未明 01-2
羽鳥は、疑問は残ったものの、理人に言われた通りに都子を誘った。突然のことに驚きつつも、都子は喜んだ。
「羽鳥様にエスコートをお願いしたいと思っていたのだけど、そんなことをお願いするのは失礼じゃないかしらと悩んでいたので、お誘いいただいてとても嬉しいです」
舞踏会の日、約束の時間に都子を迎えに行くと、美しく着飾って現れた都は、弾んだ声で言った。
いつも和装の都子のドレス姿は新鮮で、とても美しく思えたので、羽鳥は素直にそれを口にした。
「いつもに増してお綺麗ですね」
まあ、と頬を高潮させた都子は、
「羽鳥様も素敵です」
と恥ずかしそうに言った。
会場に着くと、既に多くの人が集まっていて、現れた羽鳥と都子に視線が注がれた。
美しいと評判の万里小路家の娘、都子と、彼女をエスコートする白皙の美少年に注目が集まらないわけがない。しかも、その美少年は、力をつけてきている水神家の次男だ。万里小路家との婚約の噂があるのは長男の方だが、長男よりも美貌の次男の方が皆の目には印象に残っていた。
「羽鳥くん」
主催者である理人が羽鳥に声をかけた。羽鳥と都子は一礼し、挨拶をする。
「お招きありがとうございます」
「来ていただけて嬉しいですよ」
微笑んだ理人は、その笑顔を都子にも向けた。
「この度は、ありがとうございました」
都子は深々と礼をした。
「いえ、都子様も楽しんでいってくださいね」
二人のやりとりは、挨拶にしては意味深な気もしたのだが、主催者である理人は忙しく、すぐに他の人のところへ挨拶に行ってしまったのと、都子の友人達に囲まれてしまったので、羽鳥は何も訊かなかった。
「都子様、今日は、ご婚約者の総一郎様とご一緒ではないのね」
友人の一人に言われ、都子は総一郎は仕事で不在だと答えた。
「都子様、こちらの方は、確か水神様の…」
「ええ、総一郎様の弟君の羽鳥様です」
羽鳥は都子の友人達に会釈して挨拶した。
「水神羽鳥です。どうぞお見知りおきを」
羽鳥は長身ではなかったが、均整の取れたスマートな体つきで、端正な顔立ちはタキシードが良く似合っていた。所作も美しく、挨拶されただけで彼女達は羽鳥の美しさに見惚れた。
「都子様ったら、ずるいわ。婚約者がいながら、こんな素敵な方と一緒で」
などと友人達にからかうように羨ましがられ、都子は嬉しそうに笑った。
一通りダンスなどを楽しんだところで、都子はバルコニーに出たいと羽鳥に言った。バルコニーへ出ると、夜の涼しい風以外には二人を見ているものはなかった。
「実は、今日のことは理人様にお願いしてのことなんです」
唐突に都子が言った。
「私がお願いして、わざわざ総一郎様のいらっしゃらない日を選んで舞踏会を開いていただいたの」
都子は羽鳥が理人に出会う前から理人と知り合いのようだった。身分の高い者同士の繋がりがあったのかもしれない。
「一度でいいから、羽鳥様とこうして舞踏会に出たかったのです」
皆の羨ましがる顔が見られて嬉しかったわ、と無邪気を装って都子は笑った。その笑顔の後ろに隠された想いに気付かぬふりをして、羽鳥は黙っていた。
バルコニーの柵に両手を置いて都子は庭の向こうを眺めた。背を向けた都子の表情は、羽鳥には見えなかった。
「総一郎様とのことは、両親が決めたこと。逆らうつもりはありません」
都子の家は、身分は高かったが、経済的には水神家に劣る。それでも裕福ではあったが、しかし、財界への影響力を強める意図もあり、財界で力をつけている水神の力を欲していた。そのための政略結婚であることは都子も承知している。
「でも、私がお慕いしているのは…」
言いかけて、都子はその先の言葉をつぐんだ。けれど、彼女の視線の向けられた先が、その答えなのだと、彼女の瞳が語っていた。
都子の真っ直ぐな視線を受けて、羽鳥は沈黙したまま彼女を見つめ返した。
その手を取ることは、羽鳥には、できない。
不用意にその手を取れば、彼女も、兄も、両親も、そして自分自身も、幸せになれないことを知っていたからだ。
何も答えることができない羽鳥に、都子は微笑して続けた。
「…いえ、何でもありません」
都子は再び羽鳥に背を向け、バルコニーから空を見上げた。いくつかの星が彼女を勇気付けるように瞬いた。
「…羽鳥様、お願いがあります」
都子の視線が再び羽鳥に向けられた。
「明日一日、羽鳥様の時間を私にください」
