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みどりのこども

緑の神様と夏の夜

作者: 藤崎周

舞台は日本。大正時代、長い石段を登った先にある神社の少年の姿の神様と人との関わり。和風ファンタジー。




 序章


   (ひわ)




 春



 これは再生の物語。



 生きることは苦しみであり


 人はこの世に生まれ出でた瞬間から傷を負い


 痛み、また新たに傷つき


 苦しみの中生きていく


 生きるしかないのだ。






 ひわ、と呼ばれる豊穣の鳥がいる。雀ほどの大きさで丸くふっくらとした、黄みがかった緑色の鳥である。

 新緑の髪、深い森の緑の瞳を持つ少年の姿をした()()はその鳥の名で呼ばれるようになった。

 鶸の姿は、人間でいうと9才ほどの背丈で、袴を履かない着物からのぞく手足は細いが健康そうで骨はしっかりとしている。皮膚は艶やかで、乳白色の鯨の骨のような色である。

 風がなびき、まだ幼さののこる柔らかく丸い頬をそよと掠める。

 人、ではない。天狗、と呼ばれた時期もあった。いつからか「あそこに住まうのは 少年の姿をした神」と地元の民に言われるようになりそれが定着した。

 どちらにしても、信仰というのは面倒なもので、人々が神だと信じ社を建て祭れば、神としてそこに縛り付けられてしまう。

 お陰で彼はかれこれ400年以上もここに住まうはめになっている。

 夫婦杉の間をくぐり、長く続く石段を登ったその先の茅葺きの大きな社。

横には彼の使いのカラスのための小さな祠も建てられている。

 人々に神として祀られるようになってから、 なんとなく彼が役割として自覚したのは、災いから人々をまもること。彼はそれを生業とすることにした。

 今日も参拝者が願いを持ってやってきた。

鶸はこの社は長い長い石段を登りきった所にあるというのにご苦労なことだと息を吐く。

 参拝者は手のひら程の正方形の和紙に願いを息とともに吹き込み、烏の形に折り神前に捧げる古くからの習わしだ。これもいつの間にか定着していただけで、本当は祈り方は何でもいい。ただ祈る、それだけでも通じるのだ。


『願い』

弟の目を治してほしい、それがその男の願いだった。

 願ったにもかかわらず、男自身が予想していた通り、社から何の反応もないことに小さなため息をつき肩を落として 帰ろうと踵を返したその瞬間、

「病かい?」

 背にした社の方から少年の声がした。

 男がぱっと振り返ると、そこには少年がいた。

 社の横の大樹の根元の芝の上に胡座をかいて 踝を両手で押さえる形で、まるでさっきからそこにいたようだ。

 年のころは9つだろうか。生成りの着物に藍色の細い帯を腰に巻いている。つんと通った鼻筋の整った顔立ちに、筋肉がつく前の少年らしい細い手足。この時期の子供にしては日に焼けていない。

色が白い、というのではなく血色も良く健康そうな乳白色の肌だ。地元の子供は今の時期、日に焼けて真っ黒だというのに、その落差に違和感を感じる 。

 さらにそれ以上に異質なのは髪の色。緑なのである。少し癖がかった柔らかそうな短髪はあちこちに跳ねていて新緑のような緑色だ。いたずらっぽい光を宿すその両目は智力をたたえ、深い森のような色合いだ。異質なのに、あまりにも自然に、確かにそこに存在している人の形をした何か。その存在自体がやさしい光の粒子を纏っているかのように明るく、目が吸い寄せられる。

 これは人ではないと瞬時に悟り血の気がひく。もしかしたら神を語る鬼かもしれないとも思った。しかし、今は神でも鬼でも藁にでもすがりたい気持ちだった。

 唾を飲み込み、意を結して話しかける。

「貴方がここの、神だろうか。」

「さあ?神と呼ぶやつもいれば鬼だというやつもいる。とりあえず、ここは俺のために建立されたんだからここの主なのは間違いないさ。」

 少年はあっけからんと答えた。

神の声として想像していたよりは現実的な明朗快活な声であった

「ならば、社の主よ、願いを聞いて欲しいのです。」

「弟の目だと言ったね。」

「そうです。弟…睦月(むつき)目が見えなくなりました。昨年ある日を境に突然急に見えなくなったそうです。 医者に見せても原因はわからず、そして見えないはずの目の瞼の裏に金魚が見えると言うんです。」

