未明 03-3
咲耶と結婚し、何度目かの桜の季節を迎えたころ、理人は順調に出世を重ねて月瀬中将と呼ばれるようになっていた。
婚家の絶大な後ろ盾と自らの才覚で帝の覚えもめでたき理人は、帝のお召しで内裏へ上がることも多かった。内裏の女房たちの間では、光源氏君もかくあるかと「光月瀬君」と呼ばれていた。冴え輝く月の光のように美しいという意味らしい。
その美貌ゆえに浮名が立つことは度々あったが、一夫多妻の例に倣い多くの公達は何人かの妻を娶るのが一般的な中で、理人はそれをしなかった。
望めばできる身ではあったが、左大臣家はいい顔をしないだろう。理人が自分より身分ある妻を差し置いて他に妻を得るなど、左大臣家のプライドが許さないだろう。
「今度の除目でまた位階が上がるようね、理人」
「義姉上もお耳が早い」
おそらく夫の道綱から聞いたのであろう。
「義姉上、ね」
彰子が御簾越しに溜息をついた。
「今の出世がわたくしのお陰だってこと、お忘れでないわよね」
「もちろんです、彰子様」
右大臣家の彰子のもとには、今でも笛の指南役として通っていた。彰子は義兄の北の方だ。今となっては表立って訪れても疑われない。
「理人、今夜は…」
扇で御簾を持ち上げようとする彰子を理人は制した。
「今宵は道綱様がいらっしゃるでしょう」
共に行動することの多い義兄のことなど、理人はお見通しだった。何人かいる道綱の妻のうち、どの妻にいつ通うか行動パターンが読めるのである。
程なく、女房が道綱の来訪を告げた。
「理人殿も来ていたのか」
現れた道綱を理人は微笑して迎えた。彰子の笛を指南していることは道綱も知るところだ。同じ邸を訪れるのに一度も会わぬのでは不自然なので、時折は道綱の来訪に合わせて彰子を訪ねている。
「これより左大臣邸に参るところです。私も愛しい妻の顔が見たくなりましたのでね。では、御前、失礼いたします」
帰りを惜しむ右大臣邸の女房たちに微笑を振りまいて理人は邸を後にした。
そして、道綱に言ったとおり左大臣邸を訪れた。
「お帰りなさいませ、理人様。咲耶様がお待ちですわ」
いつも通りに月島が出迎えた。そして咲耶の部屋に着くと待ちかねたように咲耶が御簾から出てきた。
「理人様、お待ち申し上げておりましたわ。外は雨でしょう、お寒くはない?」
座った理人の前に咲耶も座り、心配そうに理人を見上げた。
「少し冷えてしまいました。温めてくださいますか、姫」
理人が腕を広げると、ためらうことなく咲耶は理人に体を預けた。いつまでも変わらずに愛らしい咲耶を抱き締める。
宮中では権謀術数にまみれ、宮廷仲間にはやっかまれることもあり、婚家には気を使う。そんな理人にとって、咲耶は心休まる場所だった。高貴な姫でありながら、彰子のように気位の高いところがない。一心に自分を慕ってくれる彼女の心に応えたいと思った。
「今日は、理人様に嬉しい御報告がありますのよ」
少し体を離した咲耶が顔をほころばせた。「何です?」と問うと、頬を赤らめて答えた。
「わたくし、おややを授かりましたの」
その言葉の意味を理解するのに一瞬かかってから、理人は大切そうにお腹に手を当てる咲耶を見つめた。
「そうですか、子が…」
思わず理人は咲耶を抱きしめた。
「あなたは、どれほど私に幸せをくださるのでしょう」
咲耶の両頬を両手で包み微笑む理人に、咲耶は桜色の頬を寄せて微笑みを返した。
咲耶が懐妊したというニュースはあっという間に都中に広まった。左大臣が触れて回ったため宮中でも皆が知るところとなり、今上からも祝いの言葉があった。
彰子からも道綱の北の方として理人と咲耶に祝いの文が届いた。そして、是非お会いしてお祝いなりと申し上げたいという彰子に応えて理人は彰子のもとを訪ねた。
「この度は、咲耶様のご懐妊おめでとうございます」
「ありがとうございます、義姉上」
「これで、あなたの婿君としての立場も盤石というわけね」
