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3A.M.  作者: 如月 望深
48/106

未明 01-3

 都子を送り届けた後、運転手に時間があるかと訊かれた。羽鳥が肯定の意を答えると、冷泉家へと連れて行かれた。

 車を降りた男は羽鳥を伴って邸宅へと入った。

 外見同様、内部も立派な邸宅だが、羽鳥は奇妙な印象を抱いた。多くの人で賑わっていた昨日と違い、人気ひとけが感じられないのだ。華やかなイメージの理人に似合わず、静まり返った館は、羽鳥に不安を抱かせた。

 羽鳥の前を歩いていた男は、とあるドアの前で立ち止まった。ノックもせずにドアを開ける。

「おかえりなさい、カザキ」

 中から、ドアの方を見遣った理人の声がした。

「いらっしゃい、羽鳥くん」

 ソファに座ったまま、理人は羽鳥に微笑みかけた。羽鳥は会釈でそれに応えた。

朔羅さくら

 理人が呼ぶと、いつの間にか理人の傍らにメイドが現れた。

「お茶の用意を」

 メイドは一礼してその場を去った。

 理人は二人に席を勧め、男が理人の向かいに腰を下ろした。羽鳥もその隣へ座る。

「そういえば、紹介がまだでしたね」

 そう言って、理人は羽鳥に男を紹介した。名は緋村ひむら 風生かざき。理人の古くからの友人だという。その友人が、何故羽鳥達の運転手を勤めていたのかは判らない。

 先程のメイドが現れ、三人に紅茶を持ってきた。理人と二人を挟むテーブルに置かれた紅茶が、湯気と一緒に芳しい香りを立ち上らせていた。

 紅茶を一口飲み、満足げに微笑んだ理人は、風生へと視線を遣った。

「どうしたんです、カザキ? そんな怖いを顔して」

 風生は理人の微笑を無視して言った。

「どういうつもりだ?」

 何が、とは問わず、理人は再び紅茶を口に含んだ。

「都子嬢の気持ちはわかった。だが、こいつを困らせてまで、お前が彼女に肩入れする理由はないはずだ」

 理人は紅茶のカップを手にしたまま答えた。

「僕は別に、都子嬢に肩入れなんてしていませんよ。今日のことで彼女は自分自身に決着をつけたでしょうし」

 紅茶のカップとソーサーをテーブルに戻した理人は、顔を上げて再び風生に視線を向けた。

「僕はただ、彼にきっかけを与えただけですよ」

 意味を量りかねて眉を寄せる風生の隣へと、理人は視線を移した。その視線の先、つまり羽鳥が、理人の言う『彼』の指し示すところである。

「やっと、決心したのでしょう」

 理人の見透かすような視線を受けて、思わず羽鳥は身構えた。何を、と問う間もなく語が継がれる。

「家を出ることを」

 羽鳥は目をみはった。

「…何故、それを…?」

 まだ誰にも告げていない決心を、何故この人は簡単に見抜くのだろう。

「僕は千里眼なんですよ」

 理人は妖艶な微笑を口元にひらめかせた。



 …本当は、ずっと考えていた。


 彼女は、単なるきっかけに過ぎない。

 確かに、彼女が兄の妻として家に来たら、一緒に暮らすのは不可能だ。彼女の視線に耐えられそうもない。彼女と距離を置くためでもある。


 しかし、本当の理由は、籠の鳥が空を求めるようなものだろう。


 全てを与えられ、籠の中で暮らしていれば、幸せなのかもしれない。

 求めた空は、思っていたようには青くはないのかもしれない。


 けれど、それでも籠の鳥は壊れたドアから空へ飛び出す。


 自分の白い羽が空の青に染まるように。



 家を出るなら援助は惜しまないことを約束して、理人は帰路に着く羽鳥を送るようにメイドに言いつけた。一礼して部屋を出て行く羽鳥を見送る理人に倣い、風生も羽鳥に視線を送った。そして、ドアが閉まってから口を開いた。