「金魚」

 くしゃりと自らの柔らかそうな緑の髪の毛に 右手をやり少年は頭を抱えた。思い当たる節があるようだ。

「はじめは私も弟が幻覚を見ているのかと思いました。けれど、目は閉じたまま開いていない。一年前まではたしかに見えていた目が、一度も開かず、以来瞼の裏に金魚しか映さなくなってしまったというのです。」

「弟が言うには、瞼の裏に映るのは普通の金魚ではなく、尾が長く鱗は虹色で万華鏡のように模様が変わるとのことです。」

少年は、 眉ねにシワを寄せて考え込んだ。

 そして口を開く。 

「虹色の鱗に長い尾。」

「神の叡智をもって、治療法を教えていただきたく馳せ参じた次第です」

「そうだな、原因は分かる」

「ならば!」答えも得られるのでは、と少年に身を乗り出し詰め寄る。

「あぁ、治療法も分かる。金魚は夏の神の仮姿さ。立秋の祭りの日に境内に人が入ると、本来なら秋の季節神と交代で水の中で眠りにつくはずが、瞳の中の水分に吸い寄せられ中に入りこむことがある。それにはいくつかの要件があるんだが、たまたまその要件に君の弟が当てはまったんだろう。」

「実は、この地域の夏の季節神が前の夏の終わりからいつも眠る場所にいない。秋の神は入れ替わりでちゃんと秋を連れて来たし、気候に異変もなかったから、気づくのが遅れた。式神を使って探し回ったが見つからなかった。それもそのはずだ。あんたの弟の眼の中にいるんだろうからな。人に入っている神は式神には見つけられないんだ。」

 この地域、ということは、他の地域には 別で季節神がいるのだろうか、という疑問が浮かんだが、男は黙って聞いていた。

「豊年祭りの後、境内に立ち入らないという掟は聞いたことがあるかい?」

 男は、少し考えて答えた。

「それはこの辺の住民皆が守っている暗黙の了解のことですね。ただの古い慣習かと思っていました」

「それには ちゃんとわけがあるのさ。お前の弟はその掟を破ったのだろう。」

「まさか!弟は真面目な性格で、自ら進んで慣習を破るような奴ではないんですよ!?」

「強制力がないのに、なぜ、皆が掟を守れるか考えたことがあるか?」

「いえ。祟りが怖いからでしょうか?」

「それもあるかもしれないが、季節の入れ替わりの神事の際には結界が張られる。結界が張られた場所は人の意識から外れる。皆はなんとなく本能的に神が来てはいけないという場所には行かなくなる。」 

「では何故弟が」

「まれに、本当に希なことだがその神自身と妙に波長の合ってしまう人間がいて、季節換えの神事の際に境内に来てしまうことがあるんだ。」

「弟は波長があってしまった、と。」

 男は愕然とする。

「神に呼ばれたようなものさ。神は現世を愛し、現世で形を保つための器を常に探している。器となる者はなかなか見つからないもんだが、100年に1人くらいは波長の合うやつがいる。」

「では、今まで境内に入ったものはそのあと弟と同じような症状になったということか?」

「色々さ。波長が合っても、本人が神を信じず受け入れねば神は弾かれる、神は信じられねば力が出ない。神が体に入っても平気なやつもいれば、器である肉体や精神が壊れてしまうものもいる。金魚は季節神の現世での仮の姿だ。それしか見えなくなるのはよほど気に入られたか波長があったか、はたまたもともとが信じやすく汚れなく無に近い心であったかだな。無垢であればあるほど神に適合しやすくなる。」

「治るんですか?」

「本人が望めば、治るよ。簡単さ。春から夏に変わる日、春の神と夏の神が交代する。入れ替わりはこの社で行われる。ここに連れてきたら俺が夏の神を外に呼ぶ。ただそれだけのことさ。俺の役割は元々それだからな」

