プロローグ
プロローグ
私はココで終わる――――――
決して長くない人生の幕は下りようとしていた。
暁月咲和の人生は痛みと怒号と嘲笑で満ちていた。ありとあらゆる悪意を混ぜ合わせてできた苦痛の日々だった。
今まで生きてこられたことが奇跡だった。両腕は頭を庇う為にできた痣で埋め尽くされている。赤黒く腫れた右足は数日前に固まって動かない。背中には殴打の痕と消えることない大きな切り傷がある。家にいれば父親に殴られ、父親がいなければ母親に殴られた。
玩具のように扱われ、壊れることが約束された生だった。十五年間と言う、引き伸ばされた苦痛の日々の中で咲和は死んでいった。
生きている実感を抱いたことなどない。
生きていたいと思ったことなどない。
恐怖を抱かなかったことなどない。
死のうと思ったことなど数えきれない。
しかし死ねなかった。
(私に幸せだったことなんて――――――無かったらよかったのに。)
***
夏休みの自由研究の為に図書館を訪れていた私に声を掛けたのは、当時大学生だった彼女だ。
彼女は私が開いている本に興味を持って声を掛けてきた。
私が開いていたのは、「古代オリエント集」と言うものだった。数多くの神話が収録されているもので、少なくとも中学生の私が読むには難解過ぎた。それでも読み始めてしまった手前、本棚に戻しに行くのも億劫でそのまま読み続けていた。
そうして気が付けば、目の前の席に彼女が座っていたのだ。
「それ、難しくない?」
本を指さして彼女は言った。私はそれにびくりと肩を震わせる。
「ごめんね。驚かせるつもりはなかったんだけど」
と、彼女は顔の前で両手を合わせた。
「あ、え…………」
謝れるなんて思いもしなかった私は困惑する。
「でさ、それ、難しくない?」
合わせた手を解いて、再度本を指さした。
「………はい」
小さく頷いた。それに彼女も、うんうん、と頷く。
「だよね。ワタシも読んだけど難しかったもん。と言うか、すごく読みにくかった。だって重いし」
彼女の手元を見ると、ノートが広げられていて、その横には数冊の本が積まれている。
「君、中学生だよね? 千鳥ノ原の」
話題が本から私に移る。
「そう…………です」
「やっぱりね。でもどうして制服? 夏休みだよね? あ、そっか、部活の帰りとか? 勉強熱心だね。いいことだよ、うん。ワタシは勉強嫌いだったからなぁ。夏休みの宿題なんて最終日に追い込みかけてたしね」
「…………」
私の沈黙をどう受け取ったのか、彼女は気にすることなく続ける。
「でさ、何が言いたいかって言うと、一緒に勉強しない? ―――あ、まって、今のなし。だって、大学生が突然中学生に声かけたとか、いくら同性でも事案だよね。ごめん! ほんと含みはないから! 純粋に一緒にやった方が互いの為だと思っただけなんだよ!」
ココが図書館であるということも忘れているのか、彼女は声を大にして何かに抗議している。そんな彼女を司書が睨む。睨まれた彼女は一瞬で、しゅん、となって縮こまる。
「一緒、に……やっても……いいんですか?」
思わず私はそんなことを口走った。
「君がいいなら、ワタシは嬉しいよ。誰かと一緒に勉強って捗るしね。何より、楽しい」
「楽しい?」
「そう、楽しいよ。少なくともワタシはね。君は違う?」
首を傾げて、私に問う。
「……分かりません」
何かを楽しいと思ったことなんて私には……。
「そう……。なら、少なくとも、ワタシとする勉強だけでも楽しんでもらえたら嬉しいな」
少しだけ困ったように笑う先生。どこか優しさのあるその笑顔に私の心は少しだけ、氷解する。
それから私は毎日のように図書館に通った。
彼女とする勉強は本当に楽しかった。
神話のこと、大学での授業のこと、見たテレビのこと、読んだ雑誌に載っていたこと、彼女自身のこと。どれもが、私にとっては新鮮なものだった。誰かと何かする、誰かと話をする。その中に私に対する嘲笑が一切ない。それだけで日常が新鮮さと楽しさに満ちた。
苦痛もなく、恐怖もない時間。それだけで、私は――。
しかし、そんな時間にも終わりはやってくる。
夏休みの最終日。
「いやぁ、夏休みも終わっちゃうね。宿題は済んだかな?」
いつもと変わらない調子で聞いてくる。
「はい」
私もできる限りいつもの調子で答えた。
「明日からは学校かぁ。ワタシも中学の頃は三十一日は憂鬱だったなぁ。学校嫌いだったしね」
「え?」
私は彼女の言葉に思わず溢した。
「あれ?ワタシ変なこと言った?」
自分の言葉に変なところはなかったと言わんばかりに彼女は首を傾げる。確かに彼女の言葉に変なところはなかった。でも、私は疑問に思ったのだ。
「あ、え、え…………学校、嫌い、って」
彼女が学校が嫌いだとは思わなかった。むしろ、
「それ? 嫌いだったよ? だって勉強嫌いだもん」
「学校、好きだと…………」
そう思っていた。
「嫌い嫌い。勉強嫌いだし運動得意じゃないし友達いなかったしね。まぁ、高校行って友達出来たからよかったけどね」
友達がいなかった? 貴女に?
