コンクリート 第一話 子供の神様 #3
◆11 銭谷慎太郎
銭谷警部補は、ぼうっと遊覧船に乗っていた。休日。非番。独り身の彼は、浅草から隅田川を下るこの船でビールを一杯だけやるのが好きだった。この船の上で、たったひとりで、自分が未解決と考えている事件のメモを眺めながら、考え事をするのである。
アパート住まいのある金町から京成線を乗り継ぎ、浅草まで出る。長閑な柴又青砥を回って浅草に出る路線は、平日に千代田線で霞ヶ関へと向かう電車とはまるで違っているのも彼を浅草界隈に足繁くさせる理由であった。
こうやって船の上から街を眺めると、普段暮らしてる現実とはまるで違う視点に出会えることがある。海風と一緒に、自分の脳裏にまた別の物の見方が降りてくる時が、銭谷には心地よかった。
意外と強い川面の輝き越しにゆっくりと流れていく東京の街並みは、川からの視座だとまるで別物だ。日常にない視界の広がりが、脳に新鮮な安らぎをくれる。空から飛行機で眺めるのとはまた違う。日頃眺めている建並を、空からではなく、陸からでもなく、水の側から見つめ返す。それは、自分の背中や、普段見落とされた死角めいたものを眺めるような気持ちに似ていた。
船は百人も乗れる大型のボートで、いつも空いているし、英語や中国語の観光客がある程度で、邪魔も入らず、ビール一つで十分に考え事を楽しむ事ができた。銭谷慎太郎にとって、休日の時間は、激務に疲れた体と脳を癒す、最も大事な時間だった。
浅草界隈を出ると、船は、町並みの背中を見るようにしながら、駒形橋をくぐり、厩橋を潜った。京都の鴨川や郊外の多摩川や江戸川と違い、隅田川はおおよそ川岸まで家屋が並んでひしめいていて、川に直に館並みが接続する。下りながらそれらの下町風情が少しずつ、湾岸の大雑把な建造を増やしていく。川岸は別々の歴史の時代で塗り重ねてられていて、時代ごとに色彩も別で、木造だの鉄筋だの何の統一もなく、全体に方針がないこの国の空気を現しながら、何故かたくましい庶民生活の透徹した意識のようなものが感じられる。銭谷は、さまざまなものをぢっと眺めるのが好きだった。隅田川から東京湾を目指す、川下りの開放感のなかで、少しずつ足される潮風を頬に受けながら、ちょうどよい、時間が過ぎるのである。
最近、この優雅な休日の船上が、すこし悩ましい時間にもなった。
もともと、刑事という仕事は肌にあっていると思っている。もともと、刑事になりたかったし、仕事そのものを本質的に否定するような気は何もない。四十歳を過ぎ、結婚も自分には訪れない気がしているなかで、この仕事そのものは、自分の肌に合っているし定年までのお勤めをと思っている。やはり刑事が天職だと思うし、今の若い人間らのように、職業を簡単に変えたいなどとは思わない。
しかし、最近、仕事をしている中で何とも言えない倦怠感がやってくることがある。例えば、大好きだった捜査の最中で、自分がぼんやりしてしまう時が増えた。本当に自分はこれでいいいのだろうか、などと、仕事の最中に全く違うことを考えたりしてしまうのだ。
その倦怠感の理由をこの休日の隅田川の上でまで、考える時間が増えている。優雅に、捜査の不足部分のパズルを埋めながらビールを飲んでいたこの楽しみの時間が、自分らしくない後ろ向いた考え事に、使われることが増えている。
若い頃から、銭谷は兎角、真実というものを究明することに憧れた。いや、真実を無限に追いかけられることが刑事という仕事の魅力そのものだった。恐ろしい犯罪を犯した犯罪者らが、今こうやって川面から眺める東京の街で、平然と笑って暮らしたり、どこかですれ違っていたり、自分の知り合いと仲を深めていたりするかも知れないことが、刑事になる前からとにかく嫌だった。全ての犯罪の真実が解明されることは世の中を確実により良いものにするのだ。
手帳を取り出す。
誰にも見せたことのない、自分のメモだった。未解決ファイル、として銭谷個人でメモされたものは、ほとんどが警視庁では「解決済」の事件だった。けれども、自分の中で納得できていないものは、銭谷にとっては解決はしていない。そういう事件が幾つも警察手帳とは別の小さめの大学ノートには書き埋められていた。
太刀川龍。彼の周辺のこともそうだ。
警察組織として一定の結論は出ている。
別の真実の可能性があるとしても、一定の結論をするのが警察組織である。結論がなければ、迷宮に、つまり、未解決事件になってしまうからだ。一般的にそれは、組織にとってそれは、みっともなく、ぶざまで、体裁が悪い。多くの上層部は未解決を忌避する。その下にぶら下がる自分たちの忖度がそこにある。だから、無理矢理、一定の結論が与えられ真実への道のりが閉ざされる。
銭谷はそういうものをメモしていた。
解決済みをもう一度、捜査したい、と幾度か上長に談判したことはある。
勝手に幾人かの後輩を使って調べさせたこともある。
が、それらは、少しずつ、評判の悪い形で漏れ、周囲に伝わっていった。純粋に刑事の直感にたよる、生きがいともいうべき仕事の方針が、組織の中の自分を生き難くさせる。順調に歩んできた銭谷の昇格にも、暗い影を投げ始めている。
これ以上好きなことをやれば、さまざまな権限が自分から逃げていくのも理解できる。
自分はどういう風に、刑事という人生を全うするのだろうか?
