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10 幼馴染との再会

 なぜ、静野しずのさんが秀斗しゅうとと一緒にいるんだ。なぜ。


 その疑問がぐるぐると俺の脳の中で回り続ける。答えなんか見つからない。ただ二人が肩を並べて歩く光景が瞼の裏に焼き付いて離れず、考えてもしょうがないことに俺はとらわれつづけた。


 気のせいか。見間違いか。それとも、たまたま偶然そう見えただけか。


 そう思いたかった。しかしそう思い込もうとしても、確信が吐き気とともに喉の奥からこみあげる。いや。間違いなんかではない。静野さんは秀斗と一緒に歩いていた。いったいなぜ。


 出口の見えない想念にからめとられたまま、俺はいつの間にか自分のアパートに戻っていた。もう外は暗くなっていた。しかし寝付くこともできず俺は、暗い部屋の中で悶々と自問し続ける。


 静野さんは俺を見限ったのではないか。伴奏ができないから。音楽祭出演の役に立たないから。だから、新たなパートナーを欲したのではないか。それが、秀斗だったのではないか。秀斗はもともと静野さんと面識がある。いや、ひょっとしたら秀斗が静野さんの悩みにつけ込んで、言葉巧みに彼女のパートナーの座を奪ったのかもしれない。


 疑心暗鬼の暗い穴から抜け出せぬまま、日曜日の朝を迎えた。


 俺は朝の光に目を細めながら願う。すべて元通りになっていてほしい。昨日までのことが悪い夢であったように。今日は公園練習がある予定だ。いつものように公園に行って、演奏会をして……。彼女と今までどおりの時間を過ごすことができれば、きっと悪夢から覚めることができるはず。


 メールの着信が鳴る。スマホに飛びついて画面を開く。静野さんからだ。


「今日も公園練習は休みにします」


 俺はスマホをほおり、ベッドに身を投げ出した。カーテンの隙間から差し込む光の中で、塵がきらめきながら舞っている。そこに誰かの背中が浮かんだ気がした。去っていく女の子の背中。

 ああ、まただ。

 俺は歯ぎしりをする。歯ぐきから血が出るのではないかと思うほどに。


     〇


 翌月曜日、俺はバイトを休んだ。来実堂くるみどうに行って静野さんの顔を見る気にはとてもなれなかった。


 次の日も、そのまた次の日も。


 おりしも卒論作成も本格化し、院試の準備もしなければならず、どのみちバイトに行くことも困難となっていた。


 静野さんから俺の身を案ずるメールが届いたが、本当のことなんか言えない。ただ、卒論や院試などの表向きの言い訳を並べ、しばらくバイトはできないことだけを伝えた。いよいよ九月に入り、音楽祭が迫っていたが、俺の身体も心も動かなくなっていた。その原動力が今の俺にはなかった。


 どうせ俺なんかもう、静野さんにとって必要な存在ではないのだろうから。


     〇


 その日、俺はまた駅前の喫茶店の窓際の席でボケっとしていた。いつもなら公園練習に行く木曜の午後だったけど、公園にも来実堂にも行く気はなかった。もうあそこに行っても静野さんはいないということがわかるから。彼女の心の傍らに俺がいないことも、わかるから。


 今日もよく晴れている。窓から差し込む弱い光をうけて、砂糖を盛ったガラス容器がキラキラ光る。テーブルに頬杖をついてその物憂い光を眺めながら、俺は気だるい気持ちで冷めきったコーヒーに口をつける。


「公園には、行かないの?」


 突然声をかけられて、びっくりして顔をあげると、向かいの席に女の人が座っていた。

 誰だろうか。どこかで会ったことがある気もするが、今の俺に静野さん以外の女の知り合いなぞいない。こんな、茶色く染めた髪をくるくる巻いて、長いまつ毛をつけて、胸元の空いた服を着たお人形さんみたいなの女の人なんか、とくに。


 記憶の糸を探りながら心当たりを見つけられずにいる俺に、彼女はちょっと寂しそうなほほ笑みをむける。

「いつも、美術館公園でオカリナのお姉さんとあなたを、みていたから。今日は木曜だけど、行かないんだね」


 ああ、そうか。公園で静野さんのオカリナを聴いてくれた人のひとりか。

「たぶん、もう。彼女があそこで演奏することは、ないよ。そして、その隣に俺がいることも」


 その答えが納得できなかったのだろうか。女の人は返事をしない。ただ俺を見つめている。意味ありげな、なにか言いたそうな目で。


 なんだ。まだ俺になにか聞きたいことでもあるのか。

 なんか気まずい。気を紛らわすために砂糖をコーヒーに入れ、かき回しながら窓に視線をむける。その時だった。突然女の人が、口調を変えて話し始めた。


「ああ、もう。どうして思い出してくんないのよ。あんたって、昔からそう。鈍いっていうか、注意力がないっていうか、意識が散漫っていうか……。自分のことしか興味がないのね。ちょっと、あたしをよく見てよ」


 突然怒涛のように悪口を言われ、しかもそれがみんななんとなく当たっていて、俺は面食らう。そして思わず言われたとおりに彼女の顔を凝視してしまう。濃いめの化粧や染めた巻き髪以外にも注意を向ける。杏仁型のパッチリした目。引き結んだ唇。こじんまりした鼻。頬と顎の形……。俺は、アッと声をあげる。