「友達……」
「ん?」
「私も………友達、できますか?」
それは私の声だ。
でも、それは本当に私の言葉だったのだろうか。
本当に友達なんてほしかったのだろうか。
私が欲しかったのは、本当は―――――。
「出来るよ。ワタシにだってできたんだから。君みたいな可愛い子には絶対にできるよ。なんなら、すぐに彼氏だってできるかも。そうなったらワタシも頑張らなきゃなぁ。クリスマスまでには絶対にかの―――いやいや、彼氏を捕まえて見せる! なんてね」
そこで彼女は、私の皮脂とフケで汚れた頭をぐしゃぐしゃと荒っぽく撫でた。それは行為こそ荒っぽいが悪意の一切ないものだった。
下げた視界の中に、パラパラと降ってくるフケが私を惨めにする。可愛くなんてない。友達なんてできるはずがない。
「冗談はさておいて、大丈夫です。君なら良い友達ができます。君は優しい。誰にでも優しくできる、そんな子です。ワタシが保証します。君ならワタシ(、、、)だって安心できる」
優しさとは別の感情の乗った笑みで、今度は柔らかく私の頬を撫でた。
頬に伝わる温かさに泣きそうになる。零れそうな涙をこらえる。
「あ……ありがとう、ございます」
「礼なんていらないよ。よし、今日はもう帰ろうか。明日からは学校だ。がんばろうー」
彼女は元気よく言った。私はそんな彼女のことをずっと見ていたいと思った。
生徒と教師とは通常、恋仲になることなんてない。
あるはずもない。あってはならない。
それでも私は彼女と一緒にいたいと思った。
苦痛しかなかった世界に暖かさをくれた彼女の隣にいたいと思ったのだ。
「先生……私――」
「ダメだよ」
寒風吹きすさぶ秋空の下、学校での彼女の根城である社会科準備室で、私の言葉を制止した彼女の顔は困惑に彩られている。
「あと少し。あと少しでいいんだ。卒業まで待ちなさい。卒常式が終わったらもう一度その言葉を聞かせてくれないかな?」
「……はい」
私は彼女の言葉を飲み込む。あと数か月なんだ。大丈夫。これまでに比べれば、あっという間のはずだ。
月日は流れた。
卒業式は滞りなく進み。私は中学を卒業した。
これで私と彼女は生徒と教師と言う関係を終わらせる。
「君の家に行ってもいいかな?」
「なんで、ですか?」
唐突な彼女の言葉に私は思わず、棘のある言い方になってしまった。
「最後に、やらなきゃならないことがあるから、かな」
そこにはいつか見た、少しだけ困ったような笑みがあった。
「………わかりました」
そんな彼女の言葉に私は肯定するしかなかった。
***
彼女を突き飛ばして父親の前に出たのは何故だったのか。
その答えが出る間もなく、父親の振り下ろした酒瓶が咲和の頭を砕いた。
砕かれた咲和の奥で、突き飛ばされた彼女の貌は闇色の感情で歪んでいた。
******
そうして、咲和の意識は死の泥の中へと落ちていった。
息もできず、音もなく、光もない。そんな世界へと落ちていく。感覚は次第に希薄になっていき、暁月咲和と言う存在が溶けていく。
そんな中、一筋の光が見えた。それは赤く、あたたかな光だ。光は徐々に近づいてくる。咲和は手を伸ばした。既に感覚は失われていたけれど、それでも精一杯に手を伸ばした。
咲和はその光を掴んだ。
「キングゥ。私の愛しき娘よ」
その言葉は母さんのものだった。
終わる――――――――――――――――はずだった。
「何故だ……何故……私は……ただ我が仔を―――」
「知っています………故に貴女はもう必要ない。我々は我々の手で世界を切り開いていきます」
「貴女の愛を我々は忘れないだろう。
貴女の存在を片時も忘れることはないだろう。
貴女と言う母を思い出さぬ日はないだろう。
しかし、しかしだ……それでも貴女はもう必要ない!
この世界は我々、人類が手にします!」
「私は――私はただ―――――――――――我が仔と――――」
「これ、この一撃を以て神代終結とする――――――「フィーニス・ディーウィーヌス・サエクルム」」
「―――――楽しく暮らしたかっただけなのに………」
******
「皮肉なものです……。あ、そーですね。これはいい、うん。私もこう告げましょう」
「何を言っている……」
「これ、この一撃を以て―――」




