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3A.M.  作者: 如月 望深
96/106

new moon 01

 神様、どうして、

 どうして私から彼を奪ったのですか?


 どうして

 私は許されないのでしょうか?



 こんな夜遅くまで出歩いたのは久しぶりだった。最近は、あまり遠出することもなくなっていたから、こういう雰囲気には慣れていなかった。

 だけど、今日くらいは、何もかもを忘れて、この夜の世界に飲み込まれてしまいたかった。

 賑やかな夜の街は、目に毒とさえ思えるけばけばしい色のネオンで彩られていた。街は夜だというのにどこも明るくて、空に月があるのかさえもわからない。もちろん星など見えるわけもない。

 あまりガラがいいとは思えない客引きの男たち。通り過ぎる男に声を掛ける女たち。すべてが苦々しく、すべてが鬱陶しく、そしてすべてが憎かった。

 どいつもこいつも浮かれて!と怒鳴りつけてやりたくなるのに、こんなところでなければ逃げ込む場所もないのだと思うと、自分自身に憤りを感じた。

 だけれども、自分を見る憐みを含んだ周りの人の目に耐え切れず、自分のことなど誰も知らず気にもかけない場所へ行ってしまいたかった。

 心配する友達を誘って無理やり飲みに行ったものの、やはり彼女たちの目には同情の色が濃く映って、それに嫌気がさして早々に解散した。早く家に帰ったほうがいいと体を心配する友達に頷いて、けれど家に帰る気など起きなくて、家に帰るふりをして乗り込んだ電車を途中で降りた。

 その駅が繁華街へ続く道にあると知っていたので、昔は友達と何度か来たその繁華街へ足を進めた。夜の街は、昔と変わらずに多くの人で賑わい、当時は自分もそれに同化できたのに、今は彼らが憎らしくて仕方がない。

 彼らが溺れているのは、酒になのか、この街になのか。

 どちらにしても、私の神経を逆なでする程度には煩く、その脳天気な様子が癇に障った。それなのに、私の足は踵を返して駅に向かうこともできない。このまま、この街のどこかで消えてしまっても構わないと思った。

 しつこく声を掛けて来る客引きの男を無視して歩き続けていると、ふと、明るい繁華街から少し脇に入った路地に灯りが点っているのが見えた。そちらに足を向け、暗い路地に入ると、明るい所にしか留まれないかのように客引きの男は諦めて戻って行った。

 私は、地面の下から光が差すようなその灯りに近づいて行った。道路から地下へ伸びる階段が続き、その先にはぽっかりと暗闇が口を開けている。階段を降りてみると、その暗闇に見えたのは黒いドアだった。ドアには店名のようなものはないけれど、掛かったプレートに「OPEN」の文字があるから何かの店なのだろう。そっと引くと、暗い店内から音楽が聞こえた。

「いらっしゃいませ」

 店に足を踏み入れたとたん、両方向から声を掛けられた。右から来た長身の店員は、私の正面にあるカウンターへ向かい、左から来た少年のような店員は、そのカウンターから受け取ったトレーを持って私の右手方向にあるフロアーへ歩いているところだった。

 フロアーは色とりどりの光が瞬き、多くの人で賑わっていて、ともすれば煩い感じなのに、その脇にあるカウンターは落ち着いた雰囲気だった。

 カウンターではスツールに並んだ客がお酒を楽しんでいるようだった。

「ようこそ、いらっしゃいませ」

 空いているスツールに座ると、カウンターの中のバーテンダーが微笑みかけた。

「テキーラ」

 無愛想に注文すると、バーテンダーは「かしこまりました」と愛想よく受けた。そして程なくして、私の前にグラスを差し出す。

「どうぞ」

 コースターの上にグラスを置いたその手の先を見やれば、その辺の俳優なんかよりもずっと綺麗な顔が微笑んだ。普段なら、その綺麗な顔を見てうっとりくらいできたかもしれない。けれど、何だか、その余裕の表情が、今は無性にムカついた。

「ねえ、リヒト。あの話、考えてくれた?」

 横からバーテンダーを呼ぶ声がした。私とは違い、ちゃんと彼にうっとりできる心境らしい女性客だ。リヒトは呼ばれたほうに顔を向けた。

「何でしたっけ?」

「デートしようって話よ」

「ああ、考えておきますよ」

 甘えたように言う女性客に、リヒトはにこやかな笑顔で心にもなさそうなことを言う。

 そういう会話に、単に近くの席だというだけで付き合わされることに、何となくイラッとして、一気にテキーラをあおり、「おかわり!」とグラスを突き出す。リヒトはそれを受け取り、新たなグラスを置いた。

 時々お酒の種類を変えながら、何度かそんなことを繰り返していると、次第に酔いが回ってきて、カウンターにもたれかかってお酒を飲んでいた。

「おかわり!」

 それでもまだ酔い潰れてしまえそうにはなくて、空になったグラスを勢いよくカウンターに置いた。そのグラスを下げたリヒトが、新たなグラスを出したのだけど、それは私の注文とは違っていて、じろりとリヒトを睨んだ。

「あまり飲みすぎると、体に障りますよ。これはサービスですから、どうぞ」

 すっとコースターごと私に差し出してリヒトは勧めた。ホットカクテル用のグラスには淡い黄緑色の液体が入っていて、小さく湯気が揺れている。

「なに、これ?」

「レモンバームのホットカクテルです。アルコール0%ですけど」

 つまりは、ノンアルコール。でもまあ、サービスだというのだからと口をつけた。ハーブティーのような香りが鼻を抜ける。はちみつのほんのりとした甘みのある温かな飲み物は、すんなりと喉を通っていった。

「…おいしい」

 意外にも、素直な感想が口からこぼれた。ほわりと温かなカクテルに、気温とは関係なしに芯まで冷え切っていた体がほぐれていくようだ。

 ほう、と息を吐き出した私に、リヒトは柔らかな笑みを向けた。

「レモンバームの別名は、メリッサ。“ゼウスの母乳”とも言われています」

「ゼウスの母乳?」

「神話ですけどね、生まれたばかりの大神ゼウスのために、女神たちがメリッサのはちみつを集めて母乳代わりに飲ませたそうです」

「へえ…」

「人間の乳幼児にはちみつは毒ですけどね」

 知っている。はちみつにはボツリヌス菌が含まれていることがあり、大人なら問題ないけど、一歳未満の乳児は腸内環境が未発達だからボツリヌス菌が増殖して乳児ボツリヌス症になることがあるのだ。だから、はちみつには一歳未満の乳児には与えないように注意書きがある。ちゃんと、勉強したから知っている。

 どうしてこの人は、そんな話題を持ち出すのだろうと思った。

 ヤバい、カクテルで温まって緩んだ体は、感情も緩ませる。押さえていた涙が、コントロールできなくなってポロリと零れた。一度制御を失ってしまえば、人の感情などもろいものだ。後から後から涙があふれてくる。

「大丈夫ですか?」

 穏やかな声で、リヒトが尋ねる。

「大丈夫なわけないでしょ、バカッ!」

 勝手な八つ当たりだとは自覚しつつも、リヒトを責めたい気持ちを隠さなかった。この人は、私に涙を流させるために、わざとこんな風にするのではないかと思えた。



 ああ、神様、どうして私は、あの子に母乳を与えることもできなかったのでしょうか?


 どうして、あの子をこの腕に抱くこともできなかったのでしょうか?


 どうして、私が母になることを、許してくれなかったのですか?

2010年初出。

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