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12 綾子の願い

「ねえ、そこの青年。これは一体どういうこと?」

 秀斗の前に立ちふさがった綾子は、名乗りもせずに突然そう詰め寄った。


 いきなり目の前に現れた見知らぬ女にそんなことを言われて、さすがの秀斗もびっくりして目を白黒させる。いや、本当は綾子のことは知っているはずなんだけど、やっぱり彼も今の彼女の容姿からは思い出せないらしい。


 ほれ見たことか。わからないのは俺だけではなかろう。内心ちょっとホッとしながら、俺は彼女を肘でどけるようにして秀斗の前に立つ。

「ああ、この娘は俺のいとこだ。悪いな、驚かせて。それより、聞きたいことがあるんだ」

 俺は覚悟を決めて彼に訊ねる。もうここまで来たら、破れかぶれだ。

「さっき、静野さんと会っていただろ。これはどういうことだ。なんでお前が、静野さんと待ち合わせるんだ。それだけじゃない。俺は見たんだお前と静野さんが……」


「静野さんはタイラのいい人なんだよ。それなのにその静野さんとこっそりイチャイチャして。これは一体どういうこと。返答によってはただでは済まないんだから!」

 俺を押しのけながら綾子が割って入る。言いにくいことをよくぞ言ってくれた。だが前に出すぎだ。俺はまた彼女を肘で押して前に出る。綾子も負けじと押し返しながら一緒に身を乗り出す。結果、二人で顔を寄せ合いながら秀斗に迫る格好となった。


「……近えよ」

 唖然とそんな俺たちの様子を眺めていた秀斗は、やがてそうつぶやくと髪をなであげながら明後日の方を向いた。


「相談を受けたんだ。俺は音楽祭の実行委員のひとりで、パンフレットにも名前が載っていたから。伴奏者の件と、本番のホールでの練習の件を。便宜を図ってくれないかと」

「本番のホールでの練習だって」

「ああ。本番の前に、同じところで練習しておきたいんだと」


 じゃあ、今静野さんはあの建物の中で練習しているのか。

 俺の視線が自然と会館の方へ向く。足がかってにそちらへと進んでいきそうになる。

 秀斗がそんな俺の二の腕を掴んで制する。


「おい。見えないとこから聴くのはいいが、今彼女に姿を見せるなよ」

 俺は彼をにらみつけた。

「お前に指図されるいわれはない。なぜだ」

「彼女は言ったんだ。本番は私一人で舞台に立たなければならない。タイラ君が傍にいなくてちゃんと演奏できるか不安だから。だから、彼がそばにいなくても大丈夫なようにひとりで練習しておきたいんだ、と」


「静野さんが、そんなことを……」

 俺は腕に入れていた力を緩めると、肩を落とした。来実堂で伴奏の話をしたときの、彼女の表情を思い出す。落胆した、あきらめたような寂しい笑み。

「ああ。俺が無能なために、静野さんは、こんな心配をしなければならない。俺はやはり役立たずだ」


「お前は本当にそう思っているのか? 馬鹿なやつだ」

 俺の腕から秀斗の手が離れる。顔をあげると、秀斗が俺を見て軽く笑った。不思議と嫌な笑い方ではなかった。

「お前が自分で自分を馬鹿だと思うのは勝手だが、お前の傍にいる人間は、お前が思うほど愚かではないことが多いんだ。人を勝手に薄情者にして、大事なものを手放すな」


 俺は思わず秀斗の顔をまじまじと見てしまう。その表情は今まで見たいかなる時よりも真摯で気づかわしげで、頼もしくさえあった。今まで大嫌いだった男。女たらしで、自分の幼馴染を奪ったとずっと憎んできた男。だけど、今彼が俺に向ける言葉は、その表情には、実感がこもっているように思えた。反発しあいながらも長い年月俺を見てきた者の、それは心からのエールのように思えた。