組織の中で、多くの後輩たちに慕われながら、自己矛盾を抱えて生きていくべきなのか。
それとも、無駄な協調を排除して、自分にとっての真実の追求を続けるべきなのか?
六年前の事件がまた、脳をよぎった。
そのとき、突然、携帯電話が鳴った。
*
独身の四十代の休日に、電話が鳴ることは珍しい。
長閑な船上の遊覧や、気持ち良い午後の時間が、奪われていくであろうことを想像しつつ、電話をとった。
「殺人です。」
山田巡査だった。
「ああ。」
「今自分は、向かってるのですが。」
「現場に?」
「いや。容疑者のほうです。」
「容疑者がいる?」
殺人が、それほど、珍しいわけではないだろうし、通常本庁が所轄を飛ばして動く話でもない。その次の言葉を銭谷は待つた。
「例の、メディアを賑わせていた、池袋暴走事件の元官僚。あれが被害者です。なので、容疑は、例の妻と娘を奪われたあのーーー。」
「池袋の?あの官僚の老人の暴走事件か?」
池袋暴走事件。九十歳近い老齢の元官僚の運転する車の暴走によって、妻と、娘二人を殺された、被害者のいたたまれない報道は、銭谷も幾度か見たことがある。車が爆弾と化し、幼い家族を崩壊させた事件は、元官僚の横柄な態度と、それを不満とする炎上世論が、印象強くあった。やり場のない怒りが必要以上に、その老人に向けられていた。
正直子供や妻が、殺される、という感覚が独身の銭谷には想像でしかないが、復讐心を持つ気持ちには同情があった。今後の彼の人生を思うと居た堪れなかった。彼は、その怒りのやり場をどう処理するのだろうか。自分と同じ歳くらいだろうか。幾度かテレビの報道でも、その人物の様子は見ていた。
(ただ。しかしーーー。)
しかし、あの父親が、復讐を行ったのだろうか。すでに容疑者という言葉を使った山田に、そういうことを思った。
「で、そのようぎ、いや、元々の被害者、のほうを取りに行っているということか。」
銭谷があえてそういう言い方をしたのは、休日を奪った山田に対する、反駁だったかもしれない。しかし、山田はそんなことは気にもせず、
「実は銭谷さんに伝えていなかったんですが。」
「ー。」
「SNSでこの事件俺、追っていたんです。炎上もかなりしていて。何かが起こるんではないかって思っていて。」
「何かっていうのは」
「つまり、復讐です。」
「彼が、つまりその。」
「もちろんです。彼が一番、恨んでいると思いませんか。」
それはそうだと思う。事実はそうだ。しかし、それと、短絡な復讐が実際に始まるかは別の問題だ。たとえSNSでの言葉が盛り上がっても、人間は自分の正義を曲げられるのだろうか。
「それで、任意で?」
「ええ。住所はわかってるんですが、電話がつながらないので。とりあえず、要町っていう、池袋の一つ先、有楽町線で一駅みたいなので、自分は向かっています。非番にすいません。」
「いや、わざわざありがとう。自分もちょうど用事が済んだから、ちょっと顔を出そうと思うよ。」
「はい。また、動きがあったら連絡いたします。」
電話を切るとまた休日の船の上だった。そもそも何故山田は非番の自分にまで、そんな電話をしてきたかというと、彼にとっては、独自で時間を割いていた案件が、つまり彼の直感が当たったことを手柄のように話したかっただけなのかもしれないと思った。銭谷は太刀川の件につき合わせた時間に彼が不満を述べた時のことを思い出した。
検索をすると、池袋事件の元官僚が、殺害されたというニュースが、少しずつ、出始めていた。まだ、容疑者という言葉や、警察の見解は出ていない。
遊覧船はゆっくりと、旧築地市場の船着場の界隈を超えていく。
もう少しで、日の出桟橋である。
銭谷はやはり、山田という若者と自分の刑事の直感がずれているのを感じた。
自分なら、まず、現場に行き、どう殺されたか、の方を調べるのである。
◆12 風間の電話
「だから、さっさとしろ」
「はい、いま、会議を行いまして、もうそろそろ、さまざまな」
「いいから、いつ、相手を突き止められるんだ。」
