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全く読古されていない爆釣徹底ガイドを手に取り、クッションの効いた優に10人掛けはあるソファに座り直すと、ガチャッという音がした。
受付の隣にあるドアから、幼稚園児ぐらいの男の子とそのお母さんが手を繋いだまま出てきた。時間にして3分、いや2分。院長の診察が短いのはここに通う誰もが知る事実であり、男の子のお母さんもそれにもれず、「んっ」と男の子を抱き直すと、僕の隣を大人2人分ほど間を空けて座り、薬を呼ばれるのを待っていた。
「○○○○くーん。って、ん? ○○くん?」
「はい」
「あ! やっぱり! 久しぶり! 大きくなったねぇ。元気してた?」
「あれ? 今日、博子さんは?」
「さっきまで一緒だったんですけど。『午後から診察があるから』って、車から降ろされちゃいました」
「あっはは! そうなんだ。博子さんも忙しいね」
真紀さんは母さんのことを「博子さん」と呼ぶ。去年まで通っていた専門学校の研修先がたまたま母さんの勤め先の病院だったらしく、以来、お互いを「真紀ちゃん」「博子さん」と呼び合うようになっている。それに倣って僕も真紀さんと呼ぶことにしているのだが。
「じゃあ今日は一人なんだ」
「です」
「おーい! 真紀ー!」
そして今、奥で声を挙げたのが、僕が今最も会いたくない相手、中村院長である。
「
ざっとこんな具合に、
「鬼ごっこ」 「走りたくない」
「缶蹴り」 「それも走るじゃん」
「虫取り」 「網ないし」
「サッカー」 「ボールないじゃん」
「俺んちでゲーム」「遠い」
もうこの手のやりとりは見飽きているし、かといって僕が新たなカードを並べたところで、小鳥が引くとは思えない。ラリーを目で追いかけた僕は、現況を見守ることにした。大人しく、どちらか一方が折れるのを待つ。
「じゃあ何がいいんだよ」
折れた翔は立ち上がって、乗ってきた自転車のサドルに持たれかかった。弾みで、タイヤのチェーンが外れたが、翔の視界には入らなかったようだ。
すると小鳥は石段からヒョンっと立ち上がり、待ってました、と言わんばかりのニコニコ顔を僕等に見舞う。いや、ニヤニヤだ。
「えっへへ。かくれんぼに決まってんじゃん」
決まってないけどね、と心の中でツイートする。そうまでして、かくれんぼにこだわる理由が分からないし、聞いたところで大した答えでもないのだろう。
「嫌」
翔は、そのまま小鳥の言葉で返した。
少し後の話をすると、翔が「小鳥を置いて2人でゲームしに帰ろう」と耳打ちしてくるのだが、「聞こえてますよ」と地獄耳をぶら下げた小鳥が釘を刺してきたので、未遂に終わった。
もう何を言っても聞かない小鳥に一から説得するのはめんどうだから、僕等はしぶしぶかくれんぼを続けた。回想、終わり。
左足の靴を登ってくる蟻に名前をつける。
暑い、南中に向けてさらに熱を増す太陽は、僕の首の後ろをジリジリと焼いている。
今朝、父さんが読んでいた徳島新聞には、確かに「くもり」と書いてあったのに、空は青一色で塗りつぶされていて、雲が発生する要素など微塵もない。
46まで数えたところで、ようやく2人がやってきた。
男の子の方は、「朝練で遅れた」と言った後、お詫びにイチゴ味の飴玉を1つくれた。
なかなかいい味だ。
対して女の子の方は、言い訳もなく、さらには飴玉の1つもなかった。悪びれることなく、体育館の西側にある駐輪場に、そそくさと自転車を止め、チェーンを巻いた。
2人がチラチラと僕を見ながら歩き話しをするので、話しの内容が、僕に関係する話題だと、すぐに察しがついた。悪口でないことを願おう。
お尻についた小石を手で払いのけながら立ち上がると、すぐに「かくれんぼでいいか?」と男の子が確認をとった。