「祭りの日境内に」

 戸惑うように男の瞳が揺らいだ。

「ああ、でもあんたには()()()()()()()()()()()()ね?」

 貫くような瞳で、少年は言った。

「ああ。さすが神様はお見通しなんですね。」

 男をじっと見て、少年は眉をひそめる。

「弟よりも、あんた自身がそう長くない。全身が蝕まれているね。その体で、よくもここまでたどり着いたものだ。」

 痛むだろう、と言いながらふいに少年は立ち上がり、男に歩み寄る。

 少年が立ち上がると、頭のてっぺんが男の胸の高さほどだ。さらに一歩踏み込み、懐に入り見上げるように男を緑の瞳で一目見た後、視線を落とし少年の手のひらで一度だけ男の鳩尾に触れた。

 特に何かされた感じもないのに、体中の激痛が潮が引いていくかのように消えた。

「痛みをとっただけだ。無理はするなよ。それでも、立夏まではもたない。神ですら天命は覆らない。君は、何度生まれ変わっても寿命が短いようだ。どうやって弟を来年の夏にここへ連れてくる?人に頼むか?だが祭りの日にお前の弟以外の人間は結界の中へは入れない。目が見えない弟をどうやって連れもなしで禁域へと案内する?」

 すっと男の懐から下がり、少年は問いかける。心配しているような言葉だが、相変わらず軽い口調は変わらない。そして続ける。

「夏の季節神は、この社でしか出てこない。本来の住処がここにあるからだ。」

 まるで心の内を読んでいるかのように少年はその深緑の瞳で男を見る。男は先ほど少年が言っていた言葉の意味に思考を巡らせ、一つの解の可能性に気づいた。神の役割、願いを叶える神社の噂。ならば、自分が願うべきことは違うのだ。目を治すことは季節と自然の摂理、ならば自分が出来ないことを、願わねばならない。

「お願いします。季節神を戻すのはあなたの元々の役割だと言いましたね。ならば、私が願わずともここに弟がいさえすれば、良い。私が願うべきは目を治すことではなく、あなたに、弟を夏至の日にここへ連れてきてもらうことです。」

 少年は満足げに口端を上げる。はじめからその答えを引き出したかったように。

「願いには対価が必要だよ、だがあんたが差し出すものよりも俺があんたから受け取りたいものがある

。安心しなよ、命じゃない。」

「あんたの名前は?」

白露(はくろ)です。」

白露(はくろ)の『願い』、たしかにこの(ひわ)が預かった。」

 快活な声で宣言する。少年は、(ひわ)というのか、道理で鶸色(ひわいろ)の髪をしていると白露(はくろ)は思う。

 それからまた(ひわ)はじっと白露の顔を覗き込み、右腕を(おもむろ)に掴み持ち上げ、手のひらの下を支える形で右手をとった。白露(はくろ)の右手を繁々と見た後、ぱっと顔を上げた。

白露(はくろ)、後で、うちの使いのものから人の方法で正式に対価を依頼をしよう。ただし、願いを受け取った以上、白露に依頼を断ることは出来ない。なに、あんたにとっても悪い話じゃない。」

