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3 俺の任務

 二階の例の床のきしむ洋間に入ると、静野しずのさんは黙々と棚から小さなケースを引っ張り出した。手際よく蓋を開け、中から何やら取り出す。怪しい実験器具……ではなかった。どうやら楽器のようだ。白く、丸っこい小さな楽器。その形は俺も知っている。それはオカリナだった。


 オカリナを口に当てた静野さんは、何も言わず、唐突に演奏を始めた。


 悲しげで伸びやかな旋律が室内に流れ、響き渡る。春の宵の空気を震わせる、繊細で澄んだ音色。


 この曲は何という曲だったかな。目を閉じて俺は記憶をたどるがどうしてもその題名を思い出せない。でもききおぼえがある。哀し気な旋律。美しく、でも切ない感情が波のように次から次へとおしよせてくる。それは糸のように俺の心をからめとる。

 そして俺は思い出す。そうだ。これは、昨日この店を探していた時に幾度となく街角に流れて俺を誘った笛の音だ。


 そう感じている間も演奏は盛り上がっていく。それは外で聴いているよりもより太く、豊かに俺の胸の中へと染みこんでいった。橙色のきらめきをちりばめた窓辺の光の中で、静野さんがリズムに合わせてその細い体をかがめ、小さな楽器に息を吹き込む。そのたびに色彩豊かな音色が室内に生み出され、俺の胸のどこかが細かく震えるのだった。


 演奏が終わった時、俺は自分の脇と首筋に汗をかいていたことに気づいた。


 思わず拍手をする俺に顔を向けて、静野さんは静かに宣言した。

「九月の音楽祭に参加するつもりなの。そのための練習に、あなたにつきあってもらう」


     〇


 かくして、静野さんと俺の音楽祭に向けての練習の日々が始まった。


 薬屋の仕事はいいのかって? はっきりといおう。来実堂くるみどうでの仕事など皆無に等しかった。それは予想どおり、いやそれ以上といっても過言ではない。ただ突っ立っているだけの店番と、日に一回だけの在庫チェック。商品が売れないから仕入れもほとんどなくて、品出しもほとんどやることがない。あとはたまに二階にある倉庫部屋の整理を命じられる。倉庫部屋は二部屋。もう一室北側に小さな部屋があるが、そこは静野部屋と呼ばれていて立ち入り禁止と言い渡されている。禁を破って足を踏み入れた者は、恐ろしい呪いにかかるらしい。


 そういうことで、仕事はほとんどない。一応時給はもらっているのに申し訳ないくらいだ。っていうか、その時給はどうして支払うことができるんだ。そもそもバイトが必要な理由が見当たらない。


 もっとも、収入については静野さんが謎のルートで高額な商品をさばいているのかもしれない。バイトについては店のためではなく、ただただ彼女の音楽祭参加のためのように思われた。


 そもそも助手って、俺は何を手伝えばいいのだろう。

 そんな疑問は、程なく明らかとなる。


     〇


 その日は土曜で、来実堂は午前中だけの営業だった。店を閉めて二階の洋室に行くと、一足先にあがって待ち構えていた静野さんが、つば広帽子をかぶりながら俺に声をかけた。


「さあ、今日は出かけるよ」


 ピクニックにでも行きそうな出で立ちだが、顔は若干緊張にこわばっている。まあ、元々そんな表情だけど。


 彼女が向かったのは、丘沿いの桜並木の道をしばらく行ったところにある公園だった。住宅地と繁華街の間にひろがる美術館の敷地で、結構広い。一応市民の憩いの場になっているのだが、あまり人はたくさんいない。

 休日の午後の静かな公園に、ただ明るい光が降り注いでいる。浅緑の葉が優しくささやき、その音に合わせるように地面の木漏れ日が眠たげに揺れていた。


「公園はいいねえ。癒されるねえ」

 そんなことをつぶやきながら公園の遊歩道を歩く静野さんは、時々ちょっと上を向いて深呼吸をする。白い帽子のつばのしたにほのかな笑みが浮かぶ。柔らかな風が吹いて彼女の髪がゆれ、その頬にかかる。