僕に「何を話してたの?」なんて聞く間も与えないようにしているらしく、多分、後から聞いても教えてくれない気がする。
むず痒さを感じつつ、仕方なく了承し、2人の前に手を差し出すと、女の子がニヤニヤと笑っているのが視界の端に写った。さっきから変だぞ。
「さいしょはグー、じゃんけん……」
謎が解けたのは、馬鹿みたいにチョキを出した後だった。
「あっはは。な、言っただろ。やっぱりチョキだ」
「ほんとだ。翔の言った通りだ。あー、おかしっ」
罠にかかった僕を見て笑うその表情。これが実に鬱陶しい。2人の笑い袋はまだ萎みそうにない。
ここで怒れば、さらに火は勢いを増すので、唇を噛み、グッと堪えるのだった。
潔く鬼体育館の正面扉に向かい、定位置に着いた。
女の子は走り去ろうと身構え、男の子は、靴紐を入念に結び直していた。
「いーち、にーい……」
2人の足音が次第に小さくなり、時たま吹く湿った風の音がはっきりと聞こえた。
すると突如、甲高い金属音が鳴り響いた。
カランカラカラカラ。
何かが転げ落ちる音だった。
聞き慣れない音ではあったが、僕はその音にちょっとした心当たりがあった。
ちょうどそのころ、夏休み中に行う耐震補強工事の関係で、体育館横の駐車場には5、6台ほどの工事用トラックと2台のバンが駐車されていて、その中の1台に、鉄製の単管パイプがロープで結わえられていたのを何度も目にしていた。
早足で現場に向かうと、そこには地面に散らばった8本の単管パイプとそれを拾う作業着姿の成人男性がいた。
頭にタオルを巻き、ピチピチのシャツを着ていた彼は、かなり鈍臭そうに見えた。
「あーあー、もう、何やっとん。はよ帰るぞ!」
校舎の奥からやってきた作業着姿の中年男性が、彼の頭をバシッと叩いた。痛そう。
「すいません。ちゃんと縛ってあったんすけど」
「ほんまか?」
「はい」
僕はそれが嘘だと分かっていた。締め付けが甘いという欠点は、通りすがりの小学4年生の僕でも気に止めるほど、あまりにもお粗末な結び方だった。
「はよせんと、18時30分までには駐車場から車出さなあかんからな」
「今日、ママさんバレーの日じゃないでしょ? なんかあるんすか?」
「19時30分から星空観察会やと。その関係者やら保護者やらが来て、この駐車場使うけん、はよ車出せと。ほんま、めんどいこと言いよるのぉ」
男性は胸ポケットからタバコとライターを取り出し、火をつけようとしたが、遠くにいた僕と目が合うと、サッと胸ポケットにタバコをしまった。
小鳥の父。柊誠。
参観日に何度か見かけたぐらいの人だったが、正直、僕は苦手だった。
いつも下を向いていて、僕が話しかけても絶対に目を合わせようとしない。
近寄り難く、常に話しかけてくれるなオーラを発信し続けている。そんな人だった。
確かに小鳥には弟がいた。
柊俊。
小鳥とは対照的で、内気で人見知りなタイプだった。 性格も目つきも柊誠に似ている。
俊は僕と目が合うと決まっていつも視線を逸らす。
俊は僕が嫌いなんだ。
僕は今、彼女の墓の前に立っている。
墓前の両脇に添えられた白い花は、生前の彼女の笑顔を彷彿とさせるかようにパッと咲き誇り、時折、細長い線で描かれた線香の煙が、8月の風に運ばれて僕の鼻の粘膜を刺激しにやってきていた。去年よりも一足早く猛暑日を迎えた今日は、油蝉の求愛行動がさらに一段と激しさを増し、遠く離れた青空に彼らの声を響かせる。
「狐野君、そろそろ…」
僕の後ろで柊小鳥の父が言った。さっきから駐車場に止めた車を気にしていたので、時間が押し迫っていることはなんとなく分かっていた。
呼吸に必要なだけの臓器を動かし、今までの彼女との出来事を思い返していた僕は、急に現実に引っ張り出された。
