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3A.M.  作者: 如月 望深
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夜の気配

羽鳥の過去(未明01)頃のお話。



 ──それでも、確かに救われた。



 舞踏会から帰ってきた理人は上機嫌だった。着飾らせて一緒に連れて行った朔羅にお茶を入れるよう命じて部屋に着替えに行った。すぐさまいつものメイドスタイルになった朔羅が熱い紅茶を風生の分も淹れてくれた。

 部屋から戻ってきた理人は風生の前のソファに優雅に座り、かぐわしい紅茶に口をつける。

「何か収穫が?」

 尋ねる風生に理人は微笑んだ。

「ちょっとね、旧知に会ったんです。驚いたことに、なかなかの名家の後妻になっていて、お陰で計画が立てやすくなりましたよ」

「計画?」

 またいつもの悪い癖が始まった、と風生は眉間に皺を寄せて理人を見やった。

「水神家ってご存知ですか?」

「ああ、あの、長男がもうすぐ万里小路までのこうじの令嬢と婚約するとか」

 水神家は、近頃力をつけてきている財閥だ。由緒正しき貴族である万里小路との婚姻で身分を手に入れようとしていると噂されていた。

「そう、その水神家の次男を舞踏会で見かけたのですが、これが興味をそそる少年でして」

 紅茶で口を湿らせて、理人はカップをソーサーに戻す。

「いい退屈しのぎになりそうです」

 笑みを深めた理人は、一見すると優美な微笑の持ち主だが、風生には、獲物を見つけた獣が舌なめずりをしているようにも見えた。


 果たして理人は舞踏会で水神家の長男総一郎と接触し、彼の友人という立場になった。一方で、旧知のつてで万里小路の令嬢との繋がりも得て、そして目的の水神家次男に近づいた。


 理人は万里小路の令嬢、都子の願いをかなえるためと名目をつけて舞踏会を開き、そこに水神家の次男である羽鳥を呼んだ。

「お招きありがとうございます」

「来ていただけて嬉しいですよ」

 礼儀正しく挨拶をする羽鳥に、理人は微笑を返した。

「この度は、ありがとうございました」

 羽鳥と一緒に舞踏会に出席したいという都子の夢をかなえるために、都子の婚約者で羽鳥の兄である総一郎が仕事で不在の日を選んで理人は舞踏会を開き、羽鳥に都子をエスコートするよう仕向けたのだった。

「いえ、都子様も楽しんでいってくださいね」

 美しい微笑を都子にも向けて、理人は二人をダンスフロアへ送り出した。主催者である理人のもとには、様々な人が次から次へと挨拶にやってくる。

「理人」

 華やかな空気を引き連れてやってくる女性に、理人は微笑んだ。

「いらっしゃい、多華子たかこ様」

 理人より少し年長の女性は、美しい黒髪をまとめ上げ、黒いドレスに身を包んでいた。一緒にいる若い女性は淡いピンクのドレスが初々しい。

義娘むすめ美聡みさとです」

 そう紹介された少女は、理人の微笑にうつむきながらもちらりと盗み見て、思い出したように慌てて頭を下げた。

「風生、美聡様のお相手を」

 理人は近くに控えていた風生を呼んだ。風生は理人とその隣の女性に目をやって、それから美聡に微笑みかけた。

「一曲踊っていただけますか?」

 差し出された手に戸惑いながらも、多華子が頷くのを見ると美聡はその手を取って風生とともにフロアへと進み出た。そこでは既に何組ものカップルが踊っている。その中に、羽鳥と都子の姿もあった。

「あの子が狙いってわけ?」

 多華子の視線は羽鳥に向けられていた。

 万里小路の令嬢と引き合わせてくれなんて言うから、てっきり都子様が狙いかと思ったら、あなたの狙いは彼のほうなのね、と多華子は面白がっている様子だ。

「いい眼をしているんですよ。ちょっと触手が動きましてね」

 その言い方じゃあ、あらぬ誤解を招いても仕方ないわよ、とからかい、多華子は視線を羽鳥から風生へと移した。

「彼は、あの時の…よね」

「ええ」

 理人は多華子に合わせて自分の視線も風生に滑らせた。

「まだ一緒にいるの?」

「彼をこちら側に引き入れてしまった責任の一端は僕にありますからね」

 あの時近づいたのは、今と同じ、ただの気まぐれな興味からだった。満たされているはずなのに満たされきれずに、強く何かを求めるその瞳に、退屈しのぎに近づいたのだ。

 それが、彼の人生を狂わせるかもしれないと、知っていた。

「少し気になっているんです。彼のまとう空気が、あの時の風生に似ているんです」

 今も、知っている。自分の存在が、彼の人生に影響するであろうことを。けれど、心のどこかで、そうであって欲しいと、しかし何とか水際で食い止められるのではないかという期待も抱いていた。

