skyscraper 01
憧れの街。
ここへ来れば、憧れが手に入ると思っていた。
「お昼行ってきまーす」
昼の休憩で外に出ると、朝は晴れていたのにいつの間にか曇り空だった。空を眺めて小さく溜め息をついた。
さっき見送ったお客さん、今月二回目の来店で今日も何か物言いたげに帰った。気に入らないところがあるなら言ってくれればいいのに。数少ない指名客に愛想つかされないよう頑張ってるのに、やっぱりまだ私の技術じゃだめなんだろうか。
「カリスマ美容師になる!」
とタンカを切って上京してきて早数年、念願の美容師にはなれたけど、カリスマには程遠い。カリスマ美容師という言葉は今となっては死語だけど、彼等のように鮮やかな手つきで人を美しく変える姿に憧れて美容師になった。
憧れには、まだ遠い。
不意に、携帯電話が鳴った。着信は実家だ。
「もしもし」
電話に出ると母親の声がした。
「どうしたの友里、疲れた声出して。仕事大変なの?」
「別に、そういうわけじゃ…」
何でもない風を装って答える。
「仕事もいいけど、たまには帰ってきなさいよ。お父さんも心配してるからね」
父の話題に沈黙した。
父親は私が上京することを最後まで認めなかった。美容師なんて地元でもなれる、東京なんて行かんでいい、そう言って私の夢など聞かずに怒ったのだ。結局、母の口添えもあって何とか勘当は免れたのだけど、今でも父とはまともに会話をしていない。
「お父さん、何も言わんけど、あんたのことを心配しとるんよ。あんたと似て意地っ張りやけんねぇ、平気なふりしとるけん、本当は帰ってきて欲しいんよ」
母の懐かしい優しい声に弱音を吐きそうになる。でも、強がることが正しいことに思えた。
「…帰れないよ、仕事忙しくて休み取れないし」
実家に帰れば、その温かさに甘やかされて東京に戻ってこれなくなる気がした。親の反対を押し切ってここへ来たのに、親の優しさに甘えるなんて許されないと思った。ちゃんと一人前になるまで実家には帰らないと、上京したあの日決めたのだから。
「そう。あんまり無理せんと、ちゃんと休むんよ。ご飯もちゃんと食べてね」
「うん、わかってる」
じゃあ、と電話を切って再び溜め息をついた。
帰りたい、と一瞬でも思ったことを悔いた。ここでしか憧れは手に入れられないと思ってここへ来たのに、ここから逃げ出そうとしている自分の弱さを恥じた。
見上げれば、聳え立つ高層ビルと首都高の高架の合間に灰色の空。どんより垂れ込めた雲が憂鬱に拍車を掛ける。
けたたましいクラクションが上から聞こえる。渋滞した首都高からだ。いつものろのろと動く首都高は、もはや高速道路という名を持つことすら詐欺のように思えた。
すんなり進まないことが判っているのに、皆、何処を目指して首都高に乗るのだろう?
渋滞の首都高、曇り空を映した灰色のビル。
色褪せる、憧れの街。
閉店後、少しでも技術を磨くために居残りして自主練するのが日課になっていた。先輩や同僚が手伝ってくれたり、アシスタントの子の練習に付き合うこともあるけど、今日は一人だった。
練習中も気になるのは今日のお客さん。何処がいけなかったのかと考え込む。希望通りにしたつもりだったのだけど。
一人だと余計なことまで考える。もしかして、担当を私から他の人に替えたかったのだろうか? 言い出しにくくて結局言えずに帰ってしまったのだろうか?
一緒に店に入った同期には、既に何人もの指名客がいて、毎日予約で一杯の人もいるというのに、私ときたら一日何人か予約が入ればいい方で、受け持つのは新規のお客さんばかり。そのお客さんがつけばいいけど、世の中そう上手くはいかない。
もしかして、この仕事に向いてないんだろうか?
弱気な考えが巡る。
仕事がハードで手荒れも酷いし、体を壊してアシスタントで辞めていった人も見てきた。接客業で気を使い、職場の人間関係に疲れて辞めてしまった人もいる。幸い体も皮膚も精神も丈夫だった私は美容師になることができた。職場の人間関係も良好で、今の店に就職できたのはラッキーだったと思う。
仕事もやりがいがある。
なのにまだ、憧れには遠い。
自主練を終えて店を出る頃には既に夜は更けていた。家への近道に繁華街を通って帰る。酔っ払いの多い繁華街は治安がいいとは言い難かったけれど、人気のない暗い夜道を帰るよりは明るい分マシだった。
ネオンの間を足早に通り抜けて家路を急ぐ。
眠らない街には湿った空気が漂っていた。昼の曇り空を思い出して憂鬱になった。今にも雨が降りそうな重く垂れ込めた雲。心まで重くする。
「…家まで降らなきゃいいけど」
そう呟いた途端、見事に期待は裏切られた。
暗い空から雨粒が降り注いできた。最初はパラつく程度だったので、このまま走って帰ればそんなに濡れずに済むかと思った。けれど次第に雨足は強まり、歩いても走っても濡れる状態になった。
雨に濡れるには、まだ少し肌寒い季節だ。風邪など引けば仕事にも影響する。慌てて雨宿りの場所を探した。
繁華街は飲み屋や風俗店が多くて屋根も少なく、雨宿りの屋根を貸してくれるような店は少ない。
少し走って路地に目を向けた。
小さな屋根が目に入る。地下へ続く階段の先、黒いドアの上に小さな屋根が見える。人気のない路地へ走って階段を降りた。ドアの脇の小さな灯りでドアに掛かったプレートに「OPEN」の文字が浮かび上がる。雨に濡れて少し寒かったので店に入ることにした。
黒いドアを少し開けると、人の声のざわめき、店内に流れる音楽が漏れ聞こえた。暗い店内は色とりどりの光で時折照らし出される。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
ドアの隙間から声を掛けた店員と目が合った。長身の店員は微笑すると私に背を向けて、いくつものグラスを乗せたトレーを手に人込みに向かった。
ドアを押して店内に入る。背後で閉まったドアが湿った空気を遮断して、外の世界と店とを隔てた。
2005年初出。




