justice 01
人生は、俺の知らないところで決められていて、狂っていた。
あいつは、さぞ満足だったろう。俺を深い夜の闇に突き落として、俺を視界から消し去って。
狂った歯車は簡単には戻らない。きっとこのまま、底を這い続けるのだろう。
重い足取りで繁華街を歩く。明るいネオンの街。けれどその華美なきらびやかさとは裏腹に、深く暗い沼の底のような世界だ。一度足を踏み入れたら、そのまま底なしに沈んでいく。
こんなところで、俺は何をしてるんだろう。いい年して、ホストクラブのボーイなんて、年下のホストに見下され、謂れのない罵倒を受けて、なのにそこから抜け出す術もない。自分がホストにでもなって奴等と対抗できるなら考えなくもないが、あんな世界に足を踏み入れるのはごめんだ。互いを蹴落として、醜い。
真っ直ぐ仕事に向かう気にはならなくて、繁華街を逸れて路地に入った。ひっそりと静まり返った暗い路地は、まるで、この街の闇をすべて引き受けたみたいに深い淵の底へと繋がっているようだった。
そこに灯る、ひとつの光。地下へ降りる階段の下のドア。その脇の小さな灯り。思わずそこへと足を向けていた。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
暗い店内に入るとカウンターから声を掛けられた。カウンターの中にはバーテンダーが一人。彼からグラスの乗ったトレーを受け取った店員が二人、カウンターの右手に広がるフロアーに歩いていく。フロアーでは既に何人もの人が騒いでいた。彼らの会話から、バーテンダーがリヒト、背の高い店員がカザキ、若い店員がハトリというらしい。三人とも、うちの店の質の悪いホストなんかより、ずっと綺麗な顔をしている。
まだ人の少ないカウンターに座ると、育ちの良さそうな顔立ちのバーテンダーが微笑して注文を尋ねた。
「何か強いやつある?」
本当は仕事前に酒なんて飲んだら怒られるけど、飲まなきゃやってられない気分だった。
「どうぞ」
リヒトが差し出したのは、黒いショートカクテルだった。向こう側が見えないグラスを持つと、甘いけれど刺激のある香りがした。口をつけるとコーラの強いやつみたいな味がする。アルコールもかなりキツい。
カクテルの名前を訊くと
「アイアン・ハンマー」
と、リヒトは答えた。ウォッカベースのスレッジハンマーのアレンジだろうか。
ガツンとくる味にピッタリの名前だ。胃から熱を帯びた体に、思わず口も滑らかになる。
「この世から消えた方がいい奴って、いると思わない?」
ナンバーワンホストだか知らないが、頭は金と女のことしかないくせに、偉そうに俺に指図して、すぐに怒鳴って殴るあの男。ボーイと格下のホストには威張り散らして、オーナーと客には媚びへつらう頭の軽い男。
「消えればいいのに、あんな奴」
「その口ぶりでは、それは叶わないと?」
黙って俺の話を聞いていたリヒトが微笑して問う。
「あいつが店を辞めるか、俺が辞めるか、だけど。辞めても一緒だよ」
どうせ俺が働けるようなところは限られている。夜の世界じゃ金を稼ぐ奴が偉いって風にできてる。どこへ行っても俺は下っ端だろう。新人の下っ端よりは、まだ今のところの方がマシだ。少なくとも俺より下っ端のボーイがいる。
こんな世界から足を洗えばいいのかもしれない。けれど、昼の世界に戻って、俺みたいな高校中退した奴が働けるところなんて、やはり限られている。たぶん俺は、この深い闇から抜け出せない。
こんな風になったのも、すべてあいつのせいだ。高校中退の理由を作ったあいつ。
どこにでもいるような普通の高校生だった俺は、そんなに頭の悪い学校に通っていたわけじゃなかった。成績上位者ではなかったが、どこかの大学に行くくらいはできただろう。そうすれば、今とは違う場所にいられたはずなのに。
あの男。なぜか俺を目の敵にして、事あるごとに嫌がらせをしてた。俺はあいつみたいに成績優秀で品行方正でもなかったけど、友達は結構いて楽しい高校生活を送っていた。あの男の陰険な嫌がらせは頭にきたけど、靴に画鋲を入れるくらいじゃカワイイもんだ。友達も笑い飛ばしてくれた。──あの日までは。
