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1 お化けの出る店

  スマホのランプが点滅し、メールの着信音が鳴る。


 きっとあの人からだ。スマホに伸ばしかけた手をしかし俺は途中で止めて、ベッドに倒れ込む。


 やめておこう。

 ため息まじりにそう思いながら。

 やめておこう。それを見たからどうなるっていうんだ。彼女が今さらどんな言葉をかけてきたって、意味がないんだ。


 俺は閉め切られた薄暗い自分の部屋をぼんやりと見渡す。カーテンの隙間から差し込む朝の光の中に彼女の表情が浮かびかけて、枕に顔をうずめた。


 動かないぞ俺は。今日が彼女の大切な日であることは知っている。だけど俺は、ここを動かない。そんなことに何の意味があるって言うんだ。俺が何をしたってもう、彼女をとどめることはできないというのに。



   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


   

 その日俺は、街はずれにある、ある建物へと向かっていた。


 その建物にはお化けが出るというもっぱらの噂で、俺も今までその界隈にはあまり近寄らなかった。お店らしいのだが、何を売っている店なのかはよく知らない。友人の話では薬屋だとか雑貨屋だとか、はたまたアダルトショップだとか……。それっぽいがたぶんどれも違うだろう。その友人たちのだれも、その店の中に入った者はいないのだから。誰がそんな店に興味を持つだろう。不便な街はずれの、看板も出していないボロい店に。薬にせよ雑貨にせよ、駅前に良い店がいくらでもあるというのに。


 大学に入ってこの街に移り住んでから三年。四年目の春にしてようやくそんな店に行く気になったのは、ある用事ができたから。たいした用事ではない。バイトの応募だ。

 今まで興味もいだかなかった、むしろ忌避していた店でバイトをしようと思い立ったのには訳がある。

 それも深遠な理由ではない。


 大学に入ってから数年、なんとなく学生時代をすごして俺はこの春で大学四年となった。同級生は次々と人生の次のステップに進んでいる。企業に採用されたり、公務員や資格の試験に挑んだり、留学したり、起業したり……。


 みんなすごいと思う。そのエネルギーはどこから湧くのだろうか。俺なんて未だに就職先が決まっていない。それどころか就職活動をする気さえまったく起こしていない。そんな気力が湧かないのだ。望みがあるとすれば、それはこのモラトリアム期間がなるべく長く続くこと。そう、そのために思い立ったのが大学院進学だ。だがそれには問題がある。金銭面の問題。院にいくには当然ながら金がかかる。その問題を解決するために必要なのがバイトだ。労働への欲求があるわけではない。勉強の意欲があるわけでもない。ただ、今の自堕落な生活を続けていくために収入が必要なのだ。どうせ働かなければならないのなら、なるべく楽なところがいい。そんな安直な理由でバイト先を探した。そして見つけたのだ。およそ仕事などなさそうな例の店の求人を。


 午後の物憂い光の散る街角を、俺はひとりその店へと向かう。

 時々道や家々の軒先を桜の花びらが舞い散ってゆく。頬に当たる風はまだ少し寒いけれど、注ぐ陽光は柔らかくてもうすっかり春の風情だ。小鳥が住宅の庭木でさえずり、桜の枝がねむたげにゆれる。東京郊外ののどかな街。都会の喧騒とは無縁の静寂が、古びた石の階段や坂道や、桜並木に宿っている。新宿や渋谷とは全く違う。時々別世界と思えるときがある。


「いっそ本当にここが別世界で、このまま何もせずだらだら生きていければいいのにな」

 道を下り、梢に瞬く白い光に目を細めながら、気だるい気持ちで俺はそうひとりごちる。


 どうせ俺は、何にもなれない。何になる気もない。


 どこからともなく笛の音が流れてくる。細く、美しく、でもどこか哀愁ただよう音色。なんだかしんみりとした思いにかられながら俺は、その音に誘われるように坂の下の角を曲がった。


