2 泣けない俺
来実堂という名のその店は、薬屋だった。「くるみどう」と読むらしい。
棚に並んでいる瓶や箱の中身は漢方薬だと、白衣の女幹部……もとい店主の静野紗耶香さんは教えてくれた。彼女は店主であり薬剤師でもあるとのことだ。落ち着いた雰囲気だが、年齢はおそらく二十代後半くらいだろう。
二階にはいくつかの部屋があったが、そのほとんどは倉庫として使われていて、一室だけが休憩室になっていた。休憩室は一見お洒落な洋間だ。レンガ造りの暖炉が北面を占め、アンティークなソファが絨毯の上に鎮座し、百合の花のような照明が天井から下がっている。しかしよく見ると壁紙にシミがあるし、床を踏むとギシギシ音がする。絨毯や風景画などの調度でごまかしているけど、相当ぼろいのではないだろうか。
「バイトのシフトは火木土の十時から四時。時給は千円。仕事内容は薬の品だしと在庫管理。あと掃除やレジうちなど。それで大丈夫?」
その休憩室の洋間で俺は、彼女から仕事内容について説明を受けた。その間静野さんはニコリともしなかった。淡々と説明を終え「なにか質問は?」と首をかしげながら俺を見る。その地味な黒ぶちメガネの向こうから俺の心のうちを見透かすように。その感情のこもらない視線にさらされているうちに、俺はなんとも居心地が悪くなって、足がむずむずした。
「あ。いや。ちょっと考えさせてください」
そう答えて俺は立ち上がる。
「じゃあ、明日改めて返事をきかせて」
静野さんの言葉にうなずき、礼を述べてから俺は床のきしむその洋室をあとにした。
〇
外はもう暗くなりかけていた。夕闇に沈みつつある街角を歩きながら俺は、やはりあの店で働くのはやめようと思った。忙しさや時給やシフトの自由度などの条件が問題なのではない。そういうのももちろん大事だけど、それ以上に職場にとって大事なのは人間関係だ。残念ながら、あそこで良好な人間関係のもと働き続けられる気がしない。
俺はあの静野さんという薬剤師の表情を思い返す。無愛想な態度。淡々とした話し方。硬くちょっと暗めの声。感情のこもらない表情と目……。何時間も彼女と二人だけで過ごすのかと思うと、想像するだけで気が滅入る。しかも仕事も無さそうなところで、顔付き合わせていなければならないなんて。
無理だ。絶対無理。あそこはあきらめよう。他にもっと居心地の良い仕事場はいくらでもあるはず。来実堂には明日返答することになっていたが、さっそくどう言って断ろうかと考えながら、俺は茜色に輝く空を見上げた。
〇
翌日は休日だったが、昼を過ぎてもなんとんなくあの店にいく気になれなくて、俺は駅前の喫茶店でぼんやりとしていた。
「ねえ。あの映画みたー? 『青い空のしたで』。すんごい感動したんだけど」
「みたみた。ちょー泣けたよねー」
後ろの席の女子高生たちの会話に耳を傾けていたら、今話題の青春映画の話になって、俺は思わず苦笑を漏らした。先週独りで行った新宿のシアターを思い出す。実は俺もみたんだそれを。評判だったので期待していたのだが、残念ながら面白いとは感じなかった。
映画のできが悪いのではないと思う。たぶん問題は俺の方だ。
テーブルに頬杖をついて、往来に目をやる。
休日の午後。喫茶店の窓際の席から眺める駅前通りには、大勢の人が行き来している。カップル、学生、親子連れ……。あの人々もみんな、ああいったハッピーエンドのラブストーリーをみて涙するのだろうか。俺はぼんやりと思う。きっとできるのだろうな。あの映画に限らず、きっとみんな、美しいストーリーや、風景や音楽に触れて、感動し、涙を流すことができるのだろうな。
俺はため息をついて目の前のコーヒーをすする。
でも、俺にはできないんだ。映画やドラマを観て泣いたりすることがない。感動することができない。感動する機能がないのだ。いつからそうなってしまったのかわからない。気がつくとそうなっていた。冷めた人間に。
俺はぼんやりと時計に視線をうつす。これからあの薬屋にバイトの採用辞退の意向を伝えに行かなければならない。ふと、あの薬剤師に思いを馳せた。
あの無表情な薬剤師。彼女はどうなんだろう。彼女も青春映画をみて涙したりするのだろうか。ちょっとそんな光景は想像がつかない。例えば俺が採用を辞退すると伝えたら、たぶん彼女が残念そうな表情を浮かべたりすることはないと思う。きっと眉一つ動かさず、淡々と受け入れることだろう。「そうですか」と短くうなずいて終わり。君なんていてもいなくても同じだよ。そう告げるかのように。
その妄想に俺は自嘲してしまう。
