15 静野紗耶香
あの音楽祭から、あっという間に一年がたった。
大阪で叔父の薬局を臨時で手伝っていた私は、社員が新しく雇用されたのを機に、東京に戻ってきた。
新宿駅から私鉄に乗り換え、吊革にぶら下がって車窓を流れていく風景を眺めながら、私はもう一度つぶやく。
ほんとうに、あっという間。
一年ぶりに目にする懐かしい東京の風景。春の日差しを浴びて木々の葉も、ビルの窓も、民家の屋根瓦もキラキラ光っている。久しぶりだけど、あんまり変わってないな。そう思うと同時に、私はあの青年のことを思いだす。タイラ君も変わっていないのかな。それとも、大学院生の貫禄を身につけているのかな。タイラ君にとっては長い一年だったかもしれない。哀しいかな、私の歳ではあっという間なのだけど。
あの春から冬までの数か月間を、私は昨日のことのように思い出すことができる。
美術館公園での練習の日々。
音楽祭のステージ。
音楽祭のあと、来実堂でささやかな打ち上げをしたことも。
恩返しにと彼の卒論のお手伝いをしたことも。……あまり役には立たなかったみたいだけど。
その後はお互い忙しくなってしまったので、あまり会う機会はなくなってしまったけれど、タイラ君はマメにメールをくれたりした。大阪に旅立つ日には見送りにも来てくれた。あのお別れの時のことも忘れられない思い出だ。大勢の人がいる駅のホームで彼がボロボロ泣きだしたものだからびっくりした。タイラ君って、あんなキャラだったっけ。もっとクールというか、感情を表に出さない青年だと思っていたけど。一緒にいるうちに変わったのかな。それは何となくわかる気がする。私が、変わったのだから。
電車が橋を渡っていく。鉄製の梁ごしにみえる多摩川の流れを眺めながら、私は自分の胸がすこしドキドキしていることに気づく。その鼓動に耳を澄ませながら、私は両手で吊革にぶら下がって目を閉じ、あの日のことを思いだす。
私は変わった。彼と出会ったあの日から。
よく覚えている。あの日、バイトに応募してきたタイラ君を見て、私はとても驚いたのだ。やる気がなくて自信がなさそうで、どこか投げやりで、若いのに人生をあきらめているような雰囲気を垂れ流していて……。それが私にそっくりだったから。孤独のうちに生き、人から愛されずだれからも必要とされない私に、彼は天が初めて与えてくれたパートナーのように思えた。
私は思ったものだ。独りでは動く気にもならなかったが、もしこの人がいるのなら、私は一歩踏み出せるかもしれない。
それは全く魔がさしたとしか言えないような思い付きだった。もしタイラ君が道連れになってくれるなら、人前に出ることもできるかもしれない。音楽祭に、挑戦できるかもしれないと。
正直、そんなに期待はしていなかった。彼の気持ちは私とは違うだろうし、バイトなんてただの腰掛けだったと思うから。それに、彼は不真面目で無愛想で意地悪で……
私は思わず苦笑を漏らす。そういえば、練習中にいつの間にか彼がどこかに行っちゃったことがあったっけ。あの時は、ああやっぱりダメかと思ったものだ。仕返しに戻ってきた彼をちょっとからかったのは大人気なかったかな。でも、あれからだ。あれから、彼はずっと私のそばにいてくれるようになった。
相変わらず無愛想に、でも雨の日も晴れの日も彼は私のそばにいて、私を受け入れ肯定してくれた。特別優しい言葉をかけてくれるわけではないが、彼はそこにいることで常に私を支えてくれたのだ。それが私にとってどれだけ救いになっていただろう。私が人前で演奏できるようになったのは彼のおかげだ。感謝しかない。
そんな彼は、私のことをどう思っていたのだろう。嫌われてはいなかったと思う。嫌われたと思ったときもあったけど、私を追いかけてくれたから。ステージの上にまで私を助けに来てくれたから。最後の日にも見送りに来てくれた。なんとも思っていない人の門出に、駅まで見送りに来てくれる人はいないだろう。
でも、今は? あれから一年たった今は、どうだろう。
電車がスピードを緩めながら駅に流れこんでとまる。アナウンスが懐かしい地名をコールし、ドアが開く。ホームに降り立った私は、大きく息を吸う。ああ、懐かしい匂いだ。お陽様と土と葉と、アスファルトとホコリのそれがごっちゃになった匂い。私が住んでいた東京郊外の坂の多いあの街の匂いだ。
その匂いを噛み締めながら、私は足を踏み出す。あれから一年たった今、彼と私はまだ繋がっているのだろうか。私はそれを確かめるために帰ってきたのだ。
〇
駅を出た私は、駅前商店街をぬけ、坂道を登り、住宅街の尾根道を歩いていく。
家々の庭木に散る午後の光。優しいさざめきが降り、狭い路上で木漏れ日が揺れる。小鳥がどこかでさえずっている。郊外とはいえ東京とは思えぬのどかな街だ。私が長年暮らしていた街。そして、タイラ君と幾度となく歩いた、街角……。どの辻も、どの坂道も、その風景は私の胸に焼き付いている。大阪にいても時々夢に出てきた。
緑地に沿った階段道の途中で私は足を止める。
大きなケヤキの木と、その陰に隠れるようにして建つ古い建物を見上げる。来実堂は私のいない一年でさらにぼろくなったみたいだ。庭の雑草はぼうぼうで、扉には板が打ち付けられてある。私がいたころからお化け屋敷などと噂されていたけど、もう名実ともに完全に廃屋だ。このまま朽ちてゆくのを待つだけなのだろうか。
