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3A.M.  作者: 如月 望深
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new moon 03

 くらい。

 暗い闇は、自分が立っている場所が、下なのか上なのかさえわからなくなるほどだ。足を踏み出しても、自分が進んだのかどうか、わからない。

 そこへ、わずかな光が差し込む。頭上からひっそりと降りて来る光に目を凝らす。青白い、月の光だろうか。目を細めて見つめていると、私の足と同じ高さの辺りで光の中に影が動いた。

 影は、光の中から私のほうへ向かって来る。

「…誰?」

 頼りない足取りで近づいてくるのは、まだ5歳程度の小さな男の子だ。

「……ママ」

 その子は、私がまだ一度も呼ばれたことのない呼び方で、私を呼んだ。大きく無垢な瞳が私を見上げている。

「ぼくのなまえはね、」

 ──それは、その子が教えてくれた名前は、私が息子につける予定だった名前だ。

「……まさか…」

 そんなことは……。でも、もしかしたら───

 じっと男の子を見つめると、男の子は私を見つめ返してきた。その大きな瞳は、夫のものとよく似ている。鼻も夫に似ているだろうか。口は、私に似ている気がする。眉は私の父にそっくりだ。

「…ほんとう、なの?」

「ほんとだよ」

 男の子は無垢な表情で答える。

 この子が、もしかしたら私が腕に抱いていたかもしれない、あの子…。ちゃんと生まれて、大きくなったら、こんなに可愛い子になっていたのだろうか。

 恐る恐る手を伸ばして、息子の頬に触れる。ちゃんと指先には柔らかな感触があった。嬉しそうに目を細める息子を、思わずぎゅうと抱き締めた。

「……ごめんね。ちゃんと産んであげられなくて」

 涙が出そうになった。この子には、謝っても謝りきれない。この世に生れてくれば、明るかったはずの未来を、私が奪ってしまったのだ。私が頼りないばかりに…。

 不意に、何かが髪に触れた。それが、小さな手が私の頭を撫でているのだと気付くまでに少し時間がかかった。

「あやまらなくて、いいよ、ママ」

 顔をあげて息子を見やれば、まるで天使のように微笑んでいる。

「ぼくこそ、ちゃんと産まれてあげられなくて、ごめんね」

 ぶんぶんと首を左右に振ってその言葉を否定する。この子が謝る必要なんてないのだ。

「ぼく、ママにあえるのを、たのしみにしていたんだ」

「私もよ」

「だから、こうしてあえて、うれしいよ」

「そうね」

 もう一度、ぎゅっと息子を抱き締める。

「だから、ママ、もう、じぶんをせめないで」

 まるで大人みたいなことを言う。息子が今の見た目どおり5歳になっていたとしても、こんなことを言うだろうか。やはり、自分に都合のいい夢でも見ているのだろうか。

「ママをかなしませて、ごめんね」

「ううん、謝らなくていいのよ」

 この子がそうしてくれたように、私も息子の髪を撫でる。

「でもママ、わすれないで」

 私の胸から顔をあげた息子が、二コリと微笑む。

「ママといっしょにいたじかんは、しあわせだったよ」

「私もよ」

 この子を失って、悲しくて悲しくて、そればかりで忘れていたけれど、この子が私に与えてくれた幸せな時間は、消えるわけじゃない。

 幸せだった分、失った悲しみは大きいけれど、この子と過ごした時間は確かにあって、それは今、私が生きていく支えになるはずだ。

 涙でゆがんだ視界に映る息子の笑顔は、天使のように見えて、けれど涙でそれが揺れて、うまく見えなくなっていった。



 目を開けた時、辺りは暗く、静まり返っていた。カウンターに突っ伏していた私は顔を上げ、辺りを見回した。鮮やかな光が走り、賑やかだったフロアーには、もう光はなく、誰の影も見えなかった。

 カウンターにも、もう私以外の客の姿は見えない。

「起きましたか?」

 カウンターの中で片づけをしていたらしいリヒトに声を掛けられて、そちらへ目を向けた。

 相変わらず、リヒトは月の女神のように微笑んでいた。

「……夢を、見ていたの。息子が私に会いに来てくれたわ」

 たとえそれが一炊の夢だったとしても、彼が私を許し、私といた時間を幸せだったと言ってくれたことは、私を救ってくれた。

「そうですか」

 リヒトはそれだけ言って、私に水の入ったグラスを差し出した。カクテルはすでに片づけられているようだ。

 もらったお水を飲んで、息を吐き出した。

 周りに他のお客さんの姿が見えないとなると、ずいぶん遅い時間になっているのだろう。いくら友達と飲んでくるとはいえ、あまり遅くなれば夫も心配するだろう。

「今頃、ご主人は青ざめてあなたを捜し回っているかもしれませんね」

 私の心を読んだかのように、リヒトは言った。そんなことを言われれば、のんびりなどしていられなくて、「帰るわ」と慌ててスツールを降りた。

「あんまり慌てると、危ないぞ」

「気をつけて帰ってね」

 いつの間にか近くに来ていた二人の店員が笑っていた。確か、背の高いほうがカザキで、若いほうの子がハトリだと、他のお客さんが言っていた。

「またのお越しを、お待ちしております」

 カウンターの中から、リヒトが優美に微笑んだ。

「…たぶん、しばらくは来ないわ」

 私の言葉に、それでいい、とでも言うように、リヒトは頷いた。


 店のドアを開け、外へ出る。幸い、空はまだ暗かった。

 よく目をこらすと、暗い空にはポツリポツリと星が見えた。夜空には雲が掛かっていて、雲の部分は白っぽく明るくなっていた。地上の光を写すのか、それとも空の光が雲に反射するのか。

 晴れた夜空のほうが暗いのだと気がついた。

 空を覆う雲は、月を隠すこともあるけれど、代わりに、光を拾って空に明るさをもたらす。不思議だ。

 そんなことを思いながら、私は歩き出した。






 暗くなった店内にモップを掛けながら、風生と羽鳥は、理人の様子を伺った。まさか理人が、あんな風に自分の過去を他人に話すとは思っていなかったからだ。

 もしかしたら、自分たちが過去を知ってしまった分、少しは理人の重荷は軽くなったのかもしれない。そうであって欲しいと、風生と羽鳥は思う。

「それにしても、珍しいよな、リヒトが閉店時間を早めてまで、一人の客の相手をするなんて」

 羽鳥の言葉に風生も同調して理人の返事を待った。普段は、相手がどんなに自分に執着しても淡白な理人が、今日はずいぶんとあの客を気に掛けていたようだった。もちろん、あんな話を聞けば、その理由はわかる気がしたが。

「彼女に掛けた『魔法』がね、少し骨の折れるものだったので、他のお客さんの相手まではできなくなってしまったんですよ」

「──大丈夫か、リヒト?」

 風生の気遣いに、理人は微笑して応えた。

「大丈夫ですよ」

 その答えが、風生の言葉の表面だけを受け取ったものなのか、リヒトの心を心配するものに対するものなのか、風生にはわからなかった。

 黒いドアの外では、雲からわずかに顔を出した月が辺りを白く照らしていた。

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