 やがて秀斗はうっとおしそうに俺から目をそらせた。

「あと、念のため言っとくけど、俺はあのおばさんには何の興味もない。趣味じゃねえんだ」

「そんな悪態つくと、また怒られるぞ」

 俺が苦笑して冗談を言うと、彼も鼻を鳴らした。


「まあ、いいさ。じゃあな。俺は忙しいんだよ。これからブラジルの友人と一緒にセミナーなんだ」

 そう捨て台詞を残して俺のわきを通り抜ける。

「ああ、そうだ。綾子も、綺麗になったな。元気でな」

 彼の言葉に俺と綾子は同時に振り返る。

 気づいていたのか。


 顔を見合わせた俺と綾子をおいて、秀斗は立ち止まらずに去っていった。木漏れ日揺れる遊歩道を、ポケットに片手を突っ込んで歩いてゆく彼は、振り返りもせずに片手をあげて別れの挨拶をした。


     〇


 秀斗の姿が全く見えなくなると、人気のない文化会館前は、更に静かになったような気がした。頭上から注ぐ葉擦れの音にさそわれるようにして、俺は会館の建物を見上げる。秋の青空のもと鎮座している、立方体を組み合わせた無機質な建物は、黙して何も語らない。ここで今、静野さんが演奏をしていることも、もうすぐ音楽祭が開かれることも、今の静けさからは想像ができない。


「……それで、聴きに行く?」

 俺と一緒に建物を見上げていた綾子が、遠慮がちにきいてきた。

 俺は少し考えてから、弱く首をふった。

「やめておくよ」

「それでいいの?」

「ああ。邪魔をしては、だめだからな」


 そして踵を返して、先程の秀斗と同じく文化会館に背を向け遊歩道を歩きはじめる。ゆれる木漏れ日を踏みながら、歯を食いしばりながら。

 本当は怖かった。今ステージ上で演奏する静野さんの姿を見るのが。彼女が遠ざかってしまうということを自覚させられるのが。彼女が遠くに行くのに、何もできない自分と向き合うのが。


 いつの間にか綾子が俺に追いついて、鼻歌を歌いながら隣を歩いていた。


「ねえ。音楽祭には、行くんでしょ」

「わからない」

「行ってあげて」


 綾子はそう言ったかと思うといきなり前に立ちはだかって立ち止まり、正面から俺の顔を見据えた。彼女の目の周辺に木漏れ日が当たり、黒い瞳が宝石のようにキラキラ輝く。その瞳に俺のしょぼくれた姿が映っている。彼女が何度か瞬きをすると、その姿が変化した。そう、それは少年のころの俺の姿だ。


「昔……中学生の時。あたしが四国へ引っ越した日、君は見送りに来なかったねえ」

「あのときは……」


 俺は言い訳をしかけて口をつぐんだ。あの時、俺はお前が俺のことなんか求めていないと思っていたから。俺が行ったところで、引っ越す事実は覆すことなどできないことがわかっていたから。でも、言えなかった。それは今彼女を前にして言うのがとても恥ずかしいことのように思えたから。


 綾子は口をつぐむ俺をしばらく見つめていたが、やがてその瞳を頭上の枝に向けたかと思うと、遠くを見晴るかすように目を細めた。


「あの時ね、あたしは君に来てほしかったんだ。そしたら、私のその後の人生は違ったものになっていたかもしれない。もちろん今も幸せだよ。でも、もし君が来てくれていたら、それは私の人生で得難い宝物になっていたはず。その宝物を抱いて見る景色は、きっともっと、彩り豊かだったんじゃないかって、今でも思ってしまうの」


「……ごめん」

 俺は謝った。許してほしいとか、あわよくばよりを戻したいとか、そんな下心からではない。その言葉はごく自然に俺の口からこぼれ落ちた。本当はずっと言いたかったのだ。ずっとずっと、ひょっとしたら綾子は待っていたのかもしれないという想いがどこかにあって、もしそうなら、俺はひどいことをしたのだと。その考えに蓋をして封印しながらも、忘れることができずにいたから。