閉め切られた門に手をかける私の胸に、寂しさがよぎる。
タイラ君と私の関係も、そうなのだろうか。
私が大阪に行ってからも、彼とは手紙のやり取りをつづけた。実験で失敗をしたとか、仕事の愚痴とか、他愛もない内容の手紙のやり取り。そこからは彼の今の生活がとても充実していることがうかがえた。いろんな本や映画作品に触れては感動し、いろんな人と出会っては刺激を受けていることが、その喜びを隠しきれずに文面に踊っていた。
その隣に私が戻っても、いいのだろうか。
彼の今の私生活について、私はよく知らない。恋人がいるのかどうかも。いると考える方が自然だ。だって、彼は花の大学生。周囲には若くてかわいい女の子が大勢いるだろう。その中に彼に思いを寄せる人が、あるいは彼がちょっと気にかけている人がいることは、充分考えられることだ。未来に向かう彼の隣にいるべきはその人なのでは。
もし恋人がいるのならば、もしくは恋人になりそうな人がいるのなら、私はもう、彼の前に現れないほうがいい。彼に幸せになってほしいと思うから。新しい人と出会い、新しい関係をつくり、新しいことを学び、新しいものをつくりだす。そうやって前へ前へと、進んでいってほしいから。
来実堂を後にした私は、坂を下りながら、胸にあてた手をそっと握りしめる。
ただ、一回だけチャンスが欲しかった。あきらめる前に、最後に一回だけ。
実は、私は今日この街に帰ってくることを彼に伝えていない。彼には何も言わずに、あの思い出の場所に行こうと思っている。今日は土曜日。いつもあの美術館公園に二人で出かけた曜日の午後だ。
もし、あそこで再会できたなら……。
それは奇跡的なことだと思っている。だって、いくら気にかけていたとしても、毎週ひとりだけで公園に行って思い出に浸る大学生なんかいるだろうか。彼だって勉強に実験に忙しいのに。私のことが特別な存在として彼の中で生き続けていない限りは、おこらないことだ。だけど、その奇跡が起こるなら、私はまた彼の隣を歩くことができるだろう。
坂を下りきり、角を曲がると、谷筋の桜並木にでた。どこまでも道を覆う桜の枝々は今まさに満開だった。薄桃色の花のトンネルを抜けて、私は美術館公園へと向かった。
〇
広い公園には、休日というのにあまり人はいなかった。それなりに憩う人はいるのだろうが、その広さのためにいつもすいているように思える。その広々とした芝生広場を抜け、林の方へと私は足を進める。
その場所が近づくにつれ、私の鼓動も高まってゆく。
返却されたテストの点数を確認するときのように。
受験の合格発表を見るときのように。
落ちたときの覚悟をしながら、でも一方で、合格していることを期待しながら、私は一歩一歩そこへと向かってゆく。
そこが私の視界に入る。それとともに、私の鼓動は収まってゆく。
(ああ、やっぱり)
頭上を覆う樹の枝々がさざめき、吹きすぎていった風が私の胸に虚しさを残してゆく。
そこには誰もいなかった。
いつも彼が立っていた場所にも、そのそばにあるベンチにも。誰もいない空間にただ、木漏れ日が空しく揺れている。
私はため息をついてそのベンチに腰掛ける。
これでいい。これでよかったんだ。
そう自分に言い聞かせながら、そのすりきれた木の板をなでる。頭上で枝がゆれ、葉擦れの音が優しく注ぐ。すると、そのささやきと一緒に彼がかつてつむぎ出した言葉がふってくる。
(じゃあ。僕はそこのベンチに座ってぼけっとしてるので、飽きたら言ってください)
私はうつむき、声を絞り出す。
「私を……ここに独りにしておくの? 誰かに襲われたらどうするのよ」
その時だった。その私の言葉に呼応するように、どこからともなく音が流れてきた。
人の声でも葉のささやきでもない。楽器の音。笛の音のような、素朴な、だとだとしい音。この音色を私はよく知っている。これは……。
オカリナだ!
思うと同時に立ち上がっていた。その音のする方へと私は駆けだす。途中滑って膝をつく。スカートが汚れたけれどかまわずに、木の根につまづきながら林の奥へと入っていった。
その人はイチョウの大木の傍らにたたずんでいた。スポットライトのように木漏れ日を浴びて。若い男の人。間違いない。彼は……。
彼はオカリナから口を離すと、イチョウの幹に背をあずけて、ぼんやりと空を見上げた。
緩やかな風がとおりぬけ、私の髪とスカートをかすかになびかせた。頭にのせていたつば広帽子がとび、彼の目の前におちる。それを拾い上げた彼は私の方を向いて、にっこりとほほ笑んだ。
「どうです、静野さん。俺の演奏は」
ああ、奇跡が起こった。
私はタイラ君の質問にすぐに答えられなかった。胸がいっぱいで声が出なかったから。言葉の代わりに視界が歪んで、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
タイラ君はそんな私に歩み寄り、穏やかな仕草で帽子を差し出す。
「静野さんが返ってくるまでにマスターしようと思って、毎週この場所で練習していたんです」
帽子を受け取った私は、涙をぬぐって答える。今までで一番の誠意と愛情をこめて。
「音楽祭に参加しましょう。今度は、デュエットで」
おわり