「その、風間様、おそろしいですね。猫の、死体がおかれたというのは、」
「昨日だ。だから昨日から何度も、電話をしているんだ。」
「もちろんでございます。それはその宅配の、Uberさんの配達がそうなったというのですね」
「何度も言ってるだろう。高級な焼きそばの代わりに猫の死体だったんだ」
「しかし、Uberの配達員の人間は、アプリで見られますよね。あのアプリは顔写真を出しています。その人間はすぐ突き止められますよ。」
「警察に頼みたくないから、あんたのところに高い金を渡してるんだろう。それをやってくれ。」
「ではそのアプリを、わたくしどもに拝見させていただくのが早いかと思うのですが。いつでも取りに伺えますので。警察を通さずとも、その配達員のほうを調べることも可能でございますから」
「俺の商売道具をお前らに渡せるわけないだろう。この電話にはそれなりに情報が入ってるわけで。そういうまどろっこしいことではなく、やり方は他にあるだろうが。」
「一般的に、猫の死体を届けたその人物がまず、容疑の第一かと、」
「いいから、早く調べろ。いつできるんだ。飯も食えないじゃないか」
「何度も着信をいただいて恐縮ではございますが、しかしながら」
電話が鳴るのはほとんど1時間おきなのでございます。そうして、こちらの言い分は少しも通らず、上記のような一方的で不毛なやりとりが、続くのです。彼の言うには、自分の部屋に様々な追加の嫌がらせが増え始めたというのです。人糞のようなものが、玄関におかれることもあるのだとか。
出前の注文が、猫の死体になったのであればその出前の配達員を今時はどこのサービスも認知できるようにしてあるのですから、ここで話を詰めれば良いのです。むしろ、レイナ様のような高度な調査も要らず、すぐに、相手が特定できるかもしれませんから。そういうことを話そうとしているだけなのに、会話は成立しないのです。むしろ、怯えて興奮した声で罵声を繰り返すのです。すべてを遠回りにさせ、ややこしくする彼の性格は本当に困ったものです。人間社会にございます最低限のルールというものさえ、守ることはないのですから。別に紳士的になれとは申しませんが。
私は正直申し上げますと、どのあたりで、この件からある程度手を引けるかの場所だけを考えておりました。ですから、彼の横柄な態度も、まあ、どうでもいいとおおわれました。
ちょうどその会話の最中に、私の電話にはレイナ様からの着信が入りました。古い言葉で言うキャッチホン、でございます。私はこれを潮時に、
「風間さま、まさにいま、スタッフから連絡でございます。おそらく、なんとか、レポートが上がったのかもしれません、暫しお待ちくださいませ。」
そう言って、相手の声も聞きもせずに、わたくしは一方的に、電話を切らせていただきましたのはいうまでもございません。(嘲笑う微笑)
◆13 レイナの電話
「電話でいいですか」
「もちろんです」
「まず、風間のアカウントは脆弱です。」
「はい。つまり、」
「ある程度の素人でも、入れるくらいに、管理が甘いということです。」
「なるほど。」
「つまり、プロではないです。Uberのアカウントをみました。実際に、彼が頼んだものは、猫の配達の後にちゃんと届けられているようです。」
「なるほど。」
「なので、Uber側の(置き配達をした)人間は、シロかなと。」
「え、どういう意味ですか。」
「その、つまり。Uberのシステムに入って、何かの不正をするのはまあまあ大変です。Californiaの会社ですから。そうではなく、風間になりすまして、風間のスマホのアカウントに入れば、彼が何をしてるかは丸見えです。」
「そっちのほうが、全然楽。」
「ええ。数万倍楽です」
「数万。」
「ああ、それで、風間のアカウントでアプリを開いておきながら、風間本人が食事を頼んだ時に、Uberの少し前に、別の人間が、猫の死体を届ければいいのか。インターホンは、通してしまうだろうし。玄関前に置くことは出来る。」
「まあ食事のたびに、置き配で猫が届けられれば、気も滅入りますね。本当に嫌がらせをしたいのだと思います。」