「…何故、そこまで彼に執着する?」

 普段は淡白な人間関係を好む理人にしては、羽鳥に深く関わりすぎている。理人らしくない、と風生は感じていた。

「確かに、彼の鬱屈した心は美味かもしれない。だけど、いつものお前なら、ここまで面倒見のいいことはしないはずだ」

 風生の指摘に、理人は苦笑を見せた。

「…少し、似ているんですよ、あなたに」

「俺に?」

 理人の言葉に風生は眉根を寄せた。

「…あの時、こうなる気がしていたと、言いましたよね、僕」

「ああ…」

 その時のことを思い出して、風生は苦い感情を一瞬だけ表に出した。すぐに表情を戻して尋ねる。

「彼も、そうなるということか?」

「はっきりとは言えませんけどね」

 肯定の意を示して理人は紅茶に手を伸ばした。一口すすると冷めた紅茶の苦味が口に広がった。




 羽鳥の兄、総一郎の婚約式が執り行われた。

 総一郎の隣には、美しく着飾った都子がいた。

 羽鳥は彼女と目が合わないように努めた。目が合えば、不自然に目を逸らしてしまいそうだった。

 婚約式には大勢の人が集まり、その中に理人もいた。軽く会釈して挨拶をした羽鳥は、その隣に風生の姿を認めて、彼にも会釈をした。


 婚約式はつつがなく執り行われ、無事に終了した。


 都子と両親が帰った後、久しぶりに一家四人が集まった席で、羽鳥は決心を口にしようと決めた。一人ずつ報告するのは、その度に勇気が必要になる。勇気を振り絞るのは一度で済ませたかった。それに、母に言えば反対するだろう。一人では、母の反対を振り切る自信がなかった。兄と父は反対はしないと踏んでいた。だから今がチャンスだと考えた。

「父様、母様、兄様」

 家族の視線が末弟に集まる。

「僕、この家を出ます」

「…え?」

 羽鳥の言葉の意味を理解できずに母が困惑した顔をした。

「この家を、出ます」

 二度目で、やっと母は理解したようだった。意味を理解すると、青ざめた顔になった。

「羽鳥さん、どうして? もしかして、兄様の結婚が原因なの? あなた、もしかして、都子様を好きだったの?」

「いえ、違います」

「じゃあ、どうして? この家にいたくない理由でもあるの? 何か嫌なことでもあったの?」

「違うんです。そういうことじゃないんです。ただ…」

 引きとめようとする母に罪悪感を感じつつも、そこから逃れたい思いもあった。

「僕は、外の世界が見てみたい」

 この家でぬくぬくと大事に育てられ、それは幸せではあったが、しかし、この狭い世界にずっと閉じ込められることは窮屈に感じていた。時折下町の酒場へ行くのは、一種のエスケープだったのだ。

「いいんじゃないか」

 賛同することを口にしたのは、兄だった。

「広い世界を見るのはいいことさ。仕事をするにも広い視野が必要だし、そのためには世間を知っていないと。ね、父様」

 兄に同意を求められ、父は頷いた。

「そうだな、世間知らずでは、仕事はできん。好きにしなさい」

 父と兄の賛成意見に厳しい顔をしていた母は言った。

「私は反対よ。何故家を出る必要があるの? 家にいたって、世間のことは判るわ」

 そう言う母は、世間を知らぬお嬢様だ。家という鳥籠で大切に守られている彼女が、世間を知っているとは、とても思えない。

「母様、わかってください。僕は、一人で、外を見てみたい」

 羽鳥の決意が揺るがないことを見て取ると、母は泣き崩れた。

「羽鳥の門出を一緒に応援してあげましょう。ね、母様」

 兄が母を慰めた。母な泣いたまま、首を左右に振った。



 翌日、母に呼ばれた羽鳥は、母の向かいの席に促された。テーブルには珈琲コーヒーが用意されている。お茶にしましょう、と言う母は、昨日より落ち着いているようだったが、その分不気味でもあった。

「羽鳥さん、昨日の話だけど、母様が反対しても、決心を変える気はないのね?」

 念を押され、羽鳥は頷いた。

「はい」

「そう…」

 母は目を伏せたまま珈琲を飲み、羽鳥にも珈琲を勧めた。

「冷める前にお飲みなさい。特上のものなのよ」

 言われるがまま、羽鳥は珈琲を飲んだ。苦い味が口に広がり、喉を通り過ぎて落ちていく。

「…!」

 次の瞬間、するりと羽鳥の手から珈琲カップが落ちた。派手な音を立ててカップがソーサーに落ち、倒れたカップから珈琲がこぼれる。こぼれた珈琲の香りが羽鳥の鼻孔をついた。