 悪代官のような言いように白露はたじろいだが、少年は先ほどと同じで貫くような真っ直ぐな視線で彼を見た後、にっこり笑うと、風がそよぐと同時に姿を消した。


 一礼して神社を後にした白露(はくろ)は、神様は日焼けをしないのだろうか、などと考えていた。

 病に侵されているはずの体から痛みが消えているのを不思議に腕や胸をさすりながら


 神の対価に、心当たりはあった。白露が命より弟よりも重きを置いているものなど、ただひとつしかなかった。


*********


 瞼の裏の金魚


 暗闇の中、二匹の金魚が泳ぐ。虹色の長い尾を闇の中にくゆらせて。

 目が見えなくなったのは夏祭りの日の夕暮れのことだった。

 本当は祭りの日に杜の中に入るのはいけないと知っていたのに、何かに誘われるように足が向いた。

 最後に一瞬見たのは、杜の中にある、 泉の水面下から空へと、夏の日の光が全て収束していくような光の柱。

 その中から何か二つのキラキラしたものが自分の瞳に飛び込んできた。

 夜空の星のようなものが近づいてきた瞬間、咄嗟に瞼を閉じ、開いた時にはもう辺りの風景は見えなくなっていた。

 金魚が見えるのは綺麗だし楽しい。でも 、やはり見えない、というのは不便だ。

ご飯を食べるとき、厠に行くとき、大好きな書も読めない。

 それに、兄の顔も見えない。せっかく遠いところから帰ってきたというのに。記憶の中の兄は柔らかく真っ直ぐな薄い色素の髪を伸ばし一つに結わえた優しい眼差しの穏やかな人だった。性格に反して、着物は極彩色の羽織りだったりしたが、線の細さと端正な顔立ちでそれは見事に着こなしていた。そして、それは恐らく僕の目が見えない今も変わらないのだろう。たくさんの話を聞かせてくれるその声は穏やかだ。

 春になれば桃が視界一面に咲く桃源郷のような場所。裏側に入れる滝。透明な水に宙を浮くように泳ぐ鱒、赤白青黒緑の五色の湖。金色の銀杏が連なる山道。

 旅をしてきた兄の声で語られるそれらの光景だけが、外界と自分を繋ぐものだった。

 目が見えないと、今日が何日なのかもわからない。叫びだしたくなるような孤独が湧き上がってくる。独りなのだと、どうしようもなく他人と自分との間に深い黒い透明な隔たりがあり、泣きたくなるのだ。すると、金魚が一人じゃないというように誘うように尾をくゆらせて瞼の裏で遠くへ泳ぐ。でもそっちへ行っちゃだめだ、と自分でもわかる。向こうの白い世界はきっと人が行くべき場所ではない。

 毎日来てくれる兄の、僕の手の甲に触れる手がだんだんと渇きやせ細っていく。

 重い病なのでは?自分がこんな風になって迷惑をかけているのではないかと、聞くと

「そんなことはない。お前は気にせずちゃんと目を治せ。」と言う。

 目が見えぬ自分の手を兄の手が握った。乾き痩せ細り骨ばった指と手の甲の感触。

「 悪かったな。家のことをお前に押し付けて、好き放題して。」

 柔らかく低い優しい声が耳に響いた。

「立夏になったら、境内へ行くんだよ。境内へ行けば、目は必ず見えるようになるから。」

 それが兄の最後の言葉だった。そしてその日を境に、兄は来なくなった。

「兄は?」と尋ねると

 皆が言葉を濁し、嗚咽を飲み込む。その意味を悟る。葬儀には、「目が見えない跡取りがいては外聞が悪い。」と呼ばれなかった。

 金魚は変わらず瞼の裏で泳ぎ続ける。

 よく動きよく笑っていた兄はもういないのだ、と同時に見えない目から涙が流れた。僕は家督を「押し付けられた」 なんて思ってなかった。兄には、自由でいてほしかった。なんで戻ってきたりしたんだ。戻ってこなければ遠くで少しでも長く自由に生きていられたかもしれないのに。

 その日は涙が枯れるまで泣いた。

 ひたすらに泣きつかれて眠り、起きてお腹が空いたことに気づく。大切な人を失ってもまたお腹は空くし、どんなに悲しくても眠らなければ生きていけないのだと知った。

 そんなこととは無関係に、金魚はまだ瞼の裏でキラキラと泳いでいる。

 それからしばらく空気が(ぬる)くなり、湿気を帯び、蒸し暑くなった頃、

「今日は夏祭りですね。」

 身の回りの世話をしてくれている女中が言い、

「窓を開けますね」と言いながら窓を開けてくれたようだ。室内の空気が動くのを感じた。

「失礼しました」という声の後、扉を閉める音がしてまた廊下を歩いて去っていく音がした。

 それと同時に開け放して風が入ってくる窓の方からピュっというような鳥の声、空気が軽くなった、と感じると同時に、

「迎えに来たぞ。」

 少年の明るい声がした。

「俺は、(ひわ)。君の兄さんから頼まれた願いを叶えるために来たんだ。一緒に、『金魚』が見えるようになった場所へ行こう。」

 手をとられ、手の温もりと有無を言わさぬ明るい声に疑うこともなく、コクりと頷いた。


************

   金魚売りと柄杓(ひしゃく)