「どう言う人間がやっているのか」
「調べましたが、使い捨てSimです。これを追いかけるのは至難です。」
「なるほど、ということは、ネット側ではきびしいのか。」
「はい。なので、マンションの防犯カメラで割り出してから、調べる方が早いです。」
「了解。そうだね。」
「ええ。」
「単純、といえば単純か。ということは、その偽装配達員を捕まえるのが優先か。」
「お任せします。防犯カメラで割り出すのが良いと思います。」
「ありがとう。」
「それと。」
「はい。」
「少し追加ですが、風間は、警察も追ってるかもしれません。」
「ほう。」
「なぜ警察が?」
「権藤さんのご察しの通り彼は、反社会勢力ではないです。」
「フロントということですか。」
「いえ、そこまででもないのかもしれません。」
「ふむ。」
「彼がやってるのは、名義貸し斡旋という犯罪です」
「なるほど、やはり、その辺りですね。」
「羽振りがいいのは、その手数料で稼げているからだとおもいます。」
「うむ。」
「繋がりは不明ですが、何人かの、上場企業の社員と、そういうやりとりをしています。その上場企業の人間の名義で不動産を借りて、それを、主に、反社関連の事務所に又貸しさせているようです。」
「なるほど。特殊詐欺(オレオレ詐欺)の基地などに使うということか。」
「そうですね」
「全国の老人に、そこから電話しているということか。」
「そこまではわかりません」
「うむ」
「ただ、ご存知の通り暴対法の強化で、今不動産が借りられない人間が増えているのは事実なので、この名義貸しは一定のニーズがありますね。フロント企業とは、また別の商流になったりしている様子です。」
「しかし、大企業の社員がそんなに迂闊ですか」
「まあ、色々、やり方はあるようです。表向きは一切そう言う空気ではなく、飲食関係などを経由するようです。」
「飲食?」
「最初の一ヶ月だけキャバクラ嬢との別宅のように見せかけたりするなど。たまには使っても良い自分の別宅のような部屋の登記に見せるなど、名前を貸すだけで、月に二十万が相場らしいですから、この景気で試してみる人間も少しはあるのかなと。この辺りの工夫が、風間はうまいのかもしれません。」
「なるほど。」
「はい。」
「ということは、いわゆる、組同士の抗争の何かではないってことか。」
「はい。仕事上でのトラブルをK組や、その他の組織と抱えてはいません。一応、引き続きML(機械学習)で、巡回はしておきます。」
「ありがとうございます。であれば、少し安心いたしました。」
「ええ。前金であれば、お嫌、かもしれませんが、もう少しみてもいいかと。」
「おいや、かも?」
「いや、まあその、深い意味はないですが、大変ではないですか?」
「私がですか?(思わぬ躊躇)」
「いえ、その。大変でなければ良いのですが」
「ええとそれはつまり、その」
「追加で調べたものは御園生さんに送れば良いですか」
「ありがとうございます」
「それと、その。」
「何か言いかけました?」
「あ。いえ。別に、大丈夫です。では、御園生さんに送ります。」
◆14 御園生君
私権藤が御園生くんを弊所に参加させるようになったのはとある理由があります。彼は私が以前所属していた企業で、大変お世話になった先輩の御子息なのです。いや、亡くなった御園生さんには本当のお世話になったのです。そのことを話すのは、私にとって別の物語になりますから(冷ややかな失笑)ここでは割愛いたします。
しかし、そのようなお世話になった方のご子息を何も、探偵稼業などに巻き込まなくても良かろうという、ご意見も当然あるかと思われます。かくいうわたくしも、そのように思う意見の持ち主でございます。
