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5 迷演奏家、静野さん

 翌週から、俺は静野しずのさんの手助けを身をいれてすることにした。彼女の思いをきいたからには、それまでと同じというわけにはいかない。それはなにか俺の今後にも関わることのような気がして、ほおってはおけなかった。


 木曜日の午後、いつものように公園につくなりさっそく林の中へ入ってゆこうとする静野さんを、俺は引き留める。


「とりあえず……。物陰から出て演奏しませんか」

 そしてもうひとつ、彼女に提案した。

「それと……。なんて言うか、もっと楽しそうな曲も吹いた方がいいと思うんですが」

 すると静野さんはかすかに眉をひそめた。そしてボソリと不服をもらす。

「えー。だって、好きなんだもん。岡哀子おかあいこの歌」

「岡哀子?」

「知らないの? 彼女の失恋ソングは名曲ぞろいだよ。チョー泣ける」


 あまりよく知らない。っていうか、あれらの曲は失恋ソングだったのか。道理で……。

 納得しながら俺は改めて静野さんの姿を眺めてみる。そういえば、服装だって今日も先週と同じようなコーディネートだ。白いブラウスの上に黄色いカーディガン。淡い緑のフレアスカート。白いつば広帽子をかぶって。お気に入りの服を着て、好きな曲のみ演奏する。きっと食べ物も、好きなものしか食べないんだろうな。まあ、誰しもそうだとは思うけど。


 でも、人に聴かせて喜ばせたいなら、好きなものだけとはいかないだろう。なにかこう、もっと一般受けを狙うことも必要なんじゃないだろうか。聴く人にはいろんな人がいるんだし。


 その考えを伝えてみると、静野さんも渋々といった様子でうなずいた。

「うーん。しょうがない。じゃあ、どうしようかな。ドレミの歌でも演奏してみるか」

 彼女の選曲に俺は思わずずっこけそうになる。確かに名曲だけど、いきなりそれかい。まあ、一般受けするかはわからないけど、失恋ソングオンリーよりはいいか。少なくとも子供を恐れさせることはない。


「じゃあ、今日はそこで吹いてみましょうよ」

「え。遊歩道から丸見えじゃない」

 俺が指さしたベンチ脇の空間を見て静野さんはあからさまに嫌そうな顔をした。

「せめてあの木の根もとじゃダメかしら」

「しょうがない。じゃあ、そこからはじめましょうか」


 未練がましく林の奥をみている彼女を振り向かせ、俺は遊歩道に一番近いケヤキの幹の傍らに連れて行った。そして遊歩道側に向かって立たせる。


「わかった。じゃあ、ここで吹くね」

 そう言ってオカリナを手にした静野さんは、しかし足を少しずつ横に移動させて木の幹の影に隠れようとする。

「だめですよ。見えるところにいてください」


 俺のダメ出しに静野さんは口をすぼめてうなずき、しかし遊歩道の正面には出ず、そっぽを向くように横向きに立った。そして問うように俺を見やる。どう? これでいいでしょ。とでも言いたげに。


 まあ、いいか。林の奥にいられるのよりはましだ。俺は苦笑いしながらうなずく。すると彼女はやれやれといった感じで吐息をつき、バッグからオカリナを取り出した。


 ドレミの歌はミュージカル「サウンドオブミュージック」の中で歌われる曲の一つだ。我々はこれを子供のころから何度も聴き、学校などでも散々歌うから、白米のように珍しくもなんともないものに感じがちかもしれない。しかし間違いなく名曲だと、俺は思っている。初めて音楽というものに触れた子供たちの喜び。そしてマリア先生の、子供たちに音楽を愛してほしいという想い。音楽に対する賛歌のような曲。しかるべき技量を持った人がその技を惜しみなくつぎ込んで演奏するならば、とても感動的なのだ。


 だから俺は、ちょっと静野さんの演奏が楽しみだった。この曲を、彼女はどう奏でるのだろう。音楽への賛歌を、彼女はどういうふうに表現するのだろう。


 音楽への賛歌……。

 しかし俺の頭の中に浮かんでいたその文字は、流れてきた静野さんの音を耳にしたとたんに、ひび割れ崩れ落ちてしまった。


 下手だ。


 まったく気持ちが入っていない。ただ、楽器に音を吹き込んでいるだけだ。これではまるで初心者だ。岡哀子の曲を吹いていた時の気合は一体どこへ行った。

 俺があっけにとられているうちにドレミの歌は終わってしまった。しばらく間が開いて、次に何を演奏するのかと思っていたら、次もまたドレミの歌。そのまた次も。


 へたくそなドレミの歌を三回続けてから、静野さんは脱力して木の幹に寄りかかり空を仰いだ。

「あー、ダメだ。気分が乗らない」

 静野さんは大きく伸びをすると、少し間をおいてからまた演奏をはじめた。今度はドレミの歌ではない。さっきまでとは別物のような音色。ドレミの歌に飽きた静野さんが岡哀子の曲を演奏しだしたのだ。


