gray in the dark 01
「ごめんね、知らなかったの」
彼女は言った。可愛らしく手を合わせて首を傾げて。
知らないということは幸せなことだ。
だが、知らないことは罪でもある。
知っていて起こした行動なら、そこに意図があるから、それに対抗のしようもある。けれど、知らなくてしたことには悪意がない。その分、相手の非を責められなくなる。責めれば、まるでこっちが心の狭い人みたいだ。
知らなければ、姉の彼氏だって奪うことを許される。
彼女は、いつも要領よく立ち回り、いとも簡単に私が欲しいものを手に入れる。やっと私が手に入れたものさえ、いずれは彼女の手に渡る。それがまるで妹の特権とでも言うように。
今回だってそう。私が片思いを経てようやく付き合いだした彼をいとも簡単に奪った。勿論、私という彼女がいながら他の女に傾いた彼も悪い。彼を繋ぎとめられなかった私も悪いとは思う。
けれど、彼女は…妹は、それを「知らなかった」で済ませた。私の彼だと知らなかったと。好きになった人がたまたま私の彼だったのだと、まるで不倫している女の言い訳のような都合のよさで。私から大切なものを奪うことに何の気まずさも感じないかのような軽い感じで。
「…そう」
喧嘩するのも面倒になってその一言で済ませた。喧嘩するだけ無駄だ。誰でも、いつでも、妹の肩を持つのだから。小さい頃は「お姉ちゃんだから」という理不尽な理由でいつも我慢を強要されてきた。大きくなっても家族内でのその図式は変わらない。多分、世間的にも。
兄弟の年長者が我慢するのは、長く生きている分、親に可愛がられている期間が長いからだとか、自分が小さい頃には我儘が許されたのだから、より小さい者が生まれた場合には我儘の権利を小さい方に譲るべきだとか、そういうもっともらしい理由を聞いたことがある。
けれど、三つしか違わない私達において、私に我儘の権利が許された期間と妹の期間では大きく違う。私には三年しか許されなかったその期間が、妹には十数年許されている。
それは、不公平ではないの?
不平を唱えれば、多分、私の心の狭さが露呈するだけで、結局何の解決にもならない。それならいっそ、口を閉ざした方が賢明だ。
妹といつでも比べられ、妹はいつでもその愛らしさを褒められてきた。それに対して私が褒められるのは、我慢強さでしかない。仕方なく閉ざしたその口を褒められるなんて、何て皮肉だろう。
人は、何でも比べずにはいられない。品質や値段、ブランドの価値、そして、人の優劣さえも。例えばそれは、見た目の美しさだとか、学歴だとか、ファッションセンスだとか、持ち物の値段とか、その人が属するもののネームバリューだとか、その人の隣に立つ人の素敵さだとかで判断される。
華やかな彼女を誰もが求めるのを、私も解る。
ずっと、羨ましいと思っていた。華やかで愛らしく、無邪気で天真爛漫。それは時に、憎たらしくなるほど。
帰りたくないなぁ…。
バイトからの帰り道、のろのろと歩きながら思った。バイト先から駅へ向かう間に通る繁華街はガラの悪そうな人たちもいて、いつもなら怖くて早足で抜ける道だった。今日は時間稼ぎにゆっくり歩く。急いで通り過ぎるいつもなら、気にもならない繁華街から外れた路地の暗さが少し怖い。でも、家に帰る憂鬱さを思えばあんな暗さ、心に掛けることはない。
妹とあんな一件があって、両親の前では心配させないよう何でもないように振る舞っているけど、家に帰るのを躊躇するほどには私はダメージを受けていた。
妹は社交的で友達も多く、家に籠りがちな私と違って外出していることが多い。けれど、外で会う確率よりも家で会う確率の方が高い。なるべく顔を合わせたくなかった。
私にだって、それくらいの我儘は許されていいはずだ。
でも、いざ何処に行こうかと考えても私には行くところもない。友達がいないわけじゃないけど、突然行っては迷惑だろうし、かといって既に暗いこんな時間に街を一人でウロウロする勇気はない。マンガ喫茶で時間潰しじゃ、ちょっと気が滅入る。
一人じゃなくて、でも独りになれる場所…。
何処かにないだろうか?