     〇


「ここか……」

 アパートの部屋を出て数十分。ようやくその店にたどり着いたときには、街角に注ぐ光は橙色がかっていて、すでに夕方の風情が漂い始めていた。同じ坂を何度も上り下りしたせいで、足がだるい。俺は両ひざに手をおいて息を切らせながら愚痴をこぼす。


 なんなんだこの店。ボロくてどこにあるのかわかりにくいというのはわかっていたけど、あんまりだ。あまりに存在感がなくて、三回もその前を素通りしてしまった。鬱蒼とした緑地に面したせまい坂道の途中にあって、店先に植わった樹の影に隠れている。看板も出ていない。そもそも、戸口が道に面していない。


 店構えは思っていたよりは小綺麗だ。大正時代に建てられた洋館といった風情。ただし、壁の白い塗装は所々無惨にはげ、一階の窓の周囲には蔦がからまっている。おばけが出ると言われるのも無理はない。正面入口と思しき扉のガラスからオレンジ色の淡い光が漏れ、それがかろうじてこの店が営業中であることを示していた。


 その扉に恐る恐る近づきよくよく見ると、取手の上にに鈍色のプレートが取り付けられている。そこにすすぼけた字で「来実堂」と書かれてある。それがこの店の名前だろうか。なんか、名前も怪しげだ。

 はやくも踵を返して帰路につきたい衝動にかられながら、俺は扉を開いた。


     〇


 中に入ってみれば案外きれいな店かもしれない……、なんて希望を少しでも抱いた自分を、俺は張り倒してやりたい。店に足を踏み入れた俺は、すぐにそれを後悔した。


 オレンジの薄暗い照明の下に並ぶ木製の棚。そこに陳列されるのは大小様々の瓶と、意味不明な漢字の書きつけられた箱たち……。その棚の間を歩きながら俺は、さながら自分が悪の組織の研究所に忍びこんだスパイになったかのような感慨をおぼえた。ひょっとしてここに住んでいるのはお化けなのではなくて、血も凍るような犯罪者集団の幹部だったりして。怪しい雰囲気に俺の妄想は加速していく。そうだ、そうに違いない。そしてうっかりその秘密を覗いてしまった者は捕らえられ、身の毛もよだつような実験の材料に……。


 その時、陽が雲に隠れたのか、窓にさしていた光が陰った。頭上でチカチカと音がして、オレンジの照明がまばたきするように点滅してから消える。窓のガラスがカタカタと鳴り、外の木立の葉のさざめきが、なにかをせき立てるような激さで、急に暗くなった店内を押しつつんだ。


 ヤバイ。逃げよう。

 直感的に俺は思った。

 お化けでも、悪の組織の研究者でも、ここにいるのはきっとまともな奴じゃない。見つかってしまう前にはやく外へ……。


「ねえ」


 背後でした声に、俺は本気の叫び声をあげて飛び上がった。漫画とかで驚いたキャラが飛び上がるシーンを見たことがあるが、リアルに飛び上がるものだということを俺は今日はじめて知った。こんな跳躍力を発揮することはきっと、俺の人生で二度とないだろう。そして、本気の叫び声も。それはもはや叫びではなく、なんというか、魂が抜け出ていくようだった。


 振り返ると、そこにたたずんでいたのは俺の想像とはちょっと違う、しかしやはり不審な雰囲気の人物だった。


 お化けと悪の幹部を足して二で割って、美人にした感じ。……わかりにくいか。それは女の人だった。白衣を着た、若い女の人。黒ぶちのメガネをかけて、黒髪を引っつめにして、いかにも理系女子といった感じだ。色が白くて美人だけどニコリともしない。


 さてはこいつが悪の女幹部か……。あくまでその妄想から離れられない俺をじっと見つめていた彼女は、やがて小さく口を開く。


「ああ。君がバイトに応募してくれた学生さんね。よろしく。この来実堂の店主、静野しずの紗耶香さやかです」


 ガラスを弾くような、ちょっと硬い、しかし綺麗な声でそう彼女は名乗った。

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