shoelaces 02
教師になりたての頃は、俺だって熱意に満ちていた。なんなら金八みたいになれるものだと思っていた。だけど、現実は違うということを、間もなく知ることになる。だからといって、俺は絶望するようなことはなかった。金八のような教師ばかりでは暑苦しいし、俺がそうなる必要もないと悟った。もともとそこを目指していたわけではないし。
第一、誰も俺を責めはしない。責められるようなことはしていないからだ。教師としての仕事はきちんとしている。
ただ、思い描いていたルートとは少し違う場所にいるというだけだ。でもそれだって、誰も知るわけじゃない。
ふと、あの青年に会いに行こうと思った。よく考えたら、助けてもらって手当までしてもらったのに、あの時は俺も動揺していたせいか、きちんとお礼をした記憶がない。
菓子折りでも持っていこうかと考えたが、何を渡すべきか思いつかなかったので、結局何も持っていかなかった。
店の場所は意外にもきちんと覚えていた。繁華街の路地脇のわかりにくい場所なのだが、そこにいけば、階段の下の黒いドアが、ひっそりとしながらも存在感たっぷりに佇んでいた。
先日はここを通り過ぎて裏口から入れてもらったが、今日は階段を降りて店のドアから中へ入った。暗い店内には人々のざわめきと、時折光る照明に映し出される人影が多くあった。
ドアを入って三段の短い階段を降りると、正面にバーカウンターが見えた。L字型のカウンターの中には美形のバーテンダーがおり、カウンターに座る客の相手をしていた。カウンターに向かって右手側にはフロアーが広がっていた。若者たちがひしめくフロアーの奥にはステージらしきものが見える。今日は何もやっていないようだ。
フロアーには、たくさんのグラスの載ったトレーを持って歩く店員が見えた。まだ若い、高校生くらいの少年だ。
その少年の消えた先から、もう一人店員がやってくるのが見えた。背の高いその男は、先日俺を助けてくれた青年だった。
「ああ、先生。もう大丈夫?」
俺に気づいた青年は声を掛けた。俺のことを先生と呼ぶのは、俺の他の呼び名を知らないからだろう。
「ああ、もう平気だよ。この前はありがとう。お陰で助かったよ」
俺も青年の名を知らなかった。
改めて先日の礼を述べると、ご丁寧にどうも、と青年は微笑んだ。
「カザキ!」
客の一人が青年を呼び、青年は振り向いてすぐに行くと合図をした。
「じゃあ先生、ごゆっくり」
軽く手を上げてフロアーの客のほうへ歩いていく彼の背を少し見送り、それから俺はカウンターへと向かった。フロアーの年齢層は明らかに俺よりも十くらい下のような気がしたので、比較的年齢層の高いカウンターにした。
すぐに帰っても良かったのだが、何となく、こういう場所にいるのも悪くないともう少し留まることにした。ごゆっくりと言われたことだし。
カウンターに座ってシャンディ・ガフを注文する。かしこまりました、と綺麗な顔でバーテンダーが頷いた。間もなく目の前にグラスが置かれて、ビールとジンジャーエールのカクテルを勢いよく飲んだ。炭酸ののど越しが爽快だ。
「リヒト、お勧めのカクテルは?」
「そうですね、この時期ですから、苺を使ったものはいかがですか」
一つ席を空けた隣の席に座った女がバーテンダーに声を掛けた。リヒトはお勧めのカクテルについて説明する。それを聞きながら彼女はメモを取っていた。ずいぶん熱心にカクテルのことを聞いているんだな、と思っていたら、今度は店のことに話を移した。いつからあるのか、とか、営業時間や定休日、店員の名前と年齢までもだ。
リヒトはそれにあまり熱心に答える気はないようで、気がついたら結構昔からあるとか、日が暮れたら営業開始だとか、不定休だとかと答えた。店員の名は、自分がリヒト、年少がハトリ、背の高いのがカザキだと答えたが、年齢については答えなかった。
俺を助けてくれたのは、カザキだな。とフロアーのほうに目を遣ると、カザキがこちらを見遣って目が合った。軽く口の端を釣り上げてカザキが背を向けたので、俺も視線をカウンターへ戻した。
「ねえ、リヒト、いいかげん承諾してくれない?」
「そのお話でしたら、以前にお断りしたはずですよ」
言い募る女性にリヒトは穏やかに拒否の意を示した。
「どうしてよ。いいでしょ、雑誌に載せるくらい。店の宣伝にだってなるんだから」