 俺の表情の変化を見て取った彼女は、ようやく満足そうに笑みを浮かべた。


「やっと思い出した? わたしよ。綾子あやこ。タイラ君の幼馴染だった」


     〇


 時田綾子は、俺の幼馴染みだ。近所にすんでいて、小さい頃から一緒に遊んだりと、親しくしていた。恋人だったわけではない。そういった感情が芽生えようとする頃に彼女は秀斗と付き合い、中学生二年生の夏、親の仕事の都合で四国に引っ越していった。


 十年もたっているとはいえ、そんな幼馴染みの顔を忘れたのかと、彼女でなくても俺を責めるかもしれない。しかし仕方がないと言えよう。当時の彼女は素朴なおさげの女の子だった。牛乳瓶の底のようなメガネをかけて、ちょっとうつむき加減でいつも本を読んでいるような子だったのだから。それが見よ。こんな、雑誌モデルみたいな女の人になっているなんて思いもよるものか。それをひと目で分かれという方が無茶であろう。サナギから蝶とはまさにこのこと。女とは本当に恐ろしい。


「あ、あたし今ね、キャバ嬢してるんだ」

 綾子はあっけらかんと近況を教えてくれた。フルーツのごてごてついたメロンフロートをストローで突っつきながら。四国の高校を卒業したあと、上京して、水商売で生計を立てているのだそうな。


 彼女が別人のようにあか抜けたのもうなずける。そういった華やかな世界にいれば、化粧もうまくなるってもんだろう。


 社会人になった同級生の話を聞く機会もない俺は、ついつい彼女に興味を持って、問いかける。

「仕事、大変だろ」

「そりゃあ、もちろん。毎日色々大変だけどさ。でも、あたし、今の仕事好きなんだ。いろんな人と出会えるし、人間って面白いなと思う」

 綾子は往来に目を向けながらしみじみと語る。

「小説も書いてるんだよ。いつか自分のお店を持つのと、小説家になるのが、私の目標」


 通りの人の行き来を映す彼女の瞳が、キラキラ光っている。彼女のメロンフロートの容器に反射するそれのように。緑の液体の中を次から次へと上っていく炭酸の泡のように。


「なんか、すごいな。お前は」

 俺はそのとき心からそう思い、ストレートに口から出す。

「お前はすごい。今をしっかり生きていて。そこに生き甲斐をちゃんと見つけて、将来どうなりたいかも想い描いているんだから。俺とは大違いだ。俺は、腐れ大学生だよ。今のことも、将来のことも、なにも考えていない」


 綾子は俺の方を向き、キョトンと首をかしげる。

「でも、オカリナの演奏をしているじゃん。あのお姉さんと、あの公園で。なにか目的って言うか、目標があるんじゃないの」

「音楽祭に出るんだ」

「すごいじゃん!」

「彼女だけな」


 また、秀斗と二人で歩く静野さんの姿が脳裏によみがえり、胸が鈍く痛んだ。テーブルに両ひじをついてうなだれる。俺の目の前にはあまり口をつけていないコーヒーの黒い液面がある。俺を誘い込む暗い穴のような。


「俺はもう、彼女の役にはたたない。楽器ができないから。彼女は俺から秀斗にのりかえたよ。見たんだ。彼女が秀斗と一緒に歩いている姿を」

 そして俺は顔をあげ綾子を見る。そう。かつてのお前のように。お前も俺を捨てて秀斗と歩いていたんだ。

「そういえばお前は、秀斗とまだ連絡をとりあっているのか」

 暗い衝動にかられて思わずそんな言葉を投げつけてしまう。そんなこと、きいたって何にもならないのに。


 俺のいやしい心を察したのか、綾子の顔から笑みが消えた。しかしそれは一瞬のことで、もとの穏やかな表情に戻ったかと思うと、あきれたようにため息を漏らした。メロンソーダをストローでちゅうちゅう吸ってから、彼女はきっぱりと言う。


「あたし、金井君と付き合ったりしてないからね」

「えっ?」

「あんたの勘違い。ただ、色々相談にのってもらっていただけ。あんたのこととかね。そりゃあ、あの人は見た目チャラいし口も悪いから誤解されやすいけど、意外と誠実だよ。それなのに、あんたは急に口きいてくれなくなるし。結局誤解を解く機会もなくて、まいったわ」


 再びストローをつまむと彼女は緑の液体を底までずずずっと吸い付くし、さっぱりした表情で顔をあげた。


「ああ、やっと言えた。これで、思い残すことはないわ」


 俺は呆然と綾子を見る。屈託のない、あっけらかんとした笑み。ドッキリを成功させて、してやったりと言いたそうな、ちょっと得意気な。

 俺はなにも言えなかった。ただ、心のどこかに凝り固まっていたものが、急にふわっと消えたような、体の力が抜けるような感覚におそわれていた。その感覚に戸惑いながら、しかしそれを表す言葉も見つからず、困惑を紛らわすために往来に視線を向ける。


 その時だった。緩みかけた俺の全身に緊張が走る。


「どうしたの?」

「彼女だ」


 人混みの中にまた見つけてしまった。静野さんの姿を。今日は彼女はひとりだ。でも、どこへゆくのだろう。


 俺の視線を追って静野さんの姿を確認した綾子は、身を乗り出して俺に顔を近づけた。目をキラキラさせて、面白いいたずらを考えついた子供みたいに提案する。


「ねえ、彼女のあとをつけてみようよ」

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