 季節が春から夏へ移り行く立夏の日。豊穣の祭りの日である。

 神社の 参道の入り口は提灯で地元民たちに飾り付けられ、 鳥居の前の通りにはりんご飴、水飴、金魚すくい、輪投げ、びぃどろで作られた玉釣りなどの出店が立ち並んでいる 。 まだ蒸し暑い中、浴衣を着た子供たちが お小遣いをにぎりしめ、顔見知りと立ち話をする大人たちをよそに、どこに寄ろうかとそわそわしている。いち早く、 行く店を早々に決めて駆け出す子もいる。

 活気に溢れる通りを歩きながら榊は、 主人を待っていた。

 緑の髪の緑の瞳の少年、すなわち彼の主人が、祭りの中を心許なげに歩いてくる7歳程の少年の手をひいてくる。手をひかれている少年はカラスのような艶やかな真っすぐな黒髪、白い肌に紺の着物をきている。目には薄手の布を巻いていた。時折人にぶつかりそうになるが、目が見えていないはずなのに不思議とぶつからない。鶸が手を引いているせいもあるだろうが、それだけではないだろう。

 鶸は少年から榊に視線を移し、口端を上げる。

「榊、待たせたな」

 少しも悪びれない口調だ。

「貴方なら別にわざわざ迎えに行かなくたっていいでしょうに。」

「なんだ、妬いてんのかい。」

「ばかをいわないでください。この後、石段を再び登る私の身にもなってみてください。」

「形式ってやつが大事なんだよ。歩いて、境内に入らなきゃいけない。」

 神様にも人と関わる折りには守らなきゃいけない手順があるらしい。榊はため息をつく。

「それで、必要なものはそろいましたか?」

「いや、まだだ。」

 つかつかと足早に、境内の石段の登り口に店を構えている金魚売りに「よぉ」と声をかける。

 金魚売は頭に加羅色(からいろ)鬱金香チューリップをさかさまにしたような帽子をかぶった狐のような細い目と顔をした男だった。前髪と横髪の長さは同じくらいで額で真ん中分けになっており、帽子からはみ出た茶色がかった髪は首筋辺りでピョコピョコと外側に跳ねている。背もたれのない低く小さな椅子に腰掛け、しゃがみこむような姿勢で、たらいの中の赤や黒の金魚たちの群生を眺めている。長袖の上に五分袖の着物を着て腰までたくしあげ、下には股引を履いていた。足元は草履だ。

「儲かってるかい?」

 鶸が声をかけると、顔を上げる。鶸とは顔見知りのようで、目元を綻ばせにっと笑う。

「ぼちぼちですなー。神さん、今年もいつもので?」

「ああ、頼むよ」

 鶸は袖口から皮に入った小袋を出し、それを金魚売りに渡す。

 毎度ー、と、小袋と引き換えに腰掛けた椅子の横にあった柄杓ひしゃくを鶸に渡し、細い目をさらに細めて商売人らしく愛想よさげに笑った。

「神さんの持ってみえるのは珍しい上に質が良くてありがたいですわ。しかも神力をまとっているとくりゃ、我々にはご馳走様以上の代物で、市場に出したら争いが起きる。私は食すだけですが、どうか他所に売ったりはなさらぬようお願いします」

「これが希少なのはもちろん心得てる。他所に売ったりはしないさ。これを対価に渡しているのはあんたにだけだ。石喰い、あんたの柄杓(ひしゃく)も作りが良くて助かるよ。毎年同じのが使えりゃもっと良いな。」

