4 静野さんの危機
「この漢方って、いつ飲んでもいいんですか」
「うーん。できれば食前……空腹時の方が……吸収が……。あと、これは……その、あ、お湯に……溶かしたほうが……いいです」
「あと、私、喘息の薬飲んでいるんですけど……」
「えっ。あっと……これは……うん。大丈……夫。ですね。飲み合わせは……問題……ない、です」
「飲み合わせの悪い薬ってあるんですか」
「ありますよ。たとえば……」
お客さん相手に何やら難しい言葉を並べて説明しだした静野さんの様子を、俺はその隣で興味津々に観察していた。久しぶりの来客。静野さんが薬剤師らしい姿を見せる珍しい機会だ。
静野さんは薬を渡すだけではなく、お客さんの質問に一生懸命答える。俺のよくわからない呪文のような単語を織り交ぜて、たどたどしくも、一生懸命に。その姿にはドラマの登場人物のような華やかさはないけど、好感が持てる。さすが薬剤師。だてに白衣を着ているんじゃないんだな。と、俺は思う。お客さんは浮かない顔をしているし、静野さんもなんだか首筋に汗をにじませているけど。どうやら人前で発表するのが苦手というのは、本当らしい。
そんな彼女の姿を見ていると、ついつい考えてしまう。彼女はなんで音楽祭に出ようと思うのだろう。そんなこと、彼女の勝手だとはわかっているけど。
「ああ、しんどかった……」
お客さんが帰ると、静野さんは心底疲れた様子でため息をついた。
「んじゃあ、今日はこれでおひらきですかね」
俺はちょっと期待をこめて彼女にきく。今日は土曜日だけど仕事もちょっとあったし、公園練習はなしかな。
しかし店を閉めた静野さんは、何事もなかったように俺に告げた。
「何言ってるの。さあ、公園に行くよ」
ああ、やっぱり行かねばならんのか。俺はさっきの静野さんと同じようにため息をついて肩を落とした。
〇
静野さんと俺の公園での日々がはじまって、一月近くが過ぎた。
週に二日ほど、来実堂が午前のみ営業の木曜と土曜の午後に、仕事の終わったあと二人であの美術館公園にゆく。たまに日曜の午前に付き合わされることもある。
小鳥のさえずる公園の、新緑に輝く木々の枝の下で、その雰囲気をぶち壊すように寂しい演奏を披露し続ける静野さん。人の寄り付かぬ林の入り口で、手持ち無沙汰にたたずむ俺。うっかり林に近づこうとして俺たちの存在に気づき、何事かささやき合いながらこそこそ来た道を戻ってゆく人々を目にするたびに、胸が痛む。なんか自分が変態にでもなった気分だ。
目立たぬ木の陰で一心にオカリナを吹く静野さんを横目で見ながら俺はぼやく。静野さんはいいよな。一応演奏という行為をして、自分の世界に入っているのだから、外目にも格好がつくってもんだろう。それに引き換え俺は、聴衆という役割なわけだけれども、いつも一人だけの聞き手なので何とも居心地が悪い。せめて曲の合間とか、声でもかけてくれればいいのに、彼女はまるで誰もいないかのように淡々と演奏を続けやがる。しかも何時間も。何もせずにこんなところに突っ立たされ放置される身にもなってほしいもんだ。そんな仕打ちに耐えられるのはドM属性のある人間だけだろう。
〇
そんなわけで、四月最後の公園練習のこの日、俺はひとつのいたずらを試みた。
別に静野さんに何かをしようというのではない。彼女が演奏に夢中になっている間に、公園の散策に出かけたのだ。どうせ俺がいてもいなくても彼女は気にしないだろうし、同じ公園内だしどうってことはないだろう。それより俺の精神衛生を良好に保つことの方が重要に思えた。少しくらいの息抜きは必要だ。
久しぶりのひとりでの散歩は、実に快適だった。おどろおどろしい雰囲気を垂れ流す来実堂やあの林にいたせいで忘れかけていたが今は春。桜はすでに散ったものの若葉の淡い緑眩しい、晴れやかな季節なのだ。
木々のさざめき。小鳥の声。それに混ざって、腹が鳴る。
「よし。そろそろもどるかな。おやつでも食べよっと……」
歩くのに疲れてようやく池のほとりにまで戻った俺は、林の前で足を止めた。
オカリナの音はしていない。しばらく耳を澄ませてみたが、葉づれの音が降り注ぐばかりで彼女の曲が流れてくる様子はなかった。散策に夢中で気づいていなかったが、そういえば、音楽はいつから途切れていたのだろうか。
「静野さーん」
俺は林の中を覗き込んで彼女を呼んでみた。風がそよぎ、頭上に覆いかぶさる木の枝が波のようにさざめいて揺れる。風が通り過ぎると静寂が林の中を包む。返事はない。ただ木漏れ日が音もなく林床のところどころを照らしている。
「静野さん?」
今度はもうちょっと大きな声で呼びかける。俺のその声は林の中の静寂に力なく吸い込まれるだけだった。
急に俺の胸が締め付けられ、大きく鼓を打った。
「静野さん!」
今度は祈るように叫ぶ。それと同時に林の中から短い悲鳴が聞こえた。
「大丈夫ですか? 今行きます!」
言うや否や俺は駆け出す。慌てたせいで足を滑らせ地面に手をついた。しかし俺はひるまずにすぐ立ち上がり、膝と手の土をはらいもせず林の中へ入っていく。木の根につまずき、幹にぶつかりそうになりながら、彼女がいるはずの木陰に向かう。
どうしたんですか。大丈夫?
