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パラダイム  作者: 彦右甲斐
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コンクリート 第一話 子供の神様 #1

第一話 子供の神様


◆1 霞ヶ関


 とある秋の夕暮れだった。

 霞ヶ関警視庁のとある一室では、刑事らとその男の、憂鬱なやりとりが続いていた。

「そうですか、太刀川さん。」

「刑事さん。何度も、申し上げている通りです。」

「少しだけでも、捜査にご協力を頂けませんか。」

「お話ししているとおり、私には、刑事さんが仰っていることが、さっぱりわかりません。何か確実な証拠があればまだ、わかりますが。」

銭谷警部補は、長い取り調べに疲れ始めていた。厄年まで迎えた身体には、ひと回りも若い男との睨み合いは想像よりも体力を使う。反して、太刀川と呼ばれた男はほとんど疲れを見せなかった。聖人君子のように姿勢良く、椅子に座ったままである。

「刑事さん。そろそろ。」

言葉を、紙に乗せるように、その男は話した。

「そろそろ、任意のお時間としては十分なのではないでしょうか。」

「しかし。」

「私も小市民としてお役に立てることがあればと思ってご協力しているおつもりです。」

銭谷刑事は、じっと、苦虫を潰すように押し黙った。反駁の言葉が出ない。同じような質疑は、切り口を少しずつずらして、すでに数回は繰り返されていた。

「あなたが私に問うてるのは五年以上前のことです。今も昔も、おっしゃるような内容に身に覚えがございません。そういう時代があったかもしれませんが、いまさら、どこかで起きた新しい事件に紐付けて何かを言われても無理がありますよ。」

「うむ。」

「それは、お認めですよね。」

そう言って、太刀川は少し微笑んだ。まだ三十代だろうか。艶のある肌と髪が、くたびれた装いの銭谷刑事と対照的だった。

「あなたが、六本木ヒルズの資産家の一室で幾度も時間を共にしたのは事実です。」

「六年以上前ですね。」

「あの部屋に出入りしていた人間の中には違法な薬物の売買にも関わったものもある。あなたの会社も様々な関わりがあった。その関係者が、今回の金融事件にも絡んでいるわけですから。」

「言葉が違います。私の会社ではなく、私が昔関わった会社ですね。今は関係がない。」

「でもあなたが創業して、上場させた会社でしょう。」

「では、堂々と、今回の不正送金の嫌疑で私を逮捕すれば良いでしょう。なぜそれをしないのでしょう。」

「・・・。」

「それができないのは、正しい証拠に欠けるからでしょう。失礼ですが、論点を変えてまで、あなたが調べたいことは何ですか?」

「しかし、うむ。」

 銭谷刑事は反論を試みようとしたが、自分の準備した言葉が、この次の展開をさせないのは自分自身でわかり切っていた。

 約六年以上前に、この目の前の男、太刀川は、今回の不正に関わる人脈の中心、いわゆる富裕層の集う世界にいた。その送金は、とある海外の要人に絡み、そして、今日本で起きている幾つのことにつながっている。

 銭谷警部補が、彼を任意で取り調べようとしたのは、今の彼ではなく、昔の彼の周辺だった。

 太刀川龍。学生時代からウェブ開発で名乗りを上げ、随分の資産を築いた。その時期に太刀川が、さまざまな人脈と連絡があったことは確かである。その中には犯罪に絡んだ関係者も複数含まれる。実際に彼らの集う様々な疑わしい界隈にも出入りしていたし、メールや、メッセージや一緒に写った写真の履歴も数多く残っているのだ。

 銭谷警部補自身の勘としても、この人間が何かを知っているのは確かだとおもう。いや、知っているだけではないはずだ。もっと深い闇の部分で、今回の事件と六年前の事件とがなんらか繋がっていると思われてならない。そんな刑事としての直感だった。