そしてふと、足を止めた。そういえば、さっき…。踵を返して来た道を戻る。
あった。
立ち止まって目的の場所を見つめる。
繁華街を抜けた脇道に、ひっそりと設けられた黒いドア。小さな灯りに照らされた、地下へと続く階段の先。繁華街の明るさとは対照的に暗い路地。そこに紛れるように佇む一軒の店。
周りの雑居ビルとは異質な空気を醸す、そのドアに、吸い込まれるように階段を降りてドアに触れた。
ドアの脇の小さな灯りで、ドアにかけられたプレートに「OPEN」の文字が浮かび上がる。
押し開けたドアの向こうから、人の熱気のようなものが漏れてきた。暗い店内に色とりどりの照明が回る。ざわめく人の群れが、奥に見えた。
「いらっしゃいませ」
まだ十代くらいの若い店員に声を掛けられ、中に促された。ドアを閉めると、大音量でかかる曲と人のざわめきの中に紛れ込んだような気分になった。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
カウンターの中からバーテンダーが声を掛けた。綺麗な顔で微笑まれて、どう反応していいのか困る。
カウンターでは何人かが椅子に座ってお酒を飲んでいた。まだ空席はあったけど、あんな綺麗なバーテンダーの傍では緊張してお酒も飲めそうにない。私は奥に広がるフロアーへ向かった。
ひしめき合うように踊る人の間を縫って空いている席を探し、そこに落ち着いた。さっき声を掛けた若い店員にサワーを注文して、踊る人たちを眺めていた。
たくさんの人がひしめき合って、楽しそうにしている。けれど、こんなにたくさん人がいるのに、誰も他人を気に掛けない。自分の世界に入り込んでいる。
一人じゃないけど、独りになれる場所。
その心地好さに身を任せて私は暫く座っていた。
「ねえ、かーのじょ、一人?」
数人の男の子がやってきて笑顔で話しかけてきた。これがナンパってやつ? 街中でナンパなどされたことのない私も、こういう所ではナンパされるのだろうか。
ぼうっとしていると、男の子たちは次々と質問してくる。どこから来たの? 何歳? 学生? どこの学校? 彼氏はいるの? 名前は? なんで一人でいるの?
突然話しかけられた驚きと、不慣れな状況への緊張と、やたらと馴れ馴れしい彼らへの警戒で、どの質問にもまともに答えられなかった。
「なあ、黙ってないで何か答えろよ」
さすがに退屈したのか気分を害したのか、笑顔の裏の顔をちらりと見せて男の子の一人が言った。
「お前らが寄ってたかって質問攻めにするから、怖くて答えられないんだろ」
男の子たちの背後から声がして、背の高い男が現れた。服装からして店員のようだ。
「カザキ」
男の子たちが口々に店員の名を呼ぶ。
「ごめんね、こいつらマトモにナンパもできなくて」
私に笑顔を見せて謝ってから、男の子たちを自分の方に呼び寄せて言う。
「バカだな、お前ら。何で独りの子を狙うんだよ。男四人で行ったら警戒されるに決まってんだろ。第一、四人で一人落としてどうするんだよ?」
あ、そうか。と男の子たちは顔を見合わせた。
「あっちに四人連れのイイ女がいたから、そっち行けよ」
マジで? どこどこ? と男の子たちは完全に私の存在を無視して、振り返りもせずに教えられた方へと消えていった。
男の子たちが去り、店員は高い位置から私を見下ろした。
「あんたも、今日は独りでいたい気分なの、くらい答えてやればいいのに」
私は背の高い店員を見上げた。
「別に独りが好きなわけじゃないわ」
「でも、誰にも干渉されたくないって顔してる」
私は店員を睨みつけるように見やった。黒い瞳がこちらに視線を返す。
「まあ、そういう日もあるさ」
そう言って店員は少し微笑み、私に背を向けて人込みに戻っていった。
…でも、彼の姿は人込みに消えない。紛れない。店内を時折照らす眩い照明に、彼の姿が黒く浮かび上がる。
光が強ければ強いほど、黒く、暗く、浮かび上がる影。
色を奪う強烈な光の中で、彼の黒い影だけが色を保っていた。
2006年初出。