「もしそうなったら、責任を取ることね。不安定とはいえ、一応は保たれていた均衡を崩したのは、あなたなんだから」

 多華子は、美しい唇に妖艶な笑みを浮かべて理人へ向けた。

「ねえ、輝羅かぐら

「今は多華子よ」

 彼女の本来の名を口にした理人を諌めたが、咎めている風ではない。

 名門華族である支倉はせくら家の当主に後妻として迎えられた彼女は、今は多華子と名乗っていた。当主は昨年亡くなり、未亡人となったが、今でも義理の娘と息子たちと支倉家に暮らしている。

「あの時の僕も、あんな風に危うい空気をまとっていたんですか?」

「さあ、ずいぶん昔のことだから、もう忘れたわ」

 理人の質問に答える気はないようで、多華子は風生とダンスを楽しむ義娘に目を向けた。「一曲お相手願えますか」と理人が誘うと優美に微笑んでその手を取った。



 羽鳥が理人のもとにやってきたのは、それから少ししてからだった。

 理人の悪い予感が的中したのだ。

 羽鳥を放っておけなかった理人は羽鳥を引き受けた。理人以外に頼る者もいなかった羽鳥は理人のもとに身を寄せた。


 それから間もない頃、ある日、理人の不在時に風生とともに留守番をしていると、来客があった。朔羅も理人と一緒に出ていたので、羽鳥が応対に出た。

「…あなたは、確か、支倉様の…」

「支倉 美聡です。風生様はいらっしゃいますか」

 名門華族である支倉の令嬢と風生の関係性が見えずに羽鳥は戸惑ったが、どうやら二人が既知であるようなので、招き入れて風生のもとへ案内した。

「風生様!」

 美聡は風生の姿を認めると駆け寄った。

「どうされたのです、美聡様?」

 突然の美聡の訪問に驚いて風生は立ち上がった。

「風生様、お願いです、わたくしを奪ってください」

 突拍子もない申し出に風生は目を丸くし、羽鳥も驚いて二人を見やった。

「兄が、勝手に縁談を持ってきて。このままでは、わたくし、見も知らぬ男の妻にならなければならなくなってしまいます。その前に、お願いです、わたくしを攫ってくださいませ」

 言うだけ言って、美聡は風生にすがって泣き出してしまった。困惑して風生は美聡の肩に手を乗せて、どうしたものかともう一方の手で頭をかいた。

「これは、思いがけないロマンスですねぇ」

 不意に柔らかな声が戸口から聞こえた。理人がいつものように微笑をたたえて風生と美聡を見つめている。

 羽鳥が手短に事情を説明すると、頷いて理人は二人に歩み寄った。

「美聡様、まずは少し落ち着いてください」

 理人は振り向いて、お茶を用意するよう朔羅に命じた。

 朔羅が出した紅茶を前に、四人はテーブルを囲んでソファに座った。お茶を飲んで少し落ち着きを取り戻した美聡が説明をする。現在の当主である長兄が、華族の男と勝手に結婚話をまとめてきたのだが、それを承服しかねて家を飛び出してきたのだという。

「このままでは、意に沿わない結婚をしなければいけなくなってしまうんです」

「しかし、だからと言って、つい先日会ったばかりの風生に助けを求めるのは筋違いというものではありませんか?」

 理人の口調は柔らかいが、言葉は容赦がない。

 美聡と風生は先日の舞踏会で会ったばかりだ。理人が風生に美聡の相手を命じたから、ダンスをしたり談笑したりと一緒にいる時間は長かったが、そこに風生が美聡を望まぬ結婚から攫う理由はない。

「多華子様にはご相談されましたか?」

「いえ。多華子様は、兄の決定に何もおっしゃいませんでしたから」

「多華子様は、亡き先代ご当主の妻とはいえ後妻。しかも現在のご当主は美聡様の兄上ですから、ご当主の決定に口を出すのは憚られたのでしょう」

 諭すように理人は美聡に言う。

「けれど美聡様がその結婚を望んでいないとお話になれば、多華子様はきっとお味方になってくださるでしょう」

 一度家に戻って多華子に相談するように促され、美聡は先ほどよりも落ち着いたらしく、失態を詫びて「突然お訪ねしてご迷惑をおかけしました」と去って行った。


「残念でしたね、カザキ」

 朔羅が美聡を送っていくのを見届けると、理人は風生に微笑を差し向けた。

「せっかく僕から離れられる好機だったのに」

 理人の言葉に風生は眉を動かした。

「いいんですよ、美聡様と逃避行をしても」

 理人の美しい微笑からは、感情は読み取れない。風生はじっと睨みつけるように理人を見やっていたが、やがて、静かに口を開いた。

「ここにいると決めたのは、俺の意思だ」

 風生を見つめ返す理人と風生の視線が絡み合う。まるで火花でも散らし始めかねない視線の応酬に、ハラハラと羽鳥は二人の様子を窺った。

 そこへ、朔羅が荷物を運んでほしいと風生を呼びに来て、風生は立ち上がって理人から視線を外した。風生は朔羅とともに部屋を出ていく。家のことは朔羅が担っていたが、力仕事は風生の担当だった。