「余計なお世話かも知れませんが、今回の不正金融事件というのも、警視庁あなたたちが、ここまで動かれる、ことでしょうか。基本は、脱税でしょう?」

銭谷は苦しくなる自分がわかった。それでも抗うように、

「あなたは、あの3505号室に、いたわけですよね。」

「部屋の番号まで思い出せませんよ。」

「その時何が本当はあったのですか?一人の人間が死んでいます。」

死と言う言葉が出てもなにも変化を見せず、太刀川は、また同じことを聞くのかという表情をして、

「繰り返しですね。私は関係がない。アリバイもある。おっしゃるとおり、事件のあった六本木のあの現場に、事件とは違う日時に出入りしたことがあったのは若気の至りです。うん。そうとしか表現のしようがないです。」

「・・・。」

「会社をやっていた頃は、私も、さまざまな世界の人間と交流をいたしました。ですから、そういう賑やいだ場所によく行きました。だから若かったのです。今思えば、迂闊でしたよ。」

「しかし、一度や二度では」

「私は関わってません。あの時もいまも、何もありません。お調べの通り、私はもう、あの世界どころか、インターネット社会そのものを離れています。誰とも付き合いさえない。電話も持っていないし、家に回線も引いていないのです。そのことは、どう思われますか?」

「がしかし」

「いま、ビジネスをしていくのに、ネットにも繋がないで何が出来ますか?人ひとりも、雇えませんよ。」

「ですが、それとこれとは」

「いくらでも調べていただくのがいいです。しかしこれ以上、私の時間を使うのも限界だと思いませんか。ご理解はあると思いますが、私にも人権がありますよ。」



 取調室には銭谷警部補と若い山田巡査の二人が残っていた。窓からの西陽は、ゆっくりと弱まっていく。また、代わり映えないいつもの夜が訪れようとしていた。

 銭谷は独身で、結婚したこともなかった。今年は厄年だが、厄払いのようなことをする予定もなかった。

「銭谷さんは、なぜ、いつまでも彼を追うのですか?」

太刀川の帰ったあとの椅子に座って、ひと周り以上も若い山田巡査が言った。

「気になるかな。」

「ええ。なにか、銭谷さんとしてのこだわりなどがあるのかなと。」

「うむ。どうだろうな。」

そう言ってから銭谷は言葉を探したがいいものが思い浮かばなかった。

「まあ、それは、勘でしかないな。」

「勘ですか。」

「ああ。」

「しかし、彼も、本当にさまざまな関係で名前が出てきますよね」

「彼の作った会社は、一斉を風靡したからなあ。華やかなものだよ。」

山田が得意のパソコンを叩くと、データは次々と溢れた。

「時の大臣から、放送局の社長だ専務から、芸能界、スポーツ選手、その先の、反社会性力側の実力者から、フロントから。世に出てないものも沢山ある。若くしてこれは立派ですねある意味。」

山田は画面を眺めながら、その経歴にある程度の敬意をあらわすように言った。その言い方には、銭谷警部補のように年齢を重ねるより、太刀川の生き方の方が遥かに魅力的だという意味合いさえ含まれるようだった。今時の若者には、きっとそうだろう。場合によっては銭谷が何かの妬みで、太刀川を別件捜査をしてるとまで、言われるかもしれない。

「奴は、会社を去る手前で、明らかにネットを避け、さまざまな処理を行っている。」

「まあ、そうでしょうね。それは、そう思います。」

「事件を起こした関係者の利害関係の中に、首を突っ込んでいたのは確かだ。その利害関係のようなものが、時間がたった程度で消えたとは、到底思えない。引退したと言っているライザー社の会計や不正投資にも絡んだはずだよ。」

「ライザー社、を辞めるまでは、ある程度そうだったかもしれませんね。」

「ああ。」

「でも、もうすでに、太刀川元社長は株も売り、一切関係が切れているように思えますが。」

「うむ。それはそうなのだが。が、しかし、」 

銭谷警部補は、また若手を困らせるいつもの話を始めそうになった。こういう場面の会話がもう少し得意なら、若い山田巡査も銭谷の捜査にもう少し協力の時間を割いたかもしれない。捜査一筋で、事件解決の結果だけで勝負をしすぎた銭谷は、自分の仕事の説明が苦手だった。結果を見せれば、若者がついてくる、時代に育った彼には、若者に、自分の仕事の説明というのは、今でも照れ臭い。

