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7 静野さんの哀しみ

 雨の日は公園での練習は休みだ。


 梅雨に入ってからはめっきり美術館公園に行く機会も減り、代わりにあの来実堂くるみどうの二階の洋間で、静野しずのさんは熱心にオカリナを吹いている。相変わらず明るく楽しい曲は下手くそで上達する気配をみせない。本人もうまく吹けないものは面白くないので哀しい曲ばかりを吹こうとする。おかげで梅雨空の下ただでさえどんよりとしているのに、この古ぼけた洋館はいっそう暗くじめじめとして、ますます人を寄せ付けない魔窟じみた様相となっていた。そんな魔城に住み着く静野さんはさながら白衣を着た魔女のようで、俺はそれに仕える忠実なしもべなんじゃないかと最近思う。


 その日も俺は雨に打たれながらも、この仕事のない仕事場に律儀に出勤した。別に休んでもかまわなそうだけど、なんとなく行ってしまう。義務感ではない。行かないと落ち着かないのだ。たぶん、俺にとっての居場所になりつつあるのだろう。俺もいよいよ、魔族の仲間入りということだろうか。


 扉を開いて館内に入ると、木立や軒や俺の傘を叩いていた雨音が急に静かになり、代わりに静野さんのオカリナの音がしとしとと俺の身体を包んだ。今日はまた一段と哀しい音色だ。


 最近では俺はその音色で彼女の機嫌がわかるようになってきた。哀しいと一言で言ってもいろんな段階がある。寂しい哀しさ。怒りのこもった哀しさ。優しい哀しさ……。そして今の演奏から推測するに、今日の彼女はもう……絶望に打ちひしがれ、何もかもに嫌気が差して投げやりになっているようだ。太く力強い演奏なのだけど、しかしその一音一音は悔しさを絞り出すようで、どこかにほおり投げるような乱暴さも感じる。


 この曲は知っている。レ・ミゼラブルの「夢やぶれて」だ。ヒロインの母親フォンティーヌが貧しさのどん底で、キラキラしていた青春や己を捨てていった男に思いをはせながら、今の自分の境遇の絶望を血を吐くように歌う。選曲も哀しみ極まれりといった感じだ。


「なんか、嫌なことでもありましたか」

 電気もつけていない薄暗い部屋に入って彼女の演奏を最後まで拝聴したあと、俺はたずねた。


 静野さんは口からオカリナを離すと、虚ろな目で俺を一別してからひとつうなずいて、窓の方を向いた。窓のガラスの表面をひっきりなしに雨水が流れている。どこから発するのか薄緑色の淡い光がその流れに合わせて、薄ぐらい壁や天井で揺れていた。窓の光をうつす静野さんのメガネの表面も、同じ緑の光に濡れているように見えた。


 やがて彼女は、静かな声で俺に命じた。

「タイラ職員は、倉庫の整理をしてきなさい」


 それに対して俺は口答えをせずに、黙って洋間をあとにした。

 今、彼女が話すような気分じゃないということがわかったから。機嫌の悪いとき、気持ちが沈んでいるとき、誰とも接したくないときに、いつも彼女は俺に倉庫の整理を命じる。別に邪魔をしたりうっとうしくからんだりしようなどと思ったことはないが、彼女の御心を安んじるため、そういう時は俺は必ず言われたとおりに倉庫に引っ込むことにしている。


 そうはいっても、二階に二つある倉庫部屋は全部整理しつくしてしまった。基本暇だし、彼女から整理を命じられたことは思い返せば一度や二度のことではない。どれだけ彼女から締め出されているんだ俺は。一部の隙もなく整頓しつくされた倉庫を見渡しながら、俺は思わずため息をつく。今日はどうやって時間を過ごそうか。いずれにせよあまり頑張る気はない。今日はなんだか体がだるいんだ。昨日びしょ濡れになって体をよく拭かないまま寝落ちしたせいか。


 北側の隅にある静野部屋のことを思いだし、今日はそこの整理をすることを思い立った。立ち入り禁止を言い渡されているが、別にたいしたものもないだろう。鍵がかかっているなら、静野さんから借りればいい。くれないならば、無理やりおしこむまでだ。


 試しにノブに手をかけてみると、あっけなくドアは開いた。


 恐る恐る中に足を踏み入れる。暗い。その薄ぐらい部屋の中になにか異様なものがおいてある。窓際の机の上に、違和感のある物体が。あれは、まさか……。


 そのとき白い光が一瞬だけ部屋内に差し込み、その物体の姿があらわになる。それは、間違いなく人間の首だった。若い女の人の生首。再び暗くなった部屋の中で俺は、光に遅れて落ちた雷の音と唱和するように、叫び声をあげた。逃げようと後ろを振り返る。しかし背後の入り口にはいつの間にか白衣の静野さんが立ちはだかっていて、俺はまた悲鳴を漏らす。


「見たわね」

 そう呟きながら迫り来る静野さん。俺は禁を破って部屋に侵入したことを心の底から後悔しながら、悪魔退散の祈りを唱えた。


     〇


 数分後、俺は呪いをかけられることもなく、体をバラバラにされることもなく静野部屋でお茶を飲んでいた。ちゃんと電灯の明かりの下で見ると、ここは普通の小綺麗な部屋だった。この来実堂の立ち入り禁止区域と呼ばれるにふさわしい、化け物屋敷じみた埃とカビだらけの、荒涼たる廃墟……を想像していたのだが、その空想は裏切られた。机の上の生首はマネキンだった。メイクの練習用のウィッグヘッドというやつだそうな。窓には薄緑色のカーテンがかかり、その窓際には首をのっけた木製の学習机が鎮座している。西側の壁には本棚がおいてある。