教材費の集金があったあの日、クラスの何人かが金がなくなったと騒ぎ出した。心配になって自分のを確認してみたらそれはあって安心した。ところが、あの男が、俺が盗んだと言い出したのだ。もちろん身に覚えなんかなかった。学校では禁止されていたがバイトもしていたし、金に困ってなどなかった。何を言い出すんだと笑い飛ばそうとしたが、あの男が俺の鞄から皆の教材費の入った袋を出した。教室の空気が凍りつく。友達までもが俺に疑いの目を向けた。違うと言っても誰の耳にも届かなかった。
あいつが俺の鞄から金を取り出した時、あいつがこっそり自分のポケットから袋を出したのを俺は見ていた。犯人はあいつだ。俺に罪をなすりつけるための罠だった。
それを主張しても信じる者はいなかった。クラスメイトも教師も。成績優秀、品行方正な彼がそんなことするわけがないと。成績も良くなく、友達と騒いでは教師に注意されることもしばしばだった俺の無実など、誰も信じなかった。
教師もあいつの主張を鵜呑みにした。
「てめぇ! どういうつもりだ!?」
教師に事情を聞かれた時、二人きりになる機会があり、俺はあいつに詰め寄った。
「何の恨みがあってこんなことしやがる?」
「別に。君の日頃の行いがいけないんじゃない? ムカつくんだよね、まるでこの世の春を謳歌するみたいに騒いじゃってさ」
「テメェ!」
ムカつくってだけで人に無実の罪を着せんのかよ。冗談じゃない。頭に血が上って思わず奴の胸倉を掴んだ。
振り上げた拳が届く前に、奴は倒れた。俺の手から逃れようと暴れ、その拍子に勝手に転んだのだ。
なのに、あいつ、こともあろうに俺に殴られたと教師に言いやがった。
盗みが見つかり、それを目撃した奴を俺が殴ったのだと教師は決め付けた。殴ったなら俺の拳にはその跡が残るはずなのに、それも確認しないで教師は俺の罪を決め付けたのだ。
そして校長は俺を退学処分にした。
嘘をついてまで俺を陥れて退学にさせた理由を奴に詰問すると、奴は言った。「君みたいな人がいない方が学校のためだと思って」と。勝手な正義を主張した。
俺には反論の機会も与えられず、身に覚えのない罪のせいで重い罰を背負わされた。盗みを働いたうえに暴力事件を起こしたなんて噂になれば、町にはいられない。逃げるように実家を出て、この街に辿り着いた。
底辺を這う俺に、仕事をくれたのは今の店の先輩ボーイだった。ボロボロになっていた俺を見かねた彼が店長に口利きしてくれたのだ。それだけは感謝している。だが、今では年下のホストにバカにされる日々。冗談じゃない。
すべてあいつのせいだ。
俺をこんな目に遭わせて、あいつはいい大学を出て、いい会社に入って、今年会社を興したと噂で聞いた。このままでなんかいさせやしない。
「いつか、あいつに罰を与えてやる。あいつが俺にしたように、俺も俺自身の正義であいつを裁く」
カクテルを飲み干して俺は宣言した。黙って俺の話を聞いていたリヒトを見上げると、妖しいまでの美しさで微笑した。
「お好きにどうぞ。止めやしませんよ」
ペラペラと喋ったせいか、強いアルコールのせいか、急に眠気が襲ってきた。店内には大音量の曲が流れていたが、次第にそれが小さくなっていった。
どんな汚い手を使ってでも、あいつが俺にしたように、断罪してやる。
気付くとカクテルグラスは片付けられていた。
「よく眠っておいででしたね」
時計を見ればとっくに出勤時間を過ぎている。
「何で起こしてくれないんだよ!」
俺の出勤時間など知るはずもないリヒトにお門違いな文句を言って、俺は慌てて席を立ち、店を飛び出した。
案の定、遅刻した俺を例のホストが罵倒した。遅刻したのは俺だから、怒られるのは仕方がないが、そのうちホストは遅刻とは関係ないことを責め出した。挙句、俺を全否定した。
「てめえなんか生きてる意味ねーんだよ! さっさと消えろ!」
こいつにそんなことを言われる筋合いはない。思わず俺は、そいつの胸倉を掴んで制裁を与えた。あの時あいつにできなかったことを思い出して、相手の抵抗を受けながらも、俺の拳は何度も振り上げられた。
手の痛みも鈍くなった頃、口の中には鉄の味が広がっていた。
2007年初出。
新年初めて出す内容としては少々ブラックというかダークというか…。