「しかし、何回調べてもこの五年は太刀川は潔白ですね。」

山田は続けた。

「今からちょうど、五年前に、かれは、メールも、電話も、全て、解約しました。」

「ああ」

「残っているのは、彼が捨てたものです。消しもしていないですが。まあ、本当に大事なものは、なんとかして消したのでしょうけども。」

「ああ。彼ほどの資産や技術があれば、当時の最先端のやりかたがあっただろうね。」

「でも自分には、関係者と五年も連絡も取れない人間が、事件に絡むことなどあり得るとは思えないんです。だってメールもチャットも出来ないんですよ。彼も同じことを言ってましたけども。」

「そうだな。」

「こうやって、任意の聴取を繰り返しても、彼がいう通り、そろそろ、時間の無駄を感じています。それは、太刀川にとってだけではなくて、僕らにもです。もっと力を入れて取り組む事件がたくさんある。」

「うむ」

山田の間合で会話が進むのを、銭谷は、反論の言葉を、自分の脳裏に集めながら聞いていた。

(遠回りなどではない。)

(刑事は自分の勘所が大事だ。)

(それが、刑事の大切な武器なんだ。)

(これだけのネットワークを持ってきた人間が、一切、このネット社会に関与しなくなった、ということの方がおかしい。何故、それがわからない?)

(刑事の直感。)

(犯人や容疑者とのさまざまな邂逅の中で、身につくもの。)

(山田、お前はまだまだ刑事をわかっていない。だから教育の意味も含めて、説明をするから、ありがたくその話を聞くべきだ)

次々と自分の口先にはそれらの文言が集まっては消えていく。しかしながら、

「いま山田くんの言った通りだろうね。うん。」

銭谷警部補は心の中で考えていたことと、逆のことを言った。

「うん。今日はありがとう。まあ、ちょっと太刀川のことは、しばらく置いておこう。」

「その方が良いと思います。」

「うん。ありがとう。」

銭谷は、またいつもの、自分の思うことを喉で止める循環に入った。それは、ここ何年も続いている循環だった。

 ここで力むのは損だ。また若手が自分の下を離れたいと言い出すと、下がり切った自分の評価にも辛くなる。

(そもそも、自分の側を離れたいと言わないだけ、ありがたいじゃないか。) 

 そう、銭谷は自らに言い聞かせた。山田が部屋を出た後も、しばらく残ったまま呆然と椅子の背もたれに身を預けていた。

 窓からの夕陽は夜に変わっていた。



◆2 権藤新太 


 名前は、ごんどうあらた、と読みます。私は私立探偵をしています。インターネットの世界では、まあまあ有名だと思います。なぜなら輝かしい実績を持っているから。間抜けでアナログな官僚警察には負けません。権藤新太で検索すれば、SEOなどしなくても、立派な記事がたくさん出ております。もちろん顔写真をばら撒くようなリスクはとってはいません。本当に仕事が必要な人間がたどり着くのにちょうどいいくらいの情報を、開示させていただいています。

 この黄金律をわかっている人間は意外なほどに少ないと思うのは私だけでしょうか。人間は難しい生き物です。虚栄心や名誉欲が先に出てしまったりするのが常のように思います。そういう感覚は、しばしばこの総監視社会では損をいたします。オルテガのいう大衆の叛逆がこの構造には横たわるのです。顧客にとっても探偵が名前と顔を出しているのは迷惑なものでしょうし、本末転倒も良いところでございます。探偵が世に出ることなど到底無駄だとわかるところに、衆人様(世間様)の恐ろしい裁きが屹立するのでございます。