冷泉れいぜん様…」

「リヒトでいい、と言ったでしょう」

 羽鳥が声をかけると、理人は相変わらず綺麗な笑顔で応えた。

「…リヒト、美聡様のこと、僕は少し可哀想な気がするんだけど…」

 羽鳥は美聡に都子の姿を重ねていた。叶わぬ想いを胸に秘め、美しく笑う女性ひと。理人は羽鳥が美聡に同情する理由を知っているので、「そうですね」と優しく頷いた。

「でも、あんな昨日今日出会ったばかりの女にカザキを奪われてはたまりませんからね」

 先ほど風生に掛けたのとは相反することを口にする理人を、羽鳥は少し戸惑って見やった。その視線に気づいたのか、理人は微笑んだ。

「僕は、カザキに共にいることを強要したことはありません。ここにいるのは自分の意思だとカザキは言いました」

 古くからの友人というには少し奇妙に思える二人の関係に、羽鳥は言葉の続きを待った。

「だから、自分の意思で去ることもできる」

 一瞬、理人は表情を消して、自分に言い聞かせるように言った。

「あなたも、ここに留まることも、去ることも自由ですよ」

 理人は羽鳥に微笑を向けた。その微笑はどこまでも美しく、どこまでも優しく、どこまでも透明で先の見えない闇のように感情を隠す。

「さて、少し出かけてきますよ」

 にこりと微笑んだ理人は立ち上がり、部屋を出ていった。


 用事を終えて戻ってきた風生は、理人の姿が見えないので辺りを見回し羽鳥に尋ねた。「理人は?」「さっき出かけたよ」羽鳥が答えると、風生は質問を重ねた。「どこに?」だが、理人は行き先を告げてはおらず、羽鳥には心当たりはなかった。

「きっと支倉様のおやしきだと思うわ」

 首を傾げる羽鳥の代わりに質問に答えたのは、新しい紅茶セットが乗ったワゴンを押してきた朔羅だった。

「理人は優しいから、ああは言っても放っておけないのよ」

 冷めた紅茶のカップを下げ、朔羅は新しいカップに熱い紅茶を注いだ。それを風生と羽鳥の前に出すと、朔羅は下げたカップをワゴンに乗せて部屋を後にした。

 風生は熱い紅茶を啜って息を吐きだした。

「あいつは、変なところで不器用だからな」

 その呟きが誰のことを指しているのか訊かなくてもわかった。

「あいつの優しさは、だいぶ分かりにくいだろ?」

 思わず羽鳥が正直に頷くと、風生は笑った。

「でも、俺は、」


 たとえそれが、天から降ろされた蜘蛛の糸のように頼りないものでも。


「──救われたんだ」



 あなたが悪いのよ、私の愛をないがしろにして、この手から逃げていくのなら、いっそ、このままずっと私のものに……。

 目を閉じれば耳の奥に響くのは自分を責め立てるあの人の声ばかりで、抗うことも許されずにじっと耐える。

「ねえ、羽鳥、私と一緒に行きましょう」そう誘う唇は妖艶にうごめいて、その手が羽鳥の腕を絡めとる。

 息がつまり、息苦しさに腕を払った。

「…は…っ…」

 目を開けたそこには暗い天井が見えた。ベッドに横たわる自分の全身がじっとりと汗ばんでいるのを自覚できた。上半身を起こした羽鳥は、乱れる息を整えるように深く溜息をついた。あれから、ずっとこんな夢ばかりを見る。

「ハトリ? 大丈夫ですか?」

 戸口から光がさして、理人が顔を出した。

「うなされていたみたいだから」

 部屋に入ってベッドに歩み寄った理人はベッドの端に座り、汗で頬に張り付いた羽鳥の髪を指で取り除いた。

「…ごめん、起こした?」

 隣の部屋の理人が起きてくるなんて、どんなうなされかたをしたのだろうと羽鳥はぼうっと考えた。

「いえ、いいんですよ。僕はもともと眠りが浅いんです」

 すぐ近くにある理人の顔が優しく微笑む。

「嫌な夢でも見ましたか?」

「うん、ちょっと…」

 理人の手が髪を撫で、そのまま後頭部に添えられた手に抱き寄せられた。羽鳥は理人の肩口に顔を埋める形になった。

「少しの間だけ、すべてを忘れてしまいなさい」

 耳元近くで囁かれる声は優しく甘美な響きを持って羽鳥をいざなった。目を閉じれば、触れたところから広がる闇に溶けていく感覚にとらわれる。何もないまっさらな闇は、羽鳥の心に巣食う後悔や悲しみを解き放って安寧を与える。


 この人は、夜に似ている。


 すべてを呑みこみ、すべてを寛大に受け容れる、深遠なる闇。

 そして、そこに寄り添う月明かり。


 それはまるで、深い森に射す、一筋の光──。

2009初出。一度蔵出し作品に戻りましたが、再びストック切れです。

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