デジラルトランスだとか、前金だ、反社会風情だという世知辛い話をいたしましたがゆえ、この権藤という男は、渡世的で打算的で、所詮金銭程度の目的の輩だお思いかもしれません。ご意見ごもっともでございます。がしかし、わたくしの探偵事務所創業においてそのような打算はございません。ここでは、それは誤解だということだけ申し上げておきましょう。私はこの仕事を、ある崇高な、浪漫派の目的を持って行っているのです。そして、言うなれば尊敬する御園生先輩の言葉も私の創業の後押しになってもいます。でなければ大切な御園生先輩のご子息を巻き込んだりなどできるわけがございません。
とは言え探偵稼業でございますから、そもそも実のところ、彼を誘うなどはもってのほか、と言うのが前提でございました。いえ、優秀な大学を出られた御子息を引き込むなど心底あり得ないことと、考えるのが普通で御座います。これには言い訳がございまして、実は彼は、最初は御園生という名前ではなく、別の名前で、弊所に就職希望をしたのです。ご承知の通り、私どもの仕事はプロフェッショナルな外注に重きをおいてございます。経験のない新卒のようなものは当然断らせていただきます。それが、どうしてもというのを幾度も繰り返し続けるわけで、やむを得ず、採用させて頂いたのです。もちろん御園生先輩の、み、の字も想像せず、見習いと言う形で仕事を幾つか渡すようにして参りました。基本的にはまあ、私の雑務の手伝いと言ったところでございますが、みるみると成長をしていくのを感じておりました。そうして、二年ばかり過ぎたとある日、
「わたしは、子供の頃、あなたに抱っこされたことがあるんですよ」
と、その青年は立派に言ったのです。二年ものあいだ、そんなことも想像だにせず過ごして参ったわたくしの脳がどのような反応をその場でしたのかはいつかまた後日申し上げるとだけ、させてくださいませ。
弊所の所属である、御園生くんの紹介として上記が適切かはさておき、まず当面は、若い割にはなぜか、私のために必死に働こうとしてくれる不思議な若者とでも思っていただくのが適切かと思われます。補足として、御園生くんは、父親の誠実さをしっかり引き継ぎましたが、父親より母親にに顔が似たせいで、嫉妬するほどの美男子でもあります。
◆15 池袋の花束
AMラジオは雑音のようなニュースを流していた。
太刀川は、池袋のとある交差点にいた。
事故から二年が過ぎている。
その現場の交差点には、もう、かつての事故の印象はなかった。車が複数散乱し、窓ガラスが粉砕し、絶叫する人間や、失われていく幼い命らの悲劇もなかった。小さく交差点の角に、花が飾られていた。当初のようなメディアが伝えたたくさんの花ではなく、もう、遺族のものだけ程度になっていた。そうなった頃にはテレビもカメラは出すこともなく交差点は過去を思い出せない人間の証左かのように、一瞥もない自動車が断続の往来を続けていた。
太刀川龍は、用意した花を三束、そっとガードレールの側の元々あった花束に重ねた。花束は、たくさんになった。おそらく遺族が、いや、あの父親が、毎日のように捧げにきているものかもしれない。死んだ自分の娘に花束を買う気持ち、が苦しい。それは太刀川の胸を責めた。
想像力というものを、神がどこまで人間に与えたのか、わからない。しかし想像を正しくできるなら、世の中がまた同じ悲劇の可能性を残したこの交差点を放置できるのは何故だろう。
もう一度太刀川は手を合わせて何かを祈った。
「・・・本日午前、東京都中野で、強盗殺人事件があり・・・」
今では珍しい、AMラジオを聴いている。音質は悪い。ネットとはつながってはいない、昔のものだ。
年間の交通事故死亡者は三千人程度である。
政府も、自動車会社も、これくらいは死んでもいいって言うことが、本音なのだろう、とまでは、ラジオは言わなかった。三千をゼロにするのは、また別のコストがかかる、というのは、会社を経営してきた、太刀川には、よく理解できた。利益率が下がるような商品を、企業が開発できるわけはない。世界最大の企業でも、街の八百屋でもそれはほとんど一緒だ。企業ではできない。それは政治の仕事で、民主主義ならば、それは国民の意志であるべきだ。
ラジオの話題は次のニュースに移った。
太刀川はすでに、その場を去っていた。
事故現場は、花束だけがあるだけの、日常の交差点に戻っていた。