 私ごとながら、昨今は、優良な顧客が増えております。世の中の皆様におかれましては、秘密裏に調べたいこと、自分だけは知っておきたいことばかりが、それこそ無限に溢れております。そうして、時代は変わりました。ほとんどの情報は、この手のひらの画面の中に、集められてしまっているのですから(怜悧な苦笑)。実際の世の中に落ちている現実よりももしかすれば、このちっぽけな画面で辿り着く物事の方がよほど真実に近いとさえ感じる今日この頃であります。そうです。ほとんどの人間は目の前のことより、どこかに実際にあるかもしれない文字列と写真と動画の上映に必死なのでしょうから。住所は実際の住所よりも、IPアドレスのほうがもはや現実的なものになりつつあるでしょう。例のケルベロス*の如きが少しでも許されれば世の中の全てがどうなってしまうのか恐ろしきことです。もはや、家族などよりよほど、この画面があなたを認識して知悉している訳ですから、デジタル・トランス型の私立探偵が儲かるのは当然のことでございます。足で稼ぐとか、特殊な調査網を持っていたことが探偵の資産であった時代は遥か昔に去りました。必要なのはデジタルと言えば詮無い話でございますが、言うなれば、そのような波に弊所は便乗させていただきました。事務所と言っても私と、最近社員にした若者(御園生、といいます。みそのう、と読むのです。)が一人、あとは、フリーランスの方々で成り立っております、小さな所帯でございますが、そう、業績はまあまあ、で御座います。


 とある人間から、の依頼は、若干気が乗らなかったのです。

 しかしながら、私は、創業当初から「前金」の依頼は断らない主義にしています。前金は、経営にはシンプルな形を数々ご用意いただけます。支払いも単純で、帳簿も単純です。そして、何より断り辛かったのは、相場の五倍もの金額の、「前金」だったからなのです。

 風間と名乗る男は都内のタワーマンションの高層階に住んでおりました。若干気が乗らなかったと申しましたが、理由は一言では申し難いのです。第一印象はまず、姑息で神経質な感じと申し上げましょうか。手足に渡世人とは少し違う風情の、安易な刺青が見え隠れいたしました。会話をしている時には、視線が定まらないようで、時折、強い睨みをこちらに向けてくる、かと思えば、視線恐怖のような、意思疎通の合間に、絶妙に目を逸らし何かを隠そうとする態度が垣間見えます。精神的な安らぎのようなものを、元々持ち合わせていないまま、大人になったような、そして老いを覚えたような、そういう人物でございました。年の頃は、五十手前でしょうか。しかし、無理やりに日焼けした肌で、年齢不詳ともいえる不気味な笑みを持っていました。

「風間様、その脅迫のお手紙というのは見せてもらえないんですね」

「簡単には見せれないだろう」

「見せてもらわないと、作業進捗が遅延しますが。なにしろ、我々は何一つ材料をまだ頂戴していないままでして。」

「そんなことあるかい。俺は書いてある情報と同じ内容を説明している。要するに、誰かわからないそいつは、俺を殺すといってるのだ。この俺に、生きている価値がないから殺すと。怯えろと。その、そいつを、見つけてくれればいいんだ。」

神経質な言葉とも、虚言に慣れたともいえる、不思議な嘘吹きを感じる言葉使いです。この空気は最後まで、風間という男から変わることなく受け続いたものでした。

「私たちはスタッフも含めて、高度な守秘義務(NDA)を契約いたしております。依頼者のお名前はもちろん、どんな情報も許可なく世には出しません。もちろん、お借りした資料は大切に参考保管してお戻しいたします。なので、一つ一つの材料を正確にいただいた方が、確実に、進捗が、」

「と言ってもだな、無理なもんは、できん」

根っからの人間不信なのか、一事が万事こう始まるのでした。しかしその割に、同じ話題を続けていると、すぐに判断が変わりもするのです。実際のその渡せないとこだわった手紙も、この後の面会で、渡されたのですから。つまり、物事に徹底した判断をしていない種類の典型なのでしょう。こういう人間は、いとも簡単に前言を常々撤回する恐れがございますが故に、私は、仕事がしずらいだろうという直感があったのです。


◆3 太刀川


 太刀川と、呼ばれた男は、警視庁ビルを出て、霞ヶ関の駅の階段を降りていた。改札で財布を出し切符を買った。電子マネーではなく現金を使う。電子マネーやその類を、彼は持たなかった。