 同じ人の演奏とは思えないクオリティの高さ。オカリナの音色は時に太く時にか細く、まるで生き物のように俺を包みこみ、その胸を締め付けようとする。透明な手に頭や頬を優しくなでられ、鳥肌が立ち、息をするのも忘れてしまう。


 確かに名曲だ。

 曲が終わると俺は、静野さんに気づかれないようにそっと顔をそむけた。今のしんみりした表情なんか見られたら、きっと彼女に得意がられる。それがなんだかちょっと悔しかったから。


 もう昨日と同じ路線でいくのかな。そう思って耳を傾けていたら、次はまったく違う調子の旋律が流れてきた。

 ああ、これも知っている曲だ。アラジンの「ア・ホール・ニュー・ワールド」。これも知る人ぞ知る名曲。ああ、でも……。


 俺はがっくりと首を垂れる。

 まったくこの人は、名曲を台無しにして。ドレミの歌と一緒じゃないか。全然気持ちが入っていない。


 子供の描いた絵のようないびつな音符が周囲で踊っているような気がして、俺はそれらを必死に振り払おうとした。右の四分音符をひとはらい。左の二分休符もひとはらい。

 ポンポン跳ねてくる音符どもを追い払おうとやみくもに空気をはらっていたら、静野さんから声をかけられた。


「どうしたの。虫でもいた?」

「あ、ああ。いいえ、そ、そうです。ちょうちょがいたものだから」

 頭をかきながらごまかす。別に悪いことをしていたわけじゃないが、なんか気まずい。そんな俺に、静野さんは不審そうな視線をじっと向ける。


 静野さんの視線を避けてうつむいたときだった。小さな男の子が俺たちの傍らにいることに気づいた。


 男の子は指をくわえてキョトンと静野さんのオカリナを見上げている。

「君、何か吹いてあげようか」

 何を思ったか静野さんが彼に語り掛けると、男の子はこくりとうなずいた。


 ま、まさか……。まずい。静野さん、それはダメだ。


 しかし俺が止める間もなく、静野さんは演奏をはじめてしまう。ドレミの歌を……。

 再びひび割れた音符たちが俺と男の子を襲う。もはやそれらを追い払う気力もなく、俺はあきらめの境地で心を無にして空を見上げる。ああ、あの雲みたいになりたいなあ、などとおもいつつ。


 演奏が終わると静野さんはのしのしと男の子の前に進み出て、よせばいいのに彼に尋ねた。


「どうだった」


 何と恐れを知らぬ静野さんであることだろう。そして子供という生き物の無邪気さは時には凶器になる。相変わらずキョトンと静野さんを見上げていた彼は、一言だけ、何のためらいもなく言い放った。


「下手くそ!」


 頭上で揺れる枝の動きが止まった。鳥の鳴き声もやみ、雲も流れるのをやめたような気がした。その時の静野さんの表情を俺は見ていない。恐ろしくてまともに見ることはできなかった。ただ、気の毒に、真正面から彼女の視線を浴びてしまった男の子は、たちまち怯えた表情になって泣き出した。


 その泣き声に駆け付けた母親も、静野さんを見るなり顔を青ざめさせ、我が子を抱いて一目散に逃げだした。ごめんなさいごめんなさいと、誰に言うでもなく連呼しながら。


「……帰りましょうか。静野さん」

 暴れまわる浅野内匠頭を殿中でござると押しとどめる茶坊主のような気持ちで、俺は彼女に来実堂への帰還を呼びかけた。


     〇


 それから週末にかけて、さすがの静野さんも若干へこんでいる様子だった。もっともあまり態度や表情に表さない人なのでわかりにくいが。なにせ仕事中はほとんど会話しないし、彼女は店内をうろうろしているか本を読んでいるか、ボケっとカウンターに突っ立っているだけなので。それでも金曜は何となくそれらの合間に何やら考え込んでいる様子がうかがえた。


 これは今日は練習なしかな。なんとなくそう思いながら土曜日の昼、二階の洋間で帰り支度をしていると、静野さんがつかつかと俺のところまで歩み寄ってきて、そして言った。


「さあ、行こうか」

「え? 今日も公園でやるんですか」

「いや。新宿に行こうと思う。君も付き合いたまえ」


 ええっと、嫌です。出しかけたその言葉を飲み込みながらも身を引こうとする俺の袖を、静野さんは逃すまいと引っ張った。

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