「もう遅すぎるけど。今更だけど。ほんとうに、ごめんな」


 真剣に謝る、そんな俺の顔を見て、綾子は頬をゆるませた。紅をひいた唇の間から笑い声が漏れ出る。俺の顔に何か面白いものでもくっついているのか。そう問いたくなるほど、彼女は嬉しそうに、楽しそうに笑う。


「ほんとーだよぉー。もう、おそすぎるよー」


 そして、目を閉じ、そよぐ風の香りをかぐように大きく息を吸う。


「ありがとう。でも、時間切れ。君はもう、私の宝物じゃないからね」

 後ろ手を組んで俺に背を向ける。頭上で揺れる枝を見上げながら、彼女はつづける。

「覆水盆に返らず、だよ。あの時君は私を手放したの。君なんかもう、あたしん中では歴史上の人物なんだから。あたしは今のあたしの道を歩いている。君も、今の君の道を歩かないと」

 そして彼女は俺に背を向けたまま、ゆっくりと足を進める。木陰の上に丸い陽だまりの浮かぶ道を、ひとりで歩んでいく。


 その姿を彼女のちょっと後ろから眺める俺は、改めて思う。ああ、俺はかつて取り返しのつかないことをしてしまったのだな、と。頭上で街路樹がさざめく。それと同時に吹き抜けていった風が、俺の胸の隙間に枯葉の香りを含んだ涼気を残していった。


     〇


 俺は来たとき同様駅まで歩くつもりだったが、綾子は文化地区のタクシー乗り場でタクシーを拾った。


「もう行かなきゃ。ここでお別れしよう」


 そしてタクシーの前で彼女は俺と向き合い、俺の両肩に手をおいた。姉が弟を励ますように。


「静野さんは君の大事な人でしょ。彼女もきっと、君のことをそう思っているよ。たとえ舞台で一人で演奏しても、それは心の中に君がいるから。だからぎりぎり立っていられるんだ。決して君は不必要な人じゃない。だからどうか、もう大事なものを手放そうとしないで」


 ポンポンと俺の肩を叩き、パチンとウィンクをしてタクシーの後部座席へ腰を埋める。彼女が俺の方を向いて手を振る。ドアが閉まり、彼女の姿が隠れる。その一部始終を俺は、瞬きもせずに凝視していた。なんとなく、これが彼女と会う最後のような気がしたから。


 やがてゆっくりとタクシーは動きはじめ、あっという間に綾子を運び去ってしまった。気のせいだろうか。その後部座席の窓ガラスの向こうで、一瞬だけ彼女が目をぬぐう姿が見えた気がした。


     〇


 その晩俺は静野さんにメールを送ろうとした。


 書きたいことはたくさんあった。今までよくしてくれたことにたいする感謝。最近急に出勤できなくなったことへの謝罪。役に立てないことへの歯がゆい思い。演奏会での成功を祈っていること。自分の近況。卒論や院試の準備にも気を向けなければならない現実。

 しかし上手く書くことはできなかった。文を重ねれば重ねるほどそれはなんだか静野さんを突き放すような内容になっていく。いったん打ち終わって読み返すと、それはまるでお別れのメールのようだった。


 結局短く『本番頑張ってください。応援しています』とだけ書いて送った。


 彼女からの返信は深夜になってからようやく届いた。そこには思いもしなかったことが書かれてあった。


『来年大阪に引っ越さなければならなくなったの。叔父の薬局の手伝いをしなければならなくなって。だから、来実堂は閉めることになります。君は勉強に専念してください。なかなか伝えられなくてごめんね。今までありがとう』


 その文面を、俺は何度も読み返した。一足早い秋の涼気が俺の胸を吹き抜けていく。昼間、綾子を乗せて去っていったタクシーの後姿が脳裏をよぎる。


 俺は思う。

 綾子よ。君は手放すなと言ってくれたけれど、俺はもう、手放してしまったのかもしれない。水はもう、盆からこぼれてしまっていたのかもしれない。

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