「そりゃ、一つをずっと使われちゃ私らの商売上がったりなんで。」

「わかってる。お前ら種族はほんと商売上手だよ。」呆れたように鶸が言う。

「来年も頼んます。」

 小袋を大事そうに懐にしまい、ニコニコと金魚売りは笑う。

 よし、行くか、と鶸が言うと、榊は「背中に乗ってください。」と黒髪の少年の両手を自分の肩にまわさせ、両足を持ち上げた。

「わっ」と少年が声を上げる。おんぶである。

見知らぬ大人の男の人に背負われている、というのは通常ならあり得ないが、そばに鶸がいるからか、少年は大人しい。

「目が見えないのに怖いかもしれませんが、しっかり捕まっててくださいね。


 社の前の鳥居をくぐるころには、榊の足は震えが止まらなかった

「なんでこんな上に社を建てたんだ!」と敬語も忘れて悪態をつく。

「山岳信仰ってのがあるんだろ。まあ俺は森さえあればどこでもいいんだけど。」

 こともなげに鶸が返す。

「だったら平地に建てて欲しかった。」と榊はぼやく。

「じゃ、始めるか。」

 そんな榊のぼやきは無視して、鶸が言う。

「あぁ。」

 榊は息を整えながら返事をする。額からまだ汗が止まらない。膝に手をつきながら、顔だけを上げ、顎から伝う汗を左手の甲で拭った。


 社の西側には大きな石を穿(うが)って造られた苔むした水受けがあった。水は入っていない。鶸はその前の平らな石段の上にのり、先ほど金魚売りから買った柄杓を袖口から出す。

 あの袖はどうなってんだ、と榊は毎度思うが口には出さない。神の御業ってとこだろうと一人納得する。


 なんの変哲もない木の柄杓だった。しかし、鶸が空中で水を掬う動作をすると、ちゃぷんっという音とともに柄杓が透き通った水で満たされていた。


 続いて、その柄杓を渇いた水受けの上で傾けると、水が延々と流れ続けた。どうみても柄杓一杯分を超えた量だ。柄杓から枯れることなく絶えず流れ続けるその水は石のくぼみを満たす最後の一滴が落ちた後、止んだ。


 鶸は少年の額に自分の額をつけ眼を閉じ、祝詞を唱える。

古い言葉でよく聞き取れなかったが、夏の神よ季節はきた、仮の宿からでて、水の恵みを草花動物に与えたまえ、というようなことを言っていた気がする。


 そして、もう一度水音がしたと思うと虹色の金魚が二匹、水の中でゆらゆらと泳いでいた。


それから、金魚たちは何かに気づいたかのように尾を震わせた後、二匹とも水から浮き上がり、わずかな光を残し消えた。



**********


瞼の裏を優雅に泳いでいた金魚たちが、霧散して消えた。


「さあ、目をあけてごらん。」


 目を覆っていた布が取り払われた。恐る恐る、瞼を開くと目の前に圧倒されるほどの四季の情景が広がっていた。


 まるで本物のようなそれらは、4枚の屏風。社の西側の広い庭に並べられていた。


 淡い桜色の花と藤が咲き乱れる春、涼しげに流れる水と楽しげに泳ぐ金魚、たわわになって頭をもたれる黄金の稲穂が広がる豊穣の秋と小鳥たち、 真っ白な雪の中に驚いたようにこちらをみているおこじょと白兎、たっぷりの食材で備えをした家の軒下の 冬の光景。

 祈りが込められた絵だ、と感じた

「これ、は?」

「綺麗だろ。白露が描いたんだよ。」

 四季折々の景色。

こんなにも、魂が揺さぶられる絵は、見たことがない。

 涙が溢れてくる。

兄には、こんなにも鮮やかに世界が見えていたのだろうか。

 鶸がそれから何も言わない様子を見て、横に立っていた男は咳払いし、代わりに睦月に説明する。

「私はこの神社の神主の(さかき)です。私から正式にあなたと白露の家へ依頼を出し、白露自身に屏風の奉納を引き受けてもらいました。当社の奉納目録にも書いてあります。白露の名は後世にもきちんと残るでしょう。今日は神事のため、これらを外に出してますが、今後は社の奥に奉納して、参拝者は誰でも見れるようにする予定です。」

 榊がちらりと鶸を見ると、鶸がわかったよ、というように肩を竦める素振りをみせて説明する。

「今までは、自然の中に帰って眠っていた季節神たちだが、入れ替わりの日に人が来るとどうしても人の方に引き寄せられてしまう。だから、人よりも魅力的な四季の絵を描いてもらったんだ。ただの絵では神は宿らない。 文字通り一筆一筆に魂が込められている。この屏風が朽ちれば、季節神たちはまた自然に帰るし、意図的に人に宿ることもあるけれども、少なくとも睦月が生きている間くらいは保てるだろう。」