 丸の内線、千代田線、日比谷線が乗り入れする霞ヶ関は乗り換えも多い駅である。駅の改札は、無言の人たちが、列になっていた。幾層にも重なった地下まではあの赤い夕焼けは届かず、一日の仕事に憂いた多くの会社員は、誰も無口に歩みを続けていた。日比谷線のコンコースまで歩くと、太刀川は、殆ど誰も座らない、ホームの椅子に座って時計を見た。

 中目黒行きがすぐに滑り込んできたが、時計を少し確認した後も、椅子に腰掛けたままだった。ドアが閉まり彼を残して車両が去っても太刀川は変わらぬ姿勢で端坐していた。

 ふと、二十年以上前にここでサリン事件があったのだ、と思った。

 自分の今には関係もつながりもないと思うその事件でさえ、最近は、一つの繋がりがあるのだと思う。そのような形式の、物思いや、思考の時間が自分に増えている。

 ひとりだけで誰とも話さない時間が増えたせいか、過去の様々な出来事に思いを巡らせたり、なぜあの事件が起こったのか、というようなことを考えたりすることがある。宗教団体がどうとか、警察がどうとか言うことではなく、世の中がどういう順番で変化し、どういう物事が熱を帯びたりやがてまた熱を失ったりするのか。多くの事件の周辺にある世の中の加速度のようなものに思いを馳せることが増えた。霞ヶ関と言う駅を通過する、日比谷線、千代田線、丸の内線全てに、国家を転覆させる目的で猛毒を準備して同じ日本人を、無差別で殺そうとした。ビニールに猛毒の液体を入れただけの袋を持ち合わせた人間が人間を殺すために乗っていた。目の前の知りもしない、もしくは憎しむ気持ちもない相手の命を奪うために。

(そういえば、霞ヶ関に日本の警視庁や官公庁があるから狙ったのだったか。)

 太刀川は、そんなことも、今思い出した。

 なぜそうなったのか?その思考は意外と単純ではない。が、いま、全ての仕事も辞めて、人間関係も遮断し、SNSどころか電話さえ持たない自分自身には、誰とも繋がらずにそういう奥行き深い事象を思惟する時間ばかりが溢れていた。そうしてつまらないWEBに脳を奪われずに誰もいない思考の深海に降りいく気持ちは悪くなかった。

 ホームで、もう一度時計を見ると、太刀川は立ち上がり、次に来た中目黒行きに乗った。

 日比谷線の車内はいつも通りの混雑だった。たくさんの乗客は駅にいたのと同じく無言で、そのほとんどが、耳にイヤホンをし、手のひらの画面を見つめていた。8輌の日比谷線全部に、手のひらの画面にしがみ付いた人間が、全く同じように埋め尽くされている。

 太刀川は扉の近くに体を預けて、スマートフォンではなく、文庫の本をポケットから取り出して、目を落とした。

 そうして、それまでとは違う、別の表情で、あたりをほんの一瞬だけ見回した。

 万が一、銭谷警部補がこの時のこの男の表情を直視したら、若手刑事のつまらない反論を一蹴していたかもしれない。

 太刀川龍。

 三十三歳。

 東京大学工学部中退後、プログラマとして関わった事業を中心にライザー社を設立。当時最年少での東証一部上場を果たした。上場後は3年ほど社会を賑わせたが、その後全ての役職を、辞している。警視庁の調査であった通り、一切のアカウントは放棄されている。



◆4 風間正男


「コンクリートに詰めて殺す」

という手法まで具体的な手紙が、ようやく私権藤と風間の間のテーブルに置かれておりました。この手紙が風間のところに来たのは、最初に彼とお会いする一週間も前のことだったようです。殺人予告の手紙が殺人手法にまで触れることは珍しいものでございますが、風間という男は、一旦この手紙を私に見せたあたりから、彼自身の病的心理を隠すことさえやめたように思えました。心を開いたと言うよりも、見境がなくなったと言うようなことです。私への電話着信も、その後から、時間の配慮も一切なくなってまいりました。