理人は彰子の厭味に微笑を返すだけだった。それは肯定の意でもあり、取り合う気がないという意思表示でもあった。
「義姉上には、心より感謝申し上げます。私がこのような幸福を賜ったのは、ひとえに義姉上のご助力があったからこそ」
晴れ晴れとした微笑で理人は続けた。
「その義姉上にこのようなことを申し上げるのは心苦しいのですが、私も父親となる身。妻を慈しみ大切にしたいのです。ゆえに、こちらにお伺いするのは控えたく存じます」
つまりそれは、彰子との関係を清算したいという意味だった。
「だめよ、そんなの。許さないわ」
彰子は御簾越しに理人を睨んだ。
「義兄上には、こちらに繁くお通いになるよう申し上げておきましょう」
もともと彰子が理人に興味を示したのは、道綱が他の姫に通う寂しさを紛らわすためだった。彰子と道綱の間には若君が一人いるが、それ以来子をなしてはいない。
理人としては、彼女の不満のはけ口になることは、もはや得策ではなかった。そして、これ以上自分に執着されては利用価値もない。道綱との仲がこじれては困るのだ。
美しい微笑を閃かせて帰って行く理人の背中を、彰子は震えるほど強く扇を握りしめながら見つめていた。
暫くして、彰子が義姉として懐妊の祝いの品を持って咲耶を訪れた。彰子は様々な贈り物をした。咲耶のための衣や子の産着用の布、そして健やかな子が生まれるという唐渡りの薬などなど。
「わたくしも義姉として、咲耶様に子を持つ母の心得なりと申し上げたいと」
「まあ、ありがとうございます、彰子様」
理人との子を得たことで美しさに一層磨きがかかり、幸せそうな咲耶は、素直に義姉の好意を受け取った。
宮中でと宿居をしていた理人に、月島から急ぎの文が来たのは、それから暫くののちだった。急ぎ左大臣邸にお帰りになりますよう、と書かれた文に妙な胸騒ぎを覚えて理人は仕事を他の者に任せて左大臣邸に戻った。
「理人殿、わしはもう、どうしてよいのやら…」
「ああ、理人様、このようなことが起こるなんて…」
取り乱したように左大臣とその北の方が理人を迎え入れた。
「何があったのです?」
問う理人に、取り乱すあまり答えられない左大臣たちに代わって月島が答えた。
「僭越ながら、わたくしが申し上げます。咲耶様の御子がお流れになられたのです」
つまりそれは、流産したということだ。理人は血の気が引くのがわかった。
理人はすぐに咲耶のもとへ向かった。咲耶は子が生まれることを心待ちにしていた。きっと気落ちしているだろう。
「理人様…」
部屋で伏せっていた咲耶は、理人が到着すると頭を上げた。だがその顔は青ざめて憔悴している。
「咲耶…」
理人が抱き寄せると、咲耶は泣き出した。
「申し訳ありません、理人様…わたくし、理人様の御子をお守りできず…」
「何を謝ることがあるのです。お辛かったでしょう」
泣きながら何度も謝る咲耶の頭を撫でて、理人は何度も言い聞かせた。
「あなたが謝ることはないのです。あなたが無事でよかった」
子を失った咲耶は気力を失い、その美しい顔は見る見る憔悴していった。体が回復しても咲耶は伏せったままで、左大臣たちの心配もつのるばかりだった。
理人も献身的に咲耶の看病をしたが、一向に回復の気配は見られなかった。
「咲耶様は、どなたよりも御子がお生まれになるのを心待ちにされておりましたから、落胆も大きいのでしょう」
と、咲耶付きの女房の月島は溜息をついた。
「原因は、わからないのですか?」
「ええ。あの日は、彰子様から頂いたお薬をお飲みになった後、眩暈がするとおっしゃって体調を崩されて。お医師は理由がわからぬと申して…」
「彰子様から頂いた薬?」
理人は一瞬険しい表情をしたかと思うと、硬い声で命じた。
「月島、すぐに車の用意をしてください」
どちらへ?とは、月島は訊かなかった。かしこまりました、と答えてすぐに牛車を用意した。