兄の総一郎は明後日まで帰ってこない。明日が都子に与えられた最後のチャンスだった。総一郎は都子を束縛しているわけではなかったが、しかし、総一郎がいるのに羽鳥と出掛けるのは不自然だ。総一郎のいない明日なら、羽鳥を誘っても言い訳が立つ。
「…わかりました」
沈黙を解いた羽鳥は頷いた。
翌日、冷泉家の使いと名乗る男が羽鳥を迎えに現れた。冷泉家と何か約束した憶えはない羽鳥は訝しがったが、無視もできない。
応対に出た羽鳥に会釈を施した長身の男は、周りに聞こえぬよう小声で告げた。
「都子様がお待ちです。どうぞ、車へ」
勘のいい羽鳥は悟った。その男が都子の遣した迎えだと。昨日、都子は迎えを遣すと言っていたのだった。
羽鳥は了承して男に続いた。
車に乗ると、既に都子が座っていた。
「おはようございます」
笑顔で挨拶をした都子は、動き出した車の中で事情を説明した。
「よからぬ噂を立てられては羽鳥様にご迷惑でしょうから、冷泉様に協力していただいたのです」
いくら総一郎の不在を理由として、その弟と出掛けることに言い訳を立てたとしても、世間に下世話な推測をされることは望ましくない。そこで、二人とも冷泉家の誘いを受けて出掛けるということにしたのだ。身分的に二人は冷泉の誘いは断れない。
それ故に、運転手は冷泉家の使いの者だった。
漆黒の髪と眼を持つ運転手は、運転手というよりは良家の若君といった風情であったが、冷泉家に仕える者だ。洗練された教育を受けているのかもしれない。
行き先は、冷泉家の別荘があるという湖畔だった。
親切にも理人は、都子のために別荘まで貸してくれるというのだ。確かに、万里小路の者がいる場所では都子の気が休まらないかもしれない。
冷泉家の別荘に立ち寄った二人は、一休みすると外へ出て湖畔を歩くことにした。
「綺麗!」
太陽の光を反射して煌めく湖に目を細め、都子は呟いた。
「こんなに綺麗な湖、初めて見たわ」
都子は湖に向かって歩き出した。それに羽鳥も続く。
穏やかな時を過ごす都子は美しく、幸せそうで、しかし彼女の想いに応えられない自分が一緒にいて本当に幸せなのだろうかとも考えた。
暫らく歩いた後、二人は木陰に腰掛けて湖を眺めていた。
不意に、羽鳥の手に温もりが加えられた。目を遣ると都子の手が重ねられている。
「…羽鳥様、最後の我儘を聞いてくださいますか」
都子が真剣な目を向けた。
「接吻してください」
羽鳥は思わず目を見開いた。女性の言うことではない。この時代、女性がそのようなことを口にするのは、はしたないとされていた。
良家の娘である都子がその台詞を口にするのは、どれほどの勇気がいたことだろう。
都子の瞳は潤んで揺れ、手は小刻みに震えていた。
羽鳥は、彼女の願いを聞き入れた。
目を開けた羽鳥の前で今にも泣きそうな都子に、羽鳥はもう限界だと悟った。
「…戻りましょうか」
努めて冷静な声で羽鳥は言った。都子の答えを聞かずに立ち上がる。
これ以上、彼女と一緒にいるのは、誰のためにもならない。
背中に都子の視線を感じながら、羽鳥は振り向かずに歩いた。彼女が自分に縋らないことも知っている。彼女の我儘が、これで最後だということも。
一人で別荘に戻った羽鳥を待っていたのは、二人の運転手を勤めてくれた理人の使いの者だった。
窓辺にもたれかかって外を眺めていた彼が、羽鳥に視線を向けた。まるですべてを見透かすような、深く黒い瞳が羽鳥を捉えた。
「中途半端な優しさなら、何もしない方がマシだ」
男の低音の声が羽鳥の胸にずしりと響く。
「…わかっています」
羽鳥はうつむいて答えた。
その答えを気に留めた風でもなく、男は独り言のように呟いた。
「何も、リヒトの悪趣味に付き合ってやる必要はない」
そう言い捨てて男は部屋を出て行った。男の台詞は充分に意味深だったが、羽鳥はそれとは違うことを考えていたので、それには気付かなかった。
羽鳥が考えていたのは、都子と、自分のことだった。
自分の優柔不断さが彼女を傷付けている。
彼女とは、距離を置くべきだ。
───あの家とも。
ずっと考えていたことだった。
あの家を出て行くことを。
大切に大切に育てられ、何不自由なく与えられてきた。
けれど、溺愛する母に、厳しい父に、両親の望み通りに振る舞う兄に、どこか反発したいところがあって、自分の居場所に違和感さえ持っていた。
もっと、いろんな世界を見てみたい。
あの家の、狭い世界から飛び出してみたい。
空を求める鳥のように。