 一応、前金の入金はネット銀行で確認が無事できましたため、私は形式的に調査の開始と人員のアサインをご用意を進めるべく、風間という人間のいくつかの会話を用意立てていきました。

「まずは、早速のご入金、確認いたしました。誠にありがとうございます。」

灰皿には山盛りの吸い殻が所狭しと刺さっておりました。風間はそれでも更に続け様にタバコを咥え込みながら、

「払うものは払う。で、権藤社長、どうするんだ。」

「ちなみに。風間様。あなたは殺される心当たりなどはありますでしょうか」

「男たるもの、いきてりゃあ、いろいろあるだろうよ」

「でもなんで、コンクリートでなのですかね。」

「生きてりゃ、色々あるってことだ」

 風間という人間は明らかに、通常の市民感覚とは離れていると言えるでしょう。そもそも、殺人を云々するこういう手紙がきたらまず、警察に行けばいいのですから。何も高い金を出して探偵を雇う必要など無いのです。逆に言えば、警察様には伺うことが出来ない、もしくは、警察を拒否したい何らかの理由があると言うことなのでしょう。一般市民には、想像しづらいことです。

 が、しかし、そうも単純ではございません。風間氏が一般市民ではないからと言って、いわゆる典型的な反社会組織に所属をする種類の人間かというと、わたくしの見立てではそれも違っているのです。実は、この直感も、私が仕事を選ぶ上で大切にしているものでございます。組織と組織の間に私立探偵風情が入り込むことは非常に非常に危険なことなのでございます。

 反社会の組織、はあくまで組織です。組織にはれっきとした人間関係や、信頼関係、そして、どの会社にもあるような序列の中で作られる決め事があります。約束や掟とも言えるでしょう。むしろ昨今の軽薄矮小な一般社会よりも余程それらの掟がしっかりしているだろう事は、想像されうることかと思われます。

 わたくしの見立てで恐縮ですが、彼、つまりいま、煙草の吸い殻の向こう側にふんぞり返るこの男は、組織という人間社会の中に所属できるような気が一切しないのです。人間の魅力というものがほとんどない、とも言えます。実は、犯罪を犯しても人間には逆説の色気の様な魅力が出ることがあります。いやむしろその艶こそが暴力団組織の真髄でしょう。善悪を超越して人間が人間に魅了されるが故に犯罪組織は生じていくものです。風間氏はーーー恥ずかしながら、非公式に自分が遭遇したことのある組織の方々とは、まるで違います。いや寧ろ全く逆の、非魅力が満載した種類のな人間でありました。仕事でもなければ到底関わり合いたくはない、ただただ憂鬱で陰惨な、犯罪人のくさく醜い臭いだけが、ぷうんと漂う存在でした。

「失礼ですがご職業はなにをされているのでしょうか。」

私は、そうは思いつつ、いつも手順にしている質疑を少しずつ試み始めました。

「それ、言わなきゃかならないか」

「いえ別に、無理にとは申し上げません。職業にも色々ございますから。」

「それでどうなんだ。」

「どう?と申しますと?」

「権藤、おまえは、犯人はいつ調べがつくのだ」

「なるほど。私がお聞きしているのは風間様のご職業でございますが」

「だから、俺の聞いてるのはどうなんだ。」

 自分勝手というものは、一事が万事この様な、会話になります。

 質問ひとつでこうなるのですから、仮に今後の調査が長引くことなどを想像すると、うんざりといたします。

 職業を聞きたかったから、職業を聞いた、のではございません。

 すぐに調べがつく彼の外面などは、社交辞令の会話のようなものでして、私が会話で聞き出したいのはつまり、検索では調べにくい、彼の内面に関する物事でございます。つまるところ、質問に込めたのは

