏の中で一番なのではないかと、俺は感じた。岡哀子の曲を演奏したときよりも素晴らしいと思えた。
いつの間にか周囲には何組もの親子や家族連れが集まって、彼女の演奏に聴き入っていた。やがて演奏が終わり、静野さんがオカリナを口から離すと、拍手が彼女を包んだ。その観客の中からひとり、小さな男の子がおずおずと前に進み出る。見覚えがある。以前静野さんに下手クソと言い放った子だ。
「どうだった?」
静野さんはこの前と同じように彼にたずねる。
男の子は恥しそうにモジモジしていたかと思うと、静野さんの前に手を突き出した。その手には、一輪の白い小さな花が握られていた。
「くれるの?」
静野さんの問いに彼はコクリとうなずく。静野さんが受け取ると彼は、照れ笑いを浮かべながら母親の元へと戻っていった。
静野さんはもらった花を胸に抱いてほほ笑んでいる。その祈るような柔らかな横顔を見つめながら、俺はしみじみと、湧き上がる自分のこの感情をかみしめる。
ああ俺は、この人のことが好きだと。