 カップを支えていたはずの手は、力なく小刻みに震えている。全身が痺れ、力が入らない。

新田にった!」

 母がお抱えの医師の名を呼んだ。新田医師がすぐに現れ、母が計画したことなのだと羽鳥は理解した。

「新田、その薬を羽鳥に飲ませなさい」

「え? しかし…」

 手に小さな薬の瓶を持った医師は戸惑ったように母子を見比べた。

「いいから!」

「できません!」

 急かす母に、医師は首を左右に何度も振って答えた。

「奥様、何をなさるおつもりですか? 珈琲に薬を入れて、そのうえ、こんな薬を飲ませたら、死んでしまいます!」

「いいのよ、そのつもりなんだから」

「…奥様!?」

 驚いたように医師は目を見開いた。しかし、羽鳥自身は医師ほどは驚かなかった。母に珈琲に薬を盛られたのだと判った瞬間、そういうつもりなのだろうと予想はしていた。

「もういいわ。下がりなさい」

「しかし…」

「下がりなさい!」

 いつもはのんびりとした口調の母に怒鳴られて、医師はビクリと体を震わせ、慌てて部屋を出て行った。

 ぐらり、と羽鳥の視界が揺れた。羽鳥は痺れた体を支えきれずに椅子の右側から倒れ、床に打ち付けられた。

 その衝撃で羽鳥の懐から金色の懐中時計が落ちた。十八歳の誕生日に母から贈られたものだ。懐中時計は落ちた衝撃で蓋が開いた状態で床を転がり、羽鳥が落ちた反動で倒れてきた椅子の背もたれの下敷きになった。文字盤にかけられたガラスが砕け、破片が羽鳥の頬に傷をつけた。

 赤い血が、白い羽鳥の頬に流れた。

「…羽鳥さん、あなたが悪いのよ」

 床に仰向けに倒れた羽鳥の前に立った母が、虚ろな目で見下ろした。

「あなたが母様の愛をわかってくれないから…」

 母は羽鳥の傍らに座り、羽鳥の髪を撫でた。

「私から逃げていくなら、いっそ、ずっと私のものに…」

 髪を撫でていた母の手が、頬を伝って首へと動かされた。グッと首を押され、息が詰まる。

 気付けば、母は羽鳥に馬乗りになり、両手でギリギリと首を締め上げていた。

「…母様…」

 消えそうになる息の下で、羽鳥は小さく呟いた。だが、その声は、母には聞こえていないようだった。



 母の愛に背いた報いが、これか…。

 

 空を求めた籠の鳥。

 手折たおられる、逃げるための白い羽。



 狂気の母の肩の向こう、窓の外に広がる青空を羽鳥は仰いだ。鮮やかな空の青さえも、次第に視界の中で薄くなっていった。



 …このまま、母の心を受け入れればいい…。



 医師が父と兄を連れて部屋に戻った時、母はぐったりとする息子を胸に抱えていた。

「…これは、一体…?」

 事態を全く理解できない父と兄に、医師が説明した。母が羽鳥を殺そうとしたのだと。珈琲に薬を入れることを医師に強要し、自分は拒めなかった。けれど、毒薬を飲ませるよう言われて、それはできなかった、と医師は弁明した。

 部屋の入り口に立ち尽くす三人の背後に、二人分の足音が聞こえた。

「冷泉様!」

 思わぬ人物の登場に、兄は驚きの声を上げた。理人と一緒にいるのは、その友人だという風生だ。

 理人は三人の間を抜けて部屋に入り、母から羽鳥を奪い取った。

「何をするの!?」

 理人に掴みかかろうとする母を風生が抑える。

「…遅かった」

 理人は小さく首を左右に振り、医師に羽鳥の生死を確認させた。医師は羽鳥の脈を見て、絶望的な声で告げた。

「…お亡くなりです」

 兄と父に溜め息がこぼれた。何ということだ、と父が嘆く。

「…羽鳥が…死んだ…? 私が、殺した…? でも、羽鳥が悪いのよ、だって私がこんなに愛してるのに、離れていこうとするから…」

 風生の手を逃れた母は立ち上がり、錯乱したようにぶつぶつと言い訳を繰り返した。そして、目の前でぐったりと血の気のない顔を横たえている羽鳥を見つめた。その白い首筋には、絞められた痕がくっきりと残っている。