「この男が自身の職業をどう捉えているか」

という、内面の自意識の精査ございました。人間は自分の職業をどう語るかで、その時の表情や手順で大凡のことが判ってしまうものです。悲しきかな、大企業の役員でも、自らを、肩書から名乗るものもあれば、職業の夢から語られる御仁もおります。人間の内面というのは奥深くもあれば浅はかでもあるものでございます。

 風間という男が、人に言えない仕事をしているということは明らかでした。人にも言いたくないことに、手を染めているのでしょう。いずれにせよ、彼がどういう人間で、彼の仕事の周辺で、どういう恨みを買っているのかを正確に把握していくことができれば、彼を憎む人間も正確に想定がなされ、物事は早めに進むというのが私の見立てでございます。

「そもそも、同業者同士のいざこざ、の場合は、私どもは、ご遠慮することにしています。」

「同業じゃない」

「組織の抗争ごとの間に探偵風情が内偵するなど、危険極まりないのは、ご理解いただけますでしょう。私が質問をさせていただいているのは、その点の対策もございます。」

「ないない。」

「こちらの脅迫状は、いわゆる仕事上でのトラブルなのでしょうか?それとも仕事の外のプライベートなものなのでしょうか」

「くりかえすが、同業者じゃない」

「そうですか」

「ああ。だから、仕事でもない筈だ。」

「つまり心当たりがあるのでしょうか」

「いや、ない。ただ、仕事ではないということだ。いまは、仕事では一切トラブルがないと言っていい。」

「それは、本当でしょうか。ご自分からは見えないところに深刻な揉め事の種はおおうございます。」

「トラブルを抱えたら、すぐ、その違う方面から、狙われる。その方の方達は、こんな手紙で予告などしない。そもそも、いま、そこまで稼いでいない自分に、命を云々する価値などない。」

「そうでございますか。しかし、このような脅迫に於きましては最も典型としてあるのが、契約や金銭などのトラブルそれも億単位の物事でございます。」

「ああ。そういうものがない。」

「しかし、ご自分でないと思われていても、相手の方がどう思うかというものも。」

「うるせえ。」

「うるせえ?」

会話を追いかけますと、大抵、このような癇癪がやってくる人間を私は、極力関わるまいとしております。最初に入った会社が随分と、昭和の奴隷主義のように若者を追い詰める会社だったため、怒鳴り声には非常に嫌悪がありまして、うるせえ、という声が響いたその一室では、その後、私が塞いだのもあり、沈黙がしばらく続きました。私はそのまま、返金をするから、この仕事を降りさせてほしいという言葉が喉まで来ておりました。

 そのとき、マンションの、呼び鈴がなりました。どうやら、宅配関係の出前会社のようでした。部屋中に響くインターホンでしたので、声は筒抜けでございます。

「Uberです」

「おお。じゃあ今日も、今の部屋番号の、玄関の前に置いておいてくれ。」

「了解しました。」

風間はソファに戻ると、最近はいつもこれだ、のびのび外で飯も食えやしないと愚痴るようにしながら、腹が空いては戦ができんが、部屋からも出れなくてはもっと戦もできんなどと、つまらぬ言葉を並べておりました。そうして私の方をじっと見つめて、

「さっさと、解決させてくれ。金は追加も考える。」

「追加。」

「ああ。困ってるんだ。」

話しながら彼は、宅配注文をした、画面を色々と指で弄りながら、あんたの分も頼んでおけばよかったなとかひとりごちておりました。

 その時、彼が堂々とアプリで買い物をしているのを見て、この仕事は、レイナさんに話をふればほとんど簡単に事件は解決するだろうと思ったせいで、この胸糞の悪い案件を深追いする遠因となったのは、反省すべきところでございます。探偵事務所の経営としては、やってはいけないことだったと思われます。

 風間は、複雑な過去を持った人間でした。

 それはインターネットなどがまだ出回る前の頃からのことで、事態は単純ではございませんでした。それを、早々に、レイナさんの天才的な能力に頼っておけばさっさと解決がする、前金で相場よりも高く追加もある、と、思い込んだのが、まだまだ私の未熟の致すところでございます。

 さっさと返金して、二度とあのような人間と会うべきではなかったのです。


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