「兄が、死んだのはそのせい?」 

 掠れる声で睦月が問うと、鶸は少しだけ目を伏せ、小さく首を振る。

「絵を描き始めたときにはすでに病は取り返しようもないところまで進行していた。体に負担はかかるし、絵を描けば死期が早まるのは本人もわかっていた。それでも、白露(はくろ)は自分の病を治すことではなく、君を守ることを願ったんだよ。そして、白露自身が自分に出来ることとして絵を描くことを選んだ。」

男は弟が平穏に生きられるように願いを、魂を、込めて描いた。

 睦月は穏やかで優しかった兄を思い浮かべる。兄は僕にそういう一面を見せないようにしていたんだろう。

「この屏風の絵は後生に残る傑作だろう?だって、見る人の魂を揺さぶる」

ひわは、睦月の心を見透かすように。緑の澄んだ瞳を向ける。

「君がどれほど辛くとも、痛みを感じても、身が切り裂かれそうであっても、心が散り散りになりそうでも、現世は地獄じゃない。痛みが永遠に続くことはないんだ。苦しんでも、痛みは終わり、人が人の支えになり、癒し、傷を治しながら生きていく。

覚えておいて。この絵はきっと今後、君が死んだ後の世も、たくさんの人の心に感銘を与えるだろうけれど、

この絵を描いた白露が、絵を描くこと以外に唯一大切だったものが君で、君の為に描き、その君はまだ生きている。」

「うん。」

 睦月は涙を手の甲で拭いながら頷く。1日でも長く生きることよりも、絵を描くことを選んだ兄。きっと、後悔はなかったのだろう。そして、彼の愛は今この瞬間、睦月だけのためのものだった。

「見えるようになって良かった。」

 その言葉に嘘はなかった。

「君の姿を初めて見れた。鶸、君すごく素敵な髪の毛と綺麗な瞳だね。」

 睦月は微笑む。漆黒の瞳はひわの姿を映していた。

「なるほど、季節神が気に入るわけだ。異形に先入観なく、素直に自らの心のままに見れる子だな。」

 鶸は、にっと笑う。

「気をつけな、あんたは心が綺麗すぎる。季節神以外にも 好かれてしまいそうだよ。少し苦労をした方が良いね。たくさんの人やものを見てよく学ぶんだよ。」

 鶸は睦月に近付き、頬に両手をあてて、こつんと額と額をくっつける。

「家へお帰り。加護をあげるから、家までは無事に帰れるよ。もう、境内に迷いこまずに帰れるね。」

 いたずらっぽく鶸が笑う。睦月はこくりと頷き、額をおさえるとなんだか温かい。

「ありがとう」

 頂上の鳥居と入り口の鳥居は一直線の長い石段になっている。石段を下りながら睦月は麓で提灯がともり始めるのを見た。空を見上げれば藍色の空に星が一つ、二つと瞬きだす。

 ただ目を開き見れば、世界はこんなにも美しい。



***********


   『春の神』


 長い階段をかけ降りていく黒髪の少年の姿を見送りながら、鶸は考えていた。

 白露に天与の才があると気付き、絵の依頼をしたのは鶸だ。それが命を縮めることになるとわかっていたのに、白露がどちらを選ぶのか知りたかった。否、鶸は知っていた。知っていて選ばせたのだ。

 病の痛みをとる時に、白露の記憶を()()。彼は常に自問自答していた。なぜ生きているのか、なぜ描かねば息もできないほど苦しいのか、描いても、描いても沸き上がるこの衝動はなんのためにあるのかと苦しみ、もがき、彼にとってこの世は業火に妬かれるような地獄だった。

