monochrome 01
夏の終わり気分でお読みください。
この人は、私の運命の人だ。
夏休みも終わりに近づいた頃、毎日のように塾に通うのにも嫌気がさしてきた。せっかくの夏だというのに、塾と家とを往復して、たまには寄り道だってするけど、買い物したりお茶したりする程度で、普段と変わらない。
せっかくの夏休みなんだから、アバンチュールのひとつでも経験してみたい。
なんて、くだらないことを考えながらボーッと歩いていたら、思いきり人に体当たりしてしまった。その拍子に尻もちをつく。と同時に、ぶつかった衝撃で眼鏡が飛んだ。慌ててかすんだ視界に眼鏡を捜す。
地面にひっくり返っていた眼鏡に、手が伸びた。眼鏡を拾い上げたその手は、そのまま私に差し出された。男の人の割には細くて長い指が眼鏡を支えている。
「大丈夫ですか?」
柔らかいテナーが耳に心地いい。
「すみません、ありがとうございます」
お礼を言って受け取り、眼鏡を掛けた。クリアになった視界で、男の人が心配そうに私を覗き込んでいた。
心臓が跳ね上がると同時に耳まで体が熱くなるのがわかった。
なんて綺麗な人。
少し茶色い髪が額に落ちかかり、きりっとした眉の下には奥二重の瞳、鼻筋が通っていて、口元には柔らかい笑みを浮かべている。芸能人だって、なかなかこんなに綺麗な人はいない。マンガの中から王子様が抜け出してきたみたいだ。
「気をつけて」
私の手を取って助け起こしてくれたその人は、そう言って微笑むと私に背を向けて人ごみに紛れてしまった。だけど、彼が角を曲がってビルの陰に入るまで、彼の背中が人ごみに完全に消えてしまうことはなかった。
まるで、モノクロの世界に彼だけ色をつけたみたいだった。
その出会いは、偶然だったけど、私は偶然ではないと思った。彼のように理想的な人が、この世に本当にいるのかと疑ってしまうくらいに素敵な人だった。出会いは一瞬で、交わした言葉も少なかったけれど、きっと彼は私の運命の人だと確信していた。
また会いたい。また会えるかな、と友達に聞けば、そんな偶然そうそうあるわけないでしょ、と呆れられた。運命の人だと思う、と言ったら、「ああ、はいはい。また偶然出会えたら、そうかもね」と軽く流された。
友達の言葉に辺りを見回してみた。街にはたくさんの人が歩いていて、どれが誰か見分けがつかない。この中ではぐれてしまったら友達を見つけるのだって難しいのに、偶然歩いているあの人を見つけることなんて出来るのだろうか。
一瞬にして、私の考えは覆った。そこだけピントが合ったようにくっきりと見える。あの人だ。この人ごみの中でも、私はあの人を見つけられる。
「あっ! ちょっと、美羽!」
友達の声を背に、私は思わず走り出していた。
人ごみをかき分けて彼へと走る。彼は、私のことに気付きもしないで先へ進む。その背中を追いかけているうちに、繁華街の脇道に入った。
脇道からビルへと続く階段を彼は降りていく。そして、地下の黒いドアの前で停まった。
「ストーキングが趣味とは、あまり感心しませんね」
彼を追いかけて階段を降りるべきか迷って階段の上にいた私に、彼が綺麗な横顔を向けた。左目だけから注がれる視線に、自分の行為を咎められているようで後ろめたい。
「夜またいらっしゃい」
口の端に少しだけ笑みを乗せて彼はドアを開けた。パタンという音とともに黒いドアが彼を隠してしまうと、私は階段を降りてそのドアに近づいた。
ドアに店名のようなものはないけれど、何かのお店のようだ。ドアノブには「CLOSED」のプレートが掛っている。ドアの脇のかがり火を模した小さな灯りにも、まだ光はともっていない。閉ざされたドアを開ける勇気もなかったので、そのまま回れ右をして階段を上りはじめた。
不意に、視界に影がさして顔を上げた。そこには、長い黒髪の綺麗な女の子がいた。年は私と同じくらいだろうか。彼女は一瞬私に視線を寄こしてから、そのまま私の横を通って軽やかに階段を降りて行った。そしてドアの向こうへと消えた。
誰なんだろう? まさか、彼の恋人とか? ううん、きっとお店の人だ、と自分に言い聞かせた。
私は彼に言われた通りに、夜にそこを訪れた。塾の自習室で勉強すると親には嘘をついて、こんな繁華街の脇にあるお店に来るなんて勇気がいたけれど、夏休みの終わりのスリリングな冒険に心は沸いた。それに、彼に会うためなら何てことはない。
このドアを開ければ彼がいるのだと思うと、嬉しくもあり緊張もした。
ドアに掛ったプレートに「OPEN」と書いてあるのを確認してからドアを開けた。暗い店内には大きな音で音楽が流れていた。時折店内を照らす強い光に目がびっくりして瞬きを繰り返す。
ドアから更に少し階段を下ってフロアーに降り立った。右手の広いフロアーにはたくさんの人がいてざわついた空気が店内を埋め尽くす。入口から近いカウンターには何人ものお客さんが座っていて、その中央に彼がいた。
「いらっしゃいませ、ようこそ」
カウンターの中から、優美な笑顔を私に向けた。
初めて来る店の雰囲気に戸惑いながらも、私は彼に近づきたい一心でカウンターへと歩み寄った。カウンターの端に空いている席を見つけてそこに座る。
「リヒト、私、キールロワイヤル」
「かしこまりました」
「ねえ、リヒト、何かお勧めある?」
「夏らしく、パイナップルとココナッツミルクのカクテルはいかがですか?」
「じゃあ、それで」
私の隣に座っていた二人連れの女性客との会話を聞いて、私も何か頼まなくちゃ、と慌ててカウンターにあったメニューを手に取った。だけど、見知らぬカクテルの名前ばかりで、何を頼んでいいのかわからなかった。
「…リっ、リヒト」
隣のお客さんの真似をして彼を呼ぶ。はい、と彼は振り向いて微笑んだ。
「え…と、何か、オススメを、…ください」
「かしこまりました」
リヒトはクラッシュした氷をグラスに入れると、そこにオレンジジュースを注いだ。そして、グラスに皮を飾り切りしたオレンジを飾り、ストローをさす。
どうぞ、と差し出されたのは、完全にオシャレなオレンジジュースだった。リヒトを見上げると、にこりと微笑まれた。
すると、隣から小さく笑う声が聞こえた。「どう見ても未成年だもんね」と隣の女性が囁き合う。そう言う彼女たちだって、私とそう年は変わらなさそうなのに、ずいぶんと雰囲気が違った。茶色く染めてパーマをかけた髪やメイクのせいだろうか、それとも店に慣れている余裕だろうか、すごく大人っぽく思えた。
笑われたのも悔しかったし、彼女たちのように私もリヒトと普通に親しく会話がしたかった。彼女たちのようになれば、私もこの店になじめるかもしれない。
そう思って、私は決心した。
美しく生まれ変わって、彼をびっくりさせてやるのだと。
2008年初出。




