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3A.M.  作者: 如月 望深
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未明 03-1

 ふと、隣にあったぬくもりが消えたことに気づいて女は目を開けた。薄明かりの中で衣服を整える男の背中が見えた。

 その背中が、決して自分のものにはならないと女は悟っていた。自分には夫がいる。そして男には自分以外にも女がいる。気まぐれに差し込む月の光のようなこの男は、ふらりとやってきてはふらりと帰って行くのだ。

「ねえ、理人」

 名を呼ぶと、男の視線が少しだけ自分に向けられた。

「兄様に紹介してあげましょうか」

 男は何も言わずに微笑した。それが、拒否の意ではないことは女にはわかっていた。彼女の兄に会うことは、男にとって悪いことではない。

 月が雲間に消えるように名残を惜しみもせずに帰って行く男の背中を見送って、女は小さくため息をついた。


「兄様、こちら、月瀬君つくせのきみ、理人様よ」

彰子しょうこからお噂はかねがね聞いております。笛の名手だそうですね」

「いえ、そんな大層なものではありませんよ」

 果たして女は自分の兄に理人を紹介した。自分の笛の師として。むろん、夫のいる身で愛人などとは紹介できないのだが、その紹介はあながち嘘ではなかった。

 もともと彰子は理人を笛の師として家に招いたのだ。女房たちが美しいと噂する横笛の名手、月瀬君を興味本位で見てみたいと退屈しのぎのはずだった。御簾みす越しに見たあでやかな美貌の青年貴族に心奪われた彰子は、彼を御簾の内側に呼んでえにしを結んだ。

 理人には、いずれ自分が兄に紹介するだろうという打算があることを、彰子は知っていた。知っていて、抗えずに彼の罠にかかったのだ。

 理人の父は前兵部卿宮さきのひょうぶきょうのみやだった。先々帝の子で、現在の帝の叔父に当たる高貴な身分だ。一方で母の身分は低く、北の方(※正妻のこと)ではなかった。遅くにできた利発で美しい我が子を父宮は寵愛したが、その父が身罷みまかると、正室は理人たち母子を冷遇した。母の身分が低いため後見人もなく、間もなく母を亡くした理人の政治的立場は非常に低い。と、兄や女房たちの噂で聞いている。

 理人の父宮が彼に与えたもので残されたのは、何とか宮廷に上がれる理人の官位と、月瀬つくせの別邸だけだった。その別邸の名により理人は月瀬の若君と呼ばれていたため、今でも月瀬君と呼ばれている。

 身分は低い方に引っぱられるのが慣例のため、理人の身分は高くはない。むろん正室の子である異母兄弟に劣る。官位も低く、財力も多くの荘園を持つ有力貴族とは天と地ほどの差があった。

 そして彰子は、名門貴族である右大臣の娘。地位も権力も財力も備えている家柄だ。その兄である義正よしまさと親しくなることは、理人にとっては政治権力との繋がりを持つことになる。

 見事な笛の腕を買われて理人は彰子の兄、義正の笛の指南役となった。宮中での宴はもちろんのこと、貴族のやしきで行われる宴にも、管絃(※笛や琵琶などの音楽)は欠かせないものだった。

 やがて義正は、自分の妹婿である義弟、つまり彰子の夫である道綱みちつなと理人を引き合わせた。笛や和歌うたに秀で、男でさえ見とれるほどの美貌を持ちながら、慎ましやかな理人を道綱は気に入った。

 道綱は左大臣家の息子であり、現在は頭中将とうのちゅうじょうという出世頭の貴族だ。彰子を介して理人は、宮中きゅうちゅうの有力者と繋がりを得たのだ。



 暫く理人を笛の指南役としていた道綱は、すっかり理人を気に入り、自分の開く宴に理人を招いた。

 道綱に伴われて宴の席に姿を現した美貌の青年に、出席者たちの視線は集まった。ざわざわと騒がしかった席が一瞬静まり、そしてその反動のように囁き声がさざめく。

「あれはどちらの公達きんだちだろう?」「宮中ではあまり見かけない顔だが」「一度見れば忘れるわけがないものな」扇で口元を隠しながら公達は囁き合った。

「では、お願いできますか、月瀬殿」

 道綱の呼びかけに優美な微笑を見せた理人は、笛を構えた。そして聞く者すべてが聴き惚れてしまうほどの美しい音色を響かせた。

「…ほんに、なんと美しいことでしょう」

「笛の音もさることながら、ねえ…」

 宴席の公達だけでなく、御簾の中からも理人に視線が注がれていた。道綱の父左大臣とその北の方である道綱の母と、彼らに控える女房たちである。女房たちは理人の美貌について囁き合い「これ、はしたない」と北の方にたしなめられると恥ずかしそうに袖で口元を隠した。