 彼は穏やかな見た目と物言いからは想像がつかないほどの熱情を抱えていた。

 病に侵された体で、何を於いても絵を描くことを選ぶだろうとわかっていた。

 それが弟のためになるのならなおさら。

 白露が病に震える手で筆を持ち、描き続けるのを鶸はずっと見ていた。痩せ細り骨と皮だけになっても描く様子は狂気的でもあり鬼気迫っていた。飢え渇きそれでいて満たされているようでもあった。

 多くの人間は絵など描かずに、働いて生きていければそこそこに生活ができて幸せだろう。けれど普通に生活することを苦痛に感じる人間がいる。

 その者らは常に自分の魂に問い続け作品を作り、表現し続けなければならない。本人や周りの幸せなど関係なく。表現することが幸せなのかどうかもわからずとも、そうせざるをえない。

 運命というよりも、個々の魂のもつ光を放つためなのだろう。魂というのは元来輝かねばいられない性質なのだ。

 生涯、傑作を作り続けられる人間もいれば、性質だけはあるのに、一つもなし得ない人間もいる。全ての人間に均等に才能があるわけではない。他者の魂までを揺さぶるそれを、才能と呼ぶ。魂を揺さぶることに意味があるのかは、わからない。それは必ずしも幸せなことではない。むしろ、なければ良かったという場合の方が多い。

 人は生きているというだけで、ただそれだけで、尊いのに。時に命とは別のものが生死を左右する。道を間違え、人を傷つけ、自らも傷ついて、心の有り様一つで、 転び、起き上がり、生きていく。その姿は滑稽で愚かなのに、人というのは傷ついても傷ついても輝かずにはいられない。

 ふと、思い出す。白露(はくろ)と同じようにボロボロの体で、この社に来た男がいた。その男は信じていた友と妻に裏切られ殺されかけ、路上に放置された様子があまりにも惨めに傷つき酷かったので(ひわ)が拾ったのだ。

『なぜこんなことが許されるのか。』

 男は問いかけた。

『この世に、何も正しいことなどない、許されぬこともない。人々が暮らしやすいように規律があるだけだ。』

(ひわ)は答える。

『じゃあ、神は何のためにあるのか』

『神は人のためにある訳ではない。ただ在るだけだ』

(ひわ)はそう答えた。

『それなら、なんの意味もないじゃないか』

すでに絶望しきったその男は吐き出すようにそう言った。

『そう、意味などないんだ。ただ、存在する。それを信じることで救われるのなら信じればいい』

 納得できない、とその男は怪我が治った後もなぜか神主として居着き、今も隣で鶸の神としての成し様を観察している。


「ところで、気になることがあるんですが、 春の屏風に入るべき季節神はどんな姿をしているんです?」

 かつてのことなど忘れたかのように、飄々と涼しい顔をした榊が尋ねる。汗はすっかり引いていた。

 季節替えの神事の時は現神主である榊ですら神社の中の結界を張った部屋に追いやられ一晩そこで過ごさねばならない。外に神々が張る「人」用の結界とは逆で「神が入れない」部屋というのがある。神社を建立した時の神主が造った部屋らしい。榊にはなんの神通力もないが、どうやら初代神主にはなにかしらの力があったようである。一度、鶸に初代神主について尋ねたら「宮大工がそのまま神主におさまった」と返ってきた。もしかしたら、白露と同じで造ったものに力が宿る天賜の持ち主だったのかもしれない。

「ああ、榊は会ったことがなかったね。」

「もうすぐ来るよ。夏の神と入れ替りだからね。 美人だよ。」

 鶸はニヤリと笑う。今年は、白露の描いた屏風があるから、人も立ち会えるという。すでに屏風の中に入っている神々たちで、絵の力な立証済みだ。

 女神のような美しい人の姿を榊が想像していたその時、のそり、と境内に現れたのは、黒く艶やかな毛並みをもつ小山ほどの大きな四つん這いの、熊だった。



Fin.







何か、読後感爽やかな話が書きたいと思い製作しました。


鶸、金魚売り、榊はもっと書きたい。


6/13加筆修正いたしました。


白露は、病を治して寿命を伸ばすことは望みませんでした。全てを受け入れ生きると本能的に覚悟している人であり、それは鶸もわかっていました。ただ命尽きる寸前まで絵を描けるように痛みだけをとってあげたのです。

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