 芝生広場を突っ切り、杉の木立を抜けたところで、ようやく静野さんは立ち止まった。そこはもう、公園の隅だ。人の気配はどこにもなく、ただ小鳥のさえずりが楽しげに響いている。そんな遊歩道の真ん中で、木漏れ日を踏みながら仁王立ちになり、彼女は辺りをゆっくりと見渡す。左側は新緑の広葉樹の林。頭上では大きなケヤキの枝が、光を散らしながら揺れている。右側は小さな草原。低い木の柵が申し訳程度に立っていて、その先に、ひょうたん型の池が空の色を映して広がっていた。


 彼女はひとつうなずくと道から外れて林の中へ入っていき、歩道からは見えないイチョウの木の陰で足を止めた。


「よし。ここで吹こう」

「え? どういうことですか」

 俺は思わず聞き返してしまう。そんな俺を怪訝そうにみつめ、彼女は答える。

「どういうことって、演奏するんだよ。ここで。ほら、私、結構シャイな性格じゃない。人前で発表とかするのって苦手でさ。だから、その練習。人前に出ても動じなくなるための」


 何というか、いろいろ突っ込みどころがありすぎて、俺は絶句してしまう。そもそもそんな人間がどうして、音楽祭に出ようとなんて思ったんだ。


 それはそうと、バッグから楽器を取り出そうとする静野さんを、俺は慌てて制止する。林床は整地された土で草はあまり生えておらず、木と木の間もあいているのであまりうっそうとした感じではない。でもあまり日も差し込まず、遊歩道よりもちょっと薄暗くて、寂しいところだ。人だってあまり通らないだろう。


「ここじゃあ。誰からも見えませんよ。いいんですか」

「だって、人から見られると恥ずかしいし」


 いやいや。見られないと意味ないだろう。何しにこんなとこまで来たんだよ。


「俺はなにをすればいいんですか」

「観客みたいな顔して立っていてくれればいいよ。私一人で演奏してたら、何か不審者っぽいもん」


 そうでしょうね。よくわかってらっしゃる。そしてようやく俺は理解する。なるほど。俺はつまり道連れってわけか。


「じゃあ。俺はそこのベンチに座ってぼけっとしてるので、飽きたら言ってください」

「えー。私をここに独りにしておくの? 誰かに襲われたらどうするのよ」

「襲われませんよ」

「じゃあ、何かあったら叫ぶね」

「お好きにどうぞ」


 そんなやり取りをしてから俺はすぐそこの遊歩道沿いにあるベンチに腰掛けた。


 ほどなくして林の中からオカリナの音がただよってきた。とても悲しい調子の曲だ。悲痛といってもいい。何かを失った者の、絞り出すようなうめき声が聞こえてきそうだ。

 思わず俺は顔をあげる。午前の明るい光が顔に当たり、心地よい風が首筋をなでてゆく。緑の葉の揺れの間から、小鳥のさえずりが流れてくる。


 不釣り合いだ。


 俺はそう、つぶやいてしまう。彼女の奏でる音楽と、この春の休日のうららかな空気が、まったく釣り合っていない。確かにオカリナの音は美しいし、曲自体は良い曲なのだと思うけど。晴れた日は明るい曲を吹かねばならないなんてことは、決してないと思うけど……。でも、俺は思わずにはいられない。もっと他に吹く曲はないのかと。


 小さな子の手を引いて遊歩道を歩いてきた母親が、不審そうな表情で木立の方に顔を向けた。眉をひそめた彼女は広場の方へ進路を変え、娘をかばうように林から離れていく。


 しばらくして曲がやみ、少しの間をおいて別の曲の演奏がはじまった。しかしそれもまた、さっきと同じような雰囲気の曲。その次も、そのまた次も。彼女が奏でるものはどれもこれもが、悲しみの淵に沈む者の心をえぐるような音楽だった。その間何人かの市民が林の脇の遊歩道を歩いてきたが、みんな初めの母親と同じ行動をとった。犬の散歩のおばさん。子連れの家族。カップル……。その誰もが彼女の音楽を耳にすると、顔をしかめてこの界隈を避けてゆくのだった。


 実際は悲しい曲が好きな人だっているだろう。だけど薄暗く人気のない木立の中から寂し気な音色が漂ってきたら、たいていの人が気味悪るがって逃げ出すのは無理ないことかもしれない。もっとも、俺だけは逃げることはできない。滅入りそうになる心と闘いながら、さながら番犬のごとく彼女の演奏場所の入り口を守り続けた。こんな調子で音楽祭になんて出られるのかというのはいらぬ心配だろうか。

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