 本棚にはメイクの本やファッションの本、礼儀作法などの本が並んでいた。あとファッション誌もたくさん揃っている。そして薬や医療に関する本は、一冊もなかった。


 ローテーブルで差し向かいでお茶を飲んでいる静野さんは無言だ。気まずい。なんだかまだどこかから「夢やぶれて」が聞こえてくるような気がする。彼女の体から滲み出しているんじゃないかと思う。その哀しい旋律をききながら俺は、窓際の机に向かって一心不乱にメイクやファッションの本を読みふけっている静野さんの姿を想像する。白衣を床にほおり投げて、ひっつめの髪を解いて、仕事の時とは違う楽しそうな顔をして……。するとなんだか、胸が痛くなった。


「びっくりしたでしょ。ここはね、私の秘密の研究所なの」


 しばらくの沈黙のあと、ようやく顔をあげた静野さんはポツリとこぼした。口もとに苦い笑みを浮かべて。見つかってしまったからにはしょうがないかといった、開き直りともあきらめともとれる力の抜けた表情で、話を続ける。


「いい女になるための研究所。メイクとかファッションとか、立ち居振る舞いとか。ここで日夜研究をしていたの。知りたかった。どうしたら好かれるのか。人から振り向いてもらえるのか。私だって、そういう望みはあるのよ。人から愛されたい。褒められたい。必要とされたい。でも……」

 言いかけて口を閉じ、カップに視線を落とした。


「昨日、同窓会に行ってきたの」

 カップを持ち上げ、しかしすぐにテーブルに置く。

「誰からも振り向いてもらえなかった。みんな私なんか存在していないみたいにふるまうの。愛想笑いを振りまいても、誰も立ち止まらない。みんな気づかず私の前を素通りしてゆく。もともと友達は少なかったけど、ここまで関心を持たれないとはね」


 今度はそれとはっきりわかるほど深くため息をついて、彼女はテーブルに頬杖をついた。気だるそうに紅茶を眺め、その液面に息を吹きかけるようにつぶやく。まるで紅茶相手に告白するように。


「惨めだったわ。こんなところでいい女を夢見て、でも現実の世界では、やっぱり私だけみんなの輪から外れてひとりぼっち」


 スプーンを手にして紅茶の中に入れ、しかしかき混ぜることなくすぐに出してカップのわきにもどす。


「わかってるんだ。本当は見た目の問題じゃないんだ。私は前向きに生きられないから。仕事にも勉強にも身が入らなくて、同じところで足踏みばかりしている。人生をどこかあきらめた、そういう負のオーラがにじみ出ているのよ。おまけにコミュニケーション能力低いし。愛想悪いし。不器用だし。体力ないし。根性もないし」


 顔をあげたかと思うと、今度は天井からつり下がった百合の花型の電灯を見上げる。そこに何かを見るように目を細めて。


「そんな私に比べて、みんなキラキラしているの。人生の階段を順調に上がって、希望に満ちあふれた生活を送っている。キラキラ光るシャンデリアの下でお酒飲んで楽しそうに笑いあって……。そんな人たちを傍らから見ていると思い知らされてしまう。ああ、私は落ちこぼれなんだ。誰からも必要とされない。誰の役にもたてない人間なんだ」


 視線を紅茶のカップに戻すと、押しのけるようにそれをテーブルのわきによけた。


「私はこんな私が嫌い」


 眼鏡をはずし、顔を両手で覆う。


「もっと他の何かになりたかった。愛される人間に。必要とされる人間に。でも、何にもなれなかった。今でも探している。この部屋で、そして公園で。だけどもう、疲れちゃったよ」


 しばらくそのまま沈黙し、やがて手の甲で目のあたりをぬぐうと静野さんは俺をみて自嘲的に笑った。それは魔女のようでも悪の研究者のようでもなかった。ただの疲れきった人間だった。夢破れて血を吐くような絶望を胸にしまいこんだ人間の、哀しい姿だった。


「君は、私が悲しい曲ばかりを吹くと指摘したよね」

 寂しい笑みを浮かべたまま立ち上がり、彼女は本棚に近づくと、そこから本を取り出しながら言った。楽譜本のようだ。「楽しいオカリナ」と表紙に書いてある。

「それはね。私の人生が悲しいことばかりだからだよ」

 パラパラとページをめくってからすぐにその本を閉じ、しかし棚には戻さずに本を持つ細い手をじっと睨み付ける。その指がわずかに震えている。

「悲しいことばかりだから、吹けば哀しい曲になってしまうんだよ」


 俺はなにか言いたかった。実際はその同窓生たちだってつらいこともあるだろうし、静野さんの日常も悲しいことばかりではないはず。しかし言葉がなにも出てこなかった。何歳も年上の社会人にたいして、説得力をもってその苦悩を和らげられる材料を俺はなにも持っていない。そのことが、とても悔しく感じられた。


 ただその悔しさだけを抱えて、俺の頭はますますくらくら揺れる。ふわりと浮き上がってしまいそうだ。頬が熱い。体も熱い。視界が、白く雲って歪んでいく。


 突然、窓と天井が斜めに傾いた。


 俺を見る静野さんの目と口が大きく開かれる。俺の名を呼んで駆け寄る彼女の姿もまた斜めに傾いている。


 ああ、そうか。傾いているのは俺の体だ。

 そう思うと同時に床に倒れた体に衝撃が走って、俺の意識は途切れた。

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