理人が急ぎ参ったのは、右大臣邸だった。急な来訪に右大臣邸の女房たちは驚いたようだが、彰子は理人が来ることがわかっていたかのように落ち着いていた。
「どうなさったの、月瀬中将様」
「私が参った理由を、彰子様はご存じでしょう」
昂る感情を抑えるように低い声で理人は言った。
「あなたが咲耶にくださったという薬。何を入れたのです?」
「存じませんわ。唐渡りの良い薬と聞いたから差し上げたのです」
あくまで彰子は知らぬふりを通すつもりらしかったが、理人はそれを無視した。
「私が憎いのなら、私に刃を向ければ良いのです。それなのに、なぜ、妻や子に害を及ぼすのですか?」
「…随分と、咲耶様を大切にしておいでのようね、理人」
「むろん、彼女を愛していますから」
理人の強い視線に彰子は押し黙った。
「あなたとは、もう少し上手くやれると思っていたのに、残念です、義姉上」
その声は冷たく、凍てつく冬の清水のようだった。決別を告げる理人の表情は怒気を含んで、その冷たく燃える炎は、彼の美しさを一層際立たせていた。
咲耶も落ち着き、部屋の中を少しは歩けるようになった頃、またしても月島から急ぎの文が来た。理人が宮廷から戻ると、月島が慌てたようにやってきた。
「彰子様から咲耶様にお文が届いたのですわ。それで、咲耶様はすべてお知りになってしまったのです。理人様と彰子様のことを…」
その文は、理人と彰子の仲を暴露するものだった。理人は彰子の行動に驚いた。彰子とて自分との事が知れれば道綱の北の方としての立場がない。咲耶と子のことで責めたがゆえに、彼女はこんな暴挙に出たのだろうか。
咲耶は怒っているだろうか、それとも悲しんでいるだろうか。ただでさえ子を失って気落ちしている彼女を辛い目に遭わせてしまうことが不憫だった。
ところが、部屋を訪れた理人を迎え入れた咲耶は、思いのほか落ち着いていた。
「お帰りなさいませ、理人様。お酒を用意させましたのよ」
どうぞ、と理人を座らせて酒を勧める。咲耶の予想外の行動に落ち着かないながらも、理人は彼女に従ってお酌をされた。
いくらか酒を飲んだところで、理人は異変に気づいた。普段、理人は酒に酔うことはない。ところが、今日に限って体が重く、先ほどから盃を持つ手がおぼつかない。盃を置いて、細かく震える自分の手に違和感を持って見つめた。
「どうして、わたくしだけのものになってくださらなかったのですか?」
見やると咲耶が小さく笑っている。すぐに彼女が酒に薬を盛ったのだとわかった。理人を見つめる咲耶の眼は熱に浮かされているようにも見えた。咲耶は、小さな入れ物の中身を口に含み、それを理人に口移しで飲ませた。
胸が苦しくなり、呼吸が困難になる。これこそが命を奪う毒だと悟った。
「ああ、これでやっと、あなたはわたくしのものになる」
理人の頬に触れ、咲耶はうっとりと呟いた。彼女の息も乱れてきている。
「…理人…愛してるわ…」
「…咲耶、あなたは勘違いしている。私はもうずっと、あなたのものなのに」
理人は咲耶の頬に触れ、彼女の涙を拭った。ああ、自分が彼女をこんな風に狂わせてしまったのだ。薄れゆく息と意識の中で、理人は愛する者を狂わせてしまった己を呪った。
ふと、理人は目を開け、体を起こした。腹部にかかる重みに気がつくと、自分の腕の中で安らかに咲耶が永遠の眠りについていた。
訳がわからなかった。自分は、咲耶とともに彼女の手に掛かり命を失ったのではないのか。
「咲耶の命を喰らって、あなただけが生まれ変わったのよ」
不意に月島の声がした。簀縁に立つ月島の背後では、月が青白い光を放っていた。
──ああ、自分は、愛する者の魂を喰らって、鬼になったのだ。
頭中将は役職名ですが、月瀬中将は通称名のようなものです。月瀬君が中将の役職に就いているからそう呼ばれているというイメージです。実際そのような呼ばれ方をされたかどうかは知りません。作中の官位は雰囲気でお読みください。




