14 ステージの上で
文化会館のロビーにたどり着くと、今は演奏中で、ホールの厚い扉はしまっていた。
人はいるのに図書館みたいに静まり返ったロビーを渡り、扉前にいる係員さんに近寄る。受付でもらったパンフレットを指し示し、今何番目の演奏か小声で尋ねた。
係員さんが指し示したのは七番目の団体。ヴァイオリン・チェロ・ヴィオラなどといった楽器と、何人もの名前と、小難しい曲名の並んだ列。
やがて、演奏が終わり、扉が開く。
すると、堤防が決壊したみたいに、ざわめきと拍手がどっとロビーにもあふれ出た。
「いやー、残念でしたね。この多摩弦楽四重奏倶楽部の演奏を聞き逃すなんて」
きいてもないのにないのに、俺を憐れむような、でもちょっとうれしそうな顔で係員さんが説明してくれた。今演奏していた楽団は、この地域が日本に誇るプロの楽団で、毎年ハイレベルな演奏で会場をを盛り上げてくれる、音楽祭の目玉の団体のひとつなのだそうな。
そんな素晴らしい団体が出場しているとは、市民として誇らしく思う。しかしその演奏を聞けなかったことは今の俺には残念なことではなかった。俺が聴きたいのは、ただひとりの演奏だったから。
パンフレットのその楽団の下、八番目の演奏者の文字に目を落としながら俺は頬をゆるませる。
「いえいえ。間に合いましたよ」
そして人の出入りでごった返す扉をくぐって、ホール内へと駆け込んだ。
〇
ホールには先ほどの多摩弦楽四重奏倶楽部の演奏の余韻が残っているようだった。観客たちはまだ興奮冷めやらぬ様子でざわめき、次のアナウンスが流れてもなかなか開演のベルが鳴らない。二回目のアナウンスの後にベルが鳴り、客席が暗転したところでようやく静かになる。そして静寂の闇の中にステージが浮かび上がった。
白い木目のステージ。その両端には大きな花が置かれ、天井からは「第四十二回N市音楽祭」と書かれた額が吊り下げられている。静野さんが憧れたステージ。この数か月間、そこに立つことを目標に頑張ってきた舞台。それはまるで夜空に浮かぶ満月のように俺からは遠く、まぶしく、しかし誰の目をも引く存在感で確かにそこにあった。
やがてコツコツとヒールが床を叩く音がし、舞台の袖幕の陰から人の姿が現れた。
控えめな紺色のドレスを身にまとった若い女の人。黒髪を頭の後ろでお団子にまとめ、コスモスの髪飾りをさしている。眼鏡はかけていない。だけど俺にはすぐにわかる。いつもと全然違うスタイルだけど、彼女が静野さんだと。
ステージに出てきたのは静野さんひとりだった。伴奏者と思しき人は姿を現さない。
(彼女は、伴奏なしで、ひとりで演奏するつもりなのか)
俺が不審に思っているうちに、静野さんは舞台の中央に立つと、深々とお辞儀をした。
拍手が沸き、そしてすぐに静かになる。
静野さんは手に持っていたオカリナをおもむろに口まで持っていき、そして演奏を……。
演奏を、しない。
客席が、少しざわめく。
静野さんは、演奏をはじめなかった。オカリナをすぐに口から離し、難しい顔をしていたかと思うと、やがてその手を下ろしてしまった。
天井を振り仰いで深呼吸をした彼女は、また気を取り直したようにオカリナを顔の前まで持っていく。しかし今度もまた、その姿勢のまま止まってしまう。どうしても、楽器に息を吹き込むことができない。よく見ると、その手が細かく震えているようだった。
静野さんに一体何が起こったのか、俺にはすぐにわかった。
彼女は緊張しているのだ。緊張で心も体も、ガチガチに固まってしまっている。演奏の姿勢を保てぬほどに。息をすることもままならないほどに。ああ、なんてことだ。彼女は元の彼女に戻ってしまった。木の陰に隠れて演奏しようとしていた、あの頃の彼女に。
客席のざわめきが大きくなる。ところどころから声も飛ぶ。「どうしたー」とか「頑張れー」とかいった、励ましの声。演奏を後押しするような拍手もちらほら起こる。
しかし静野さんは、動けない。迷子の猫みたいに怯えきった目で、そんな会場をキョロキョロと見渡している。
俺も拍手をしようとして、しかしその手をとめる。
俺は知っている。今の彼女に必要なことは見えないところからの声や拍手ではないことを。もちろんそういうものだって、後押しすることはあるだろう。しかし今、静野さんの背中を押すことはきっと、俺にしかできない。
そう思うのに、ここまで来て俺の身体は躊躇する。