 その中で、北の方の一番近くに座った少女は、会話に参加することもなくぼうっと理人を見つめていた。

 笛の音が止むと、宴席の者は理人の見事な笛に称賛を与えた。


 宴に慣れない理人は、途中、宴席を離れて庭先へ降りた。見事に手入れをされた左大臣邸の庭には、春の花々が美しく咲いていた。その花々を渡るように蝶が舞っていた。こんな夜に珍しい、と理人は誘われるように蝶に近づいた。

 蝶はひらりと左大臣邸の池へ舞った。蝶に会いに来たかのように、水面に月が現れた。

「どうなさいました? 御気分でも優れないのですか?」

 月が話しかけたかのようなタイミングで声がした。振り向くと、渡殿わたどのに声の主を月明かりが照らした。美しい女は、服装からすると女房だろう。

「お庭が美しいので、つい見とれていたのです」

 宴の席に疲れて抜けてきたなどとは言える立場ではない理人は、微笑して答えた。

「東の対屋たいのやの桜花が盛りと美しいですわ。是非ご覧なさいませ」

 妖艶な笑みを見せると、女は一礼して宴の席の方へと歩いて行った。宴席では見かけなかったが、手伝いにでも行くのだろうか。

 池に視線を戻すと、すでに蝶は飛び去っており、月だけが水面に残っていた。



 数日後、理人は月瀬のやしきに来客を受けた。

「理人様、頭中将道綱様がお越しです」

 女房に取り次がせたが、理人に思い当たる約束はなかった。笛の指南も、理人が左大臣家に行くのが常であった。

「実は、理人殿にご相談がありまして」

 数日後には笛の指南で理人が左大臣家に行くことになっているのに、わざわざ理人のところへ出向いてくるのだから、相当に切羽詰まっているのだろう。

「いかがなされたのです、道綱殿」

「…妹のことで、ご相談が」

「妹君というと、一の姫の咲耶姫ですか、それとも二の姫?」

 道綱には二人の妹姫がいる。上の妹咲耶(さくや)は今年17になる。下の妹佐保(さお)は14だ。

「咲耶のほうです。……実は、あの宴の席以降、伏せってしまっていて」

「それは、ご病気か何かで?」

「いえ。本人が言うには…恋わずらいだと」

「それはまた、艶っぽい御相談ですね。私でお役に立てると良いのですが」

 扇を口元に持っていきながら理人は微笑を道綱へ向けた。

「その口ぶりでは、あの宴席が理由のようですね」

 先日の宴に咲耶姫が出席しているとは聞いていない。彼女がいることがわかっていれば、若い公達はもっとそわそわしていたことだろう。美しいと評判の左大臣家の姫君だ。

「実は、咲耶もあの宴の席にいたのです。母が、妹は奥手ゆえ若い公達を見る目を養った方が良いと申して、たわむれに女房に紛れさせたのです」

 姫がいると感づかれないよう、わざわざ女房たちに紛れさせたのには理由がある。

「咲耶姫が宴席にいらっしゃるとなれば、婿がね探しの宴だと噂されかねない。そうなれば、東宮妃にとの話を主上おかみにしにくくなりますからねぇ」

 理人の視線を受けて、道綱はドキリとした。この青年は、物腰は柔らかだが、鋭い所を衝いてくる。

 咲耶は摂関家の流れを汲む名門、左大臣家の総領姫だ。家柄からいっても、年齢からいっても、次期帝である東宮とうぐうのお妃候補だ。左大臣家としては、当然彼女を東宮妃にしようと考える。

「東宮妃にとお考えになっていた咲耶姫が、他の公達に心を奪われたとなれば、左大臣様も、さぞ心をお悩ませでしょう」

「ええ。それに、咲耶も日に日に憔悴してしまって、東宮妃どころの話ではなくなってしまったのです」

 そして、やつれていく娘を心配した左大臣が道綱をここへ遣わしたのだ。

「その、咲耶の恋の相手というのが…」

 伏せていた目を上げて、道綱ははっきりと言った。

「あなたなのですよ、理人殿」

2008年初出。

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