まあ、そうだろうな。どうせ俺なんていてもいなくても同じさ。自分でも俺が誰かにとって必要だったり、価値のある人間だとは思わない。こんな無感動な、冷めきった人間なんて。
「お。タイラじゃないか」
突然声をかけられた俺は、振り向いてその人物をみとめると、内心舌打ちをした。
「相変わらず、暇そうだな」
そう言って高笑いするその男は、俺の同級生だ。金井秀斗。俺とは違って成績優秀。眉目秀麗。海外の人とも多く交流し、同い年ながらIT関連の企業を立ち上げようとしている、意識高い系男子だ。やはり友人だろうか、今日は金髪の女と一緒だった。
「貴重な時間をそんなところで無為に過ごしていると、腐るぞ。ボランティア活動でもしろよ」
至極もっともなご指摘に、俺はそっぽを向いて応える。
「大きなお世話だ」
こいつはいつもそうだ。もっともらしい正論を振りかざして、人より優位にたとうとする。ボランティア活動なんて、てめえもしたことないくせに。
そんな俺のふてくされた態度を嘲るように、彼は鼻で笑った。
「俺も暇人に付き合ってる時間はない。お前みたいな無価値なボッチとは違うからな。これからオーストラリアの友人とセミナーなんだ」
捨てぜりふを残して去っていく秀斗の背中を俺は睨み付け、金髪女の腰に手を回すその後ろ姿に毒づく。
この女ったらしめ。何がセミナーだ。どうせ女といちゃつくのが目的だろうが。
秀斗とは中学の頃から一緒だった。仲がいいわけではない。いやむしろ悪いといってもいい。とくに彼は中学生の頃から女たらしで有名で、その女癖の悪さを俺はいつも苦々しく思っていた。
そう、その毒牙に中学生の頃、俺の幼馴染みもかかったんだ。綾子という名の少女。近所で育ち、小さい頃から仲良くしていて大事な存在だった。だけど中学生のころ、そんな彼女を秀斗のやつは俺から奪っていった。
俺は大きく息をはいて、また往来に視線をもどした。
中学生くらいの、初々しいカップルがいた。デートのあとだろうか、駅の前で手を振りあっている。やがて駅の改札に向かう女の子。彼女は名残惜しそうに、何度も何度も振り返っては手をふる。そんな女の子が改札の向こうに姿を消しても、男の子はしばらくそこから動こうとしなかった。
男の子の姿が、ふと昔の自分のそれと重なる。
「あんたって、本当に冷めてるよね。つまんない人」
「お前って、自分のことしか考えていないよな」
中学生のころ、クラスメイトから言われた言葉がふいに胸をよぎる。綾子が遠く四国へ引っ越してゆく日、見送りにもゆかずに一日中教室の机にかじりついていた俺に投げかけられた言葉。そうだ。あの時だ。俺はふいに思い出す。あの時、雲一つなく晴れ渡った空を見上げて、俺は一筋だけ涙を流したんだ。最後の涙を。結局その後綾子と連絡を取り合うことはなくなった。彼女が今、どこでどうしているのか、俺は知らない。
うなだれてようやく駅前をあとにする少年の姿を見つめながら、俺は俺のこの性質を噛み締める。
俺はもう、泣くことができない。本や映画を観ても、感動することを拒否してしまう。だって、つらいじゃないか。ふられたり、別れたり、失ったり……。その感情のせいで苦しむのなら、何も感じない方がいい。俺は去る人を追いかけたりしない。追っても、虚しくなるだけだから。
急に激しい衝動にかられて俺は立ち上がり、喫茶店を出た。
〇
ここで働かせてほしいと伝えても、案の定静野さんは眉ひとつ動かすことはなかった。
しかし彼女のその無感動な表情をみながら、これでいいと俺は思う。俺がいようがいまいがかまわない。俺が入ってきても喜ばれもしない。きっと去っていくその日だって、悲しまれることはないだろう。そして俺も。それでいい。こんな俺には、そんなこの来実堂と静野さんがおあつらえむきなんだ。俺はここで、今まで通りの眠ったような生活を続けていく。なにも感じず考えず、毎日同じことを繰り返して……。
一階の店舗で相変わらず淡々と仕事の説明を終えたあと、しかし静野さんは意外なことを言い出した。
「そうだ。それともうひとつ。君にたのみたい仕事がある」
それは思ってもいない発言だった。
「君には私の助手を勤めてもらう」
「え。何の……でしょう」
嫌な予感が腹の底で渦巻く。助手ってなんだ。まさか変な実験に付き合わされるのではないか。やはり辞退した方がよかったかなと後悔しはじめる俺に、彼女は出会ってはじめての笑みを……悪の女幹部もかくやと思われるような不適な笑みをうかべてみせた。
「今から説明する。ちょっと、ついてきて」