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13 音楽祭当日の朝

 その朝、俺はなかなかベッドから起き上がることができずにいた。


 音楽祭の当日だ。本当ならばもうとっくに起きて、会場にいなければならない。だけど、俺はこの朝になってもまだ、行こうという気持ちになれなかった。


 俺は枕元のスマホをとって時間を確認する。すでに午前九時を過ぎている。もう、こんな時間か。そう思うと、ため息と一緒にあきらめが布団のようにゆるゆると俺の身体を包みはじめる。

 寝返りを打ってベッドわきの窓を見上げる。カーテンの隙間から見える空は青く澄み渡り、そこに柔らかそうな雲がふかふかと漂っている。


 窓の外で小鳥がさえずっている。

 道を車が走っていく。

 近所の奥さんたちの話し声が聞こえ、遠くで犬の鳴き声がする。


 いつもと同じ朝。俺がこの世からいなくなってしまっても、何事もないかのように鳥はさえずり木々はさざめき、雲は空を流れていくのだろう。


 俺がいなくても、世界は変わることなく動いていく。

 俺がいなくても、静野しずのさんは舞台に上がり、演奏し、拍手喝さいを受けるだろう。

 俺がいなくても、静野さんはきっと新天地大阪で淡々と仕事を続けていく。

 俺がいなくても、俺がいなくても、俺が……。


 寝返りを打って顔を横にずらし、アパートの部屋の中をぼんやりと見渡す。雑誌や衣類の散らばった床。書きかけの論文の紙が重なる机。参考書や本が詰まった本棚……。


 こうしてアパートの部屋で一人寝そべっていると、世界に自分ひとりだけのような気がする。今までのことはみんな夢の中の出来事だったようにあやふやになっていく。俺がひとりだけここにいるという事実だけが確かだ。そう。俺は独りだ。今までずっと独りだった。やっと独りではなくなったと一瞬だけ思ったが、それはやはり夢だった。静野さんもまた、去っていく。俺をおいて大阪に。


 自嘲が喉からこみあげる。

 馬鹿な俺だ。俺が今さら誰かから望まれたり求められたりなんか、するわけがない。俺がそうしてこなかったというのに、今さらそれを夢見るなんて、虫の良すぎる話じゃないか。


 もう、考えるのもよそう。考えても無駄なことだ。俺はまた心を閉ざそう。今までそうだったように。俺はもう疲れたよ。ふられたり、別れたり、失ったり……。その感情のせいで苦しむのなら、何も感じない方がいい。俺は去る人を追いかけたりしない。追っても、虚しくなるだけだから。


 心を空にして、俺はなんとなく本棚の一番上の列に視線を走らせる。その一部に、カーテンの隙間から差し込んだ光が当たっている。その光の中に何かがある。本ではない。白く柔らかく輝いている何かが。あれは……。


 それは白い造花の束だった。俺があの人のために、あの人の顔に笑みを咲かせたいと願いながら買った花束だった。


 その瞬間、俺の目の奥から暖かくふわふわしたものがこみあがり、頬へとこぼれ落ちていく。

 一滴、また一滴と。

 この十年、もう流すことはないと思っていた涙の雫が。


 あの人と過ごした様々な場面が、とめどなくこぼれる無数の涙の粒のそれぞれに映るように、一度に俺の脳裏で再生される。


 来実堂で淡々と俺に仕事の説明をしてくれた静野さん。

 あの美術館公園の林で悲鳴を上げて俺をからかった静野さん。

 新宿で映画を観た後、感動できなかったと頭を抱えた静野さん。

 新宿御苑の東屋で池の面に浮かぶ光を見つめていた静野さん。

 雨の日、秘密の部屋で哀しい曲ばかりを吹く理由を話してくれた静野さん。

 倒れた俺を寝かしつけ、薬を飲ませおかゆを作ってくれた静野さん。

 美術館公園の芝生広場に進み出て、ひっつめた髪を解いた時の晴れやかな表情。風になびいた黒くウエーブした髪の毛先……。


 次から次へとあふれ出てくる。抑えようと思っていたのに、感じまいとしていたのに。それはそんな俺の意思など簡単に突き破ってマグマの噴出のように次から次へと湧き上がった。


 俺はベッドから跳ね起きた。


 こうしてはいられなかった。

 俺の冷めた部分がどんなに俺を押しとどめようとしても、どうしてもそれは抑えることができなかった。


 俺は追わなければならない。追わなければ。たとえ求められていなかったとしても。いずれ去る人なのだとしても。まだ、彼女は手の届くところにいるのだから。

 いや、今の俺は知っている。秀斗や綾子が教えてくれた。俺は求められている。まだ、大事なものはこの手の中にある。こぼれ落ちそうだけど、まだあるんだ。だから、これを手放してはいけない。今すぐに追わなければならない。


 俺は急いで身支度をし、造花の束とスマホを手に取って部屋を出た。


 外に出た瞬間、また、メールの着信音が鳴る。

 俺は今度こそスマホの画面を開く。

 一瞬目を疑った。

 メールのアイコンの右上に小さな数字がついている。未読メールの数を示した小さな数字。その数字がとんでもない数になっていたのだ。


「三十五? なんじゃこりゃ」


 ページを開くと、それはみんな静野さんからのメールだった。


『ああ、ついに当日だ。あんま眠れなかったよどうしよう』

『うう、食欲湧かない。でもなんか食べなきゃだよね』

『プリンがうまい!』

『なんか漢方でも飲んどこうかな』

『緊張ほぐすには呼吸だ』

 ……


 他愛のない言葉の数々。だけどその一つ一つが、彼女と俺をつなぐ強靭な糸のように思えた。


 メールに目を通している間に、またスマホが震え、メール着信の画面に切り替わった。

『もうすぐ、本番。舞台裏まで来ちゃった。緊張するー』

 俺は高速で返信する。

『すぐにそっちに行くから!』


 そして俺は、九月の眩しい光の散る住宅街の坂道を、全速力で駆け上がった。



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