目的のイチョウにたどり着いた俺はそう言いかけて、しかし口を閉じた。荒い息を吐く俺の視界には、何事もなくそこにたたずむ静野さんの姿があった。彼女はイチョウの幹によりかかって、ぼんやり空を見上げていた。
緩やかな風がとおりぬけ、彼女の髪とスカートをかすかになびかせた。足もとに置いてあった帽子が浮いて転がり、俺の目の前で止まる。それを拾い上げた俺の方を向いて、静野さんはニヤリと少しだけ口の端をあげた。
「ひっかかったな」
「なっ……」
数秒してから、俺はあの叫びは静野さんの演技だったことを理解した。彼女にからかわれていたのだ。
たちまち頬がほてり、首筋に汗が伝う。
「ひどい。割と本気で心配したのに」
「ごめんごめん」
静野さんはぽつりと俺にあやまる。
「君がそんなに本気になってくれるとは思わなかったから」
「ほ、本気じゃないです」
「そう?」
静野さんの視線が俺の土のついたままの膝に向けられる。俺が慌ててその土をはらうと、静野さんは目を細くした。
「いつの間にかいなくなってたから、ちょっとからかおうと思って……。飽きちゃったかな。ごめんね、付き合わせて。でも、助かってるんだ。ありがとう」
「それは、どうも……」
彼女がごめんね、とか、ありがとう、なんて言葉を使うなんて。そもそもありがとうという言葉自体、最近きいてないな。なれない言葉に俺はなんだか体のあちこちがむずがゆくなって、それを紛らわすために、ぶっきらぼうに帽子を彼女につき返した。
「ところで、どう?」
帽子を受け取った彼女が突然俺にきく。その意味が分からなくて首をかしげる俺に、静野さんは帽子のつばをいじりながら言った。
「お客さんの反応」
「お客さん?」
「私の演奏……。何日かやってみたけど、誰か聴いてた? 聴いた人はどんな様子だったの」
目をわずかに伏せ、消え入りそうな声で問う静野さんの表情を眺めながら、俺はどう答えたものか迷った。みんな逃げだしました。なんて言ってしまったら、彼女は落ち込むだろうか。かといって、嘘をつくのもはばかられる。あれで公園の人々を大喜びさせたなんて思われたら、皆さんに申し訳ない。
俺が黙っていると、静野さんは察したようにひとつうなづき、そして少し寂しそうに言った。
「そっか。やっぱりうまくいかないか」
帽子を目深にかぶった彼女は、足もとのバッグを拾って肩にかけた。
「そろそろ帰ろうか」
そして彼女は歩きだす。二三歩すすんでからはたと立ち止まり、振り返って俺を見る。その顔にはやはり少しだけ寂しそうな微笑が浮かんでいた。
「来週もまた来ようね」
「なぜ……」
先に進もうとする静野さんを、思わず俺は呼び止める。振り返った彼女の、黒く澄んだ瞳を見つめながら俺はたずねる。そのために雇われた者なら、知っておかねばならないと思ったから。
「人前での発表が苦手だというのに、なぜ音楽祭に参加しようというのですか。克服するために俺を雇って、こんなことまでして」
静野さんは俺を見つめる目を細めた。ありがとう、と、さっき俺に言ってくれた時のそれと同じ、穏やかなまなざしで。
「私ね、ダメな人間なの。誰からも必要とされない、無価値な、いてもいなくても同じような人間なの。でも、試してみたくなった。私の唯一の特技で。こんな私でも、輝ける場があるのかどうか」
公園の遊歩道を歩き去る静野さんの背の上を、明るい光の輪がいくつも流れてゆく。その小さな背中と白い帽子を見つめながら、俺は思う。まいったな、と。彼女は俺だ。そしてそんな彼女の音楽祭で演奏する姿を観てみたいと、この時初めて思った。