女は簡単には引き下がらない。二人のやり取りから察するに、以前から女性が口説いているのに一向に首を縦に振らないといったところか。
「この店に、宣伝は必要ありません」
なおも穏やかにリヒトは拒む。
「この店は、必要な時に、必要な人へ扉を開きます。客を選ぶんです」
だから雑誌などに載って万人に来られては困る、と言いたいようだ。一貫して拒否を示すリヒトに、溜息をついて女性は天井を仰いだ。
「頑固ね」
「あなたも、諦めが悪いですね」
「粘り強いと言って。それが私の長所でもあるの」
リヒトはそれを否定することはなく、微笑を見せた。
二人のやり取りに気を引かれていたのと、女性の顔に見覚えがあるような気がして、俺は無意識にじっと女性を見ていた。それに気づいて女がこちらを向いた。
「……フジケン?」
俺の顔を見て考え込んだような表情をしていた女が、やがて口を開いた。彼女が口にしたのは、俺の学生時代のあだ名だ。不二 健太郎を略してフジケン。中学の時によく呼ばれた名だ。
「柴田…」
目の前の女の姿が、俺の記憶にある同級生と一致した。柴田 歩美。中二の時のクラスメイトで、中三の時は体育祭実行委員で一緒だった。運動部の新旧部長から組織される体育祭実行委員会で、彼女は実行委員長だった。そして俺が副委員長だった。
「何してんの、こんなとこで?」
「何って、息抜き。お前は…取材?」
「そ。でも断られたけどね」
ちらりとリヒトを見やる彼女に、リヒトは微笑を返した。
「雑誌の編集者ってこと?」
「うーん。正確に言うと、ちょっと違う。ライター兼編集」
小さい会社だから一人で何役もこなさなければならないのだと楽しそうに笑った。その笑顔は、彼女が仕事に心底やりがいを感じているのだと雄弁に語っていた。
昔からそうだ。彼女は、大変な仕事も大変さなど微塵も見せないで、むしろ楽しそうに取り組んでいた。そんな姿に周りは圧倒されて、巻き込まれていくのだ。
「フジケンは? 何してるの、仕事?」
「中学校教諭」
「へえ…。意外な気もするけど、案外似合ってるかもね」
うん、うんと頷いて、彼女は勝手に納得しているようだった。
それから、昔話に花が咲いて、懐かしさも手伝って大いに盛り上がった。携帯番号とメアドを交換し、時々連絡し合おうと約束して彼女は店を出た。
俺は、もう少しこの店でゆっくりしていこうと残った。
盛り上がった後は少し寂しささえ残して、俺は一人酒を飲んでいた。というのも、心に引っかかりがあるからだ。彼女に会って、それはなおも増した。
今の俺を、あの時の俺はどう見るのだろう?
俺が教師になろうと決めたのは、実は柴田がきっかけだった。
柴田とは、ケンカ友達のような関係で、お互い顔を合わせれば「チビ」「デブ」「うるさい」「ブス」などと言い合いをしていた。それは中三になって体育祭実行委員になった時も同じで、委員長の柴田と副委員長の俺は事あるごとに衝突してケンカばかりしていた。
だけど、体育祭が終わって、俺がある種の達成感を噛みしめて一人残った教室でグランドを眺めていると、突然柴田がやってきて俺に言った。
「フジケン、ありがとう」
唐突な言葉に首を傾げる俺に、柴田は続けた。
「何だかんだ言って、フジケン一番働いてくれたでしょ。だから、私も委員長が務まったと思うし。だから、ありがと」
それだけ言うと、柴田は怒ったような顔をして去って行った。今思えば、きっと照れていたのだろう。
俺は、暫く柴田の言葉に茫然としていた。思いがけないことを言われた衝撃と、感動が俺の心に吹き込んでいた。いつもケンカばかりしていたのに、柴田は俺の頑張りを認めて礼を言ってくれたのだ。
こんな風に自分を認められる喜びを、俺も人に与えたい。そして彼女のように人を素直に認められる人になりたい。俺みたいに、こういう嬉しい経験をする中学生を増やせたら。そう思って俺は教師になろうと決めた。
憧れの先生がいたとか、テレビやマンガのヒーローのような教師に憧れたのではなく、彼女の言葉が、俺を教師の道へと歩かせた。
その柴田と会って、今も昔と変わらずにバイタリティーあふれる様子を見て、今の俺はどうなんだと疑問に思った。
生徒とそこそこに付き合い、保護者たちの顔色を気にして、教師仲間に無条件に同調して。それは、上手くやれていることだと思っていた。
だけど、あの日青い俺が目指したものとは、違う。
そのことを知るのは、俺ただ一人だけど。誰も、俺を責めたりはしないけれど。