 怯えたように首を小刻みに左右に振り出した母は、テーブルに置かれた瓶に手を伸ばした。

「…奥様!」

 医師が気付いた時には既に遅かった。

 母は、その瓶の中身をすべて飲み干していた。中身は、羽鳥に飲ませようとしていた毒薬だ。むろん、致死量に達している。

 母は、虚ろに天を仰ぎ、力なくだらりと垂らした手から小瓶を落とした。そして、床に落ちた瓶に続くように、床に崩れ落ちた。

 自分の手で愛する我が子を殺したことを理解した母は、錯乱して自ら毒を煽ったのだ。


 母が自ら命を絶ったのと入れ替えに、羽鳥の体に変化が起きたことを、理人は見逃さなかった。

 首筋の痣が次第に薄らいでいく。ピクリと、先程まで微動だにしなかった手が小さく動いた。

「…ハトリ…?」

 その声に反応するかのように、ゆっくりと羽鳥の目が開けられる。焦点の定まらぬその瞳は、自分を覗き込む人物を見上げた。

「…冷泉様…?」

 やっとその人物を確認した羽鳥は、状況が掴めぬまま訊いた。

「何故、冷泉様がここに…?」

「君を迎えに来たんですよ」

 理人は優しく微笑みかけた。

 体を起こそうとする羽鳥を理人は助け起こした。羽鳥の頬に残った血の痕を理人は手で拭った。血を拭き取られた頬は白く、傷痕も残っていなかった。

 羽鳥の目の前には、母が力なく横たわっていた。その体に生気が宿らないことを感じた羽鳥は、嫌な予感に襲われた。

「…母様?」

 反応はない。

 母の手元に転がっている小瓶が、先程母が自分に飲ませようとしていた毒薬だと気付いて、羽鳥は事態を悟った。しかし、それを否定して欲しくて視線を泳がせた。理人と目が合う。

「彼女は、あなたを自分の手で殺してしまったことを悔い、自ら命を絶ったのです」

 諭すように、理人が説明した。

 しかし、理人の説明には納得いかない部分がある。母が羽鳥を殺したというのなら、今ここにいる自分は何なのか?

「…僕は、幽霊なのですか? それとも、生き返ったのですか?」

「いいえ。幽霊でも、生き返ったのでもありません」

 はっきりと理人は否定した。むろん、それは別の答えが用意されているからである。

「君は、生まれ変わったのです」

「…生まれ変わった…?」

「そう」


 一度命を失って、人の命を得て生まれる。


「人の心を喰らう、鬼にね」



 …ああ、自分は、母を魂ごと喰らいつくしたのだ。


 諦めにも似た悟りが、羽鳥の心に吹き込んだ。



 理人は、事態を飲み込めぬまま呆然と部屋の入り口に立ち尽くす羽鳥の家族へ目を向けた。

「これから大変でしょうから、暫らく羽鳥くんは私がお預かりします」

 そう言いくるめて理人は羽鳥と風生を伴って水神邸を後にした。


 冷泉家に着くと、朔羅が迎えてくれた。三人は朔羅が淹れてくれた熱いお茶で一息ついた。

「あの、冷泉様…」

「リヒトでいいですよ」

 羽鳥に優しく微笑みかける。

「あなたは、何者なんですか?」

 一見すると失礼な羽鳥の質問にも理人は笑顔を崩さなかった。

「僕たちは、時の流れから隔絶された者」

 終えたはずの命を、その手に取り戻した者。

「かつて、君と同じように鬼になったんです、僕も風生も」

 羽鳥は理人を見つめ、それから風生へと視線を動かした。

 目が合った風生が、羽鳥に何かを差し出した。手を広げると、掌に金色のものが置かれた。金の懐中時計。母から貰った羽鳥の時計だった。文字盤が割れ、壊れて針が動かなくなっている。

 羽鳥は掌に視線を落とした。動かない時計。これが、背負うべき業なのだろうと、羽鳥は悟った。




 数日後、水神氏の妻が急病で亡くなったと世間に広まった。

 その次男の話題には誰も触れなかった。なぜなら、世間では、水神家の息子は一人と認識されていたからだ。当の水神氏も総一郎も、弟の存在を記憶に留めてはいなかった。

 そして、冷泉理人という貴族が消えたことに気付いた者もいなかった。最初からその存在がなかったことになっていたからだ。


「さて、これから何処に行きましょうか?」

 人々の記憶を消すという大仕事を終えたはずの理人は、のんびりと構えて言った。

「どこへでも」

 そう答える風生に、羽鳥も笑顔で頷いた。

「気のむくままに」

羽鳥の過去話でした。

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