しかしいいのか? 大事な本番中にそんなことをしても。ひょっとしたら彼女のステージをぶち壊してしまうかもしれない。そんなこと、彼女は望んでいないかもしれない。余計なことをして、と彼女を不快にさせるかもしれない。彼女に恥をかかせるかもしれない。
怖い。今動くのは怖い。俺の動いた結果がわからないから。自信がないから。でも……。
俺はゆっくりと客席から立ち上がる。
ゆるい階段状になっている通路を、ステージへと降りてゆく。
一歩一歩踏みしめるごとに、彼女との今までの練習風景を思い出しながら。そして思い出すごとに己の中に少しずつ小さな勇気を灯しながら。
今まで彼女の傍にいて、彼女を見、支えてきたのは俺だ。
彼女の想いや弱さを知っているのも俺だ。
俺は信じている。彼女は絶対に俺の助けを必要としている。彼女の背を押し、その力を引き出すことができるのは、この俺なんだ。
いつの間にか俺は暗い通路を走り出していた。観客のざわめきが俺の後を追ってくる。しかしそんなものを気にかけることなく、人の視線をおいてきぼりにして一目散にステージへと向かう。そしてステージ下にたどり着くと、その勢いのままに舞台上へと飛び乗った。
静野さんがこちらを向く。
俺に気づいた静野さんの目が、驚きに見開かれる。口もポカンと開く。
俺は腕に抱いた造花の、束を結わえる紐を解く。
そして俺は静野さんに駆け寄り、その造花の束を振りまいた。静野さんの頭上に向けて。水をぶっかけるように勢いよく。
幾本もの白いバラの花が宙を舞う。
それらを見上げる静野さんの、驚きに開かれた口が、笑みの形へと変わっていく。その黒い瞳は、スポットライトを浴びて白く眩しくかがやく花々の姿を映し、強い光を宿す。
それは一瞬の出来事だった。しかし俺には一部始終がスローモーションのように見えた。静野さんの頭上にちりばめられた花々は空中で静止したかと思うと、花火が散るように瞬きながら静野さんの身体に降り注いだ。そしてその花の雨がやみ、彼女の周囲の床に花の池ができたとき、静野さんは嘘のように落ち着き払ってオカリナを口につけた。
静野さんはいったん俺に目配せをしてほほ笑む。
俺もほほ笑み返す。あの美術館公園でいつもそうしていたように。彼女の傍らに立って。
まだざわめいている会場に、高く澄んだ音色が一筋、突き抜けていく。一筋、また一筋。真っすぐに伸び、あるいは緩やかなカーブを描き、時には震え、時には豊かに広がりながら。それは俺のよく知らない曲だった。哀しい曲でも、楽しい曲というわけでもない。ただその曲は瑞々しく清らかで、乾いた心を潤すように体の中に染みわたってゆく。
ほどなく会場のざわめきは消え、誰もが彼女の演奏に耳を傾け始めた。皆が息をのみ、驚嘆し、耳を澄ませているのが、ステージ上からもわかった。
その様を静野さんの隣から見渡していた俺の全身に、鳥肌がたつ。この会場のみんなが今、静野さんの演奏に聴き入っている。静野さんの演奏がみんなの心に届いている。自分はダメな人間だと自嘲していた彼女を、隙あらば物陰に隠れようとしていた彼女を、みんなが感嘆しながら見上げている。
俺は彼女とつながっているはずの心の中で彼女に語り掛ける。静野さん。あなたはかつて、自分のことが嫌いだ、と言った。愛される人になりたかったと悔しがった。見てごらん静野さん。あなたは今、この会場の全員から愛されている。あなたの試みは成功しました。あなたは、輝いています。
演奏が終わると、静寂が会場全体を包んだ。
最後の力を振り絞ってお辞儀をした静野さんが足をよろけさせ、俺は慌てて彼女の身体を支える。しんと静まり返った舞台の上で、彼女の荒い呼吸の音だけが俺の耳に届く。
「素晴らしい演奏でした。お疲れ様です。いきましょう」
俺は彼女の耳元でささやいて、彼女を連れて舞台袖へ退こうと足を踏み出す。その時だった。客席から万雷の拍手が沸き起こった。夏の暑気を押し流す豪雨のように。夢から覚めた人がハッと我に返って飛び起きるように。
俺と静野さんは立ち止まっていつまでも拍手の鳴りやまない観客席を見上げた。
「ありがとう。君のおかげだよ」
静野さんはこちらを向くとそう言って、俺の手を強く握った。その顔には、雨上がりに青空を見上げる花のような晴れ晴れとした笑みが、咲き誇っていた。それは今まで見た中で一番の……きっと彼女の生涯でも屈指の笑顔だと、俺は思った。
「おめでとうございます。世の中がようやく、あなたの魅力に気づきました」
言ってしまってから照れくさくなって、俺は笑いながらほてった頬を指先でかいた。