やっぱり彼女は死んでいる。
墓石に刻まれた見事な楷書体の『柊家之墓』の文字が、彼女の死亡フラグを現実のものにしていた。
お供え物として、透明なフィルムに包まれた白い饅頭が3個と、その後ろに隠れて恥ずかしそうにリンゴが2個。可愛らしくちょこんと座らされていた。
どうしてもこの配置に納得がいかなかった僕は、饅頭を後ろに置き、リンゴを手前に持ってきた。
はっきり言って、絶対にこっちの方がいい。と思う。
こんなことをして、柊小鳥の父に何か口出しされるんじゃないかと思ったが、違った。
彼は何も言わない代わりに、鼻をズズズッとすすり、線香の香りを鼻に詰める。
ちょうど振り返ろうとした僕に、空気の読めない墓石が彼の顔を見事に反射してみせた。
そのおかげで、彼の目からポタリと涙が流れ落ちるのを目で追ってしまった。
余計なことをしてくれたものだ、と心の中で呟く。
彼女がこの世を去って、もう1年になる。
いや、はや1年というべきか。
去年の今頃は、彼女とずっと病院にいた。
時の流れを物語るかのように、心の裏側に閉まっておいた彼女との思い出アルバムには、薄いホコリが積もっていて、ワインレッドの表紙に白い粒が浮かぶ。
それをサッと手で払い、1ページ目をめくると、彼女の最後の顔が写っていた。
涙は流さなかった。
もうさすがに大人だからとか柊小鳥の父に見られると恥ずかしいからとかじゃなく、ただ自然と流れなかった。
「また来ます」
彼女に最後の挨拶と会釈をし、深く息を吸い込んでから、柄杓の入ったバケツを握り直す。
振り返ると、柊小鳥の父の姿はなかった。
すでに駐車場に向けて歩を進める彼に早足で追いつき、なんとか並んで歩いた。
なんの気なく、ただ歩くだけの僕の上で、鳥達のさえずりが聞こえた。
駐車場までの帰り道では、夏の虫が「人でなし!」とか「薄情者!」なんて言葉を僕に浴びせてきたが、そんな安い挑発に乗るほど、僕は子どもじゃない。
所詮1週間の命、罵声を浴びせるためにその貴重な時間を浪費するなんてほんとバカじゃねーの、と逆に罵ってあげた。
その後は、柊小鳥の父が運転する軽自動車の助手席で、僕は体を揺られていた。
自動式の開閉ボタンで窓を開け、肘を窓枠に滑らせ、その上にアゴを置き、目を閉じる。
耳の奥ではドクドクという音が聞こえるし、心臓はコツコツと音を刻んでいる。
『命』を嫌なほど実感できるように。
だが、その1時間後に僕は空を翔んでいた。
彼女の後を追うように。
ロープとの格闘は長く続いた。その日、休みなく働いた太陽は、北半球に別れを告げ、次の仕事先である南半球に向けて足早に沈み始めていた。
荷支度を済ませた太陽が「では最後に!」と言って取った行動は、旅人のコートを脱がせる!ではなく、親方の顔を赤く染め上げる!というものだった。
そんな太陽の好奇心を打ち砕くかのように、親方は顔に直射日光を浴びても微動だにしなかった。太陽は「ちぇっ」と唾を吐いて西の山に隠れた。
我慢比べを制した親方は、嫌みっぽくゴホッと咳払いをすると、その場にドスンと座り込み、膝をカリカリと掻きながらさらに深く彼を見つめた。
彼を怒鳴りつけるわけでもなく、はたまた「貸せ!」とロープを取り上げるでもなく、ただ黙って。おかげで彼の手元はまた多いに狂わされ、解いては結んで解いては結んでをひたすら繰り返していた。
格闘を続けることさらに5分。太陽の吐いた唾が完全に乾ききった頃、さすがにしびれを切らしたのか、親方は「ハァ」とため息を漏らすと、ヌクッと立ち上がり、トラックの助手席のドアを開け、座席の上に置いてあった小さな黒いカバンを手繰り寄せ、その中をガサガサッとかき混ぜ始めた。
その中からお目当てのフェイスタオルを発見すると、気持ち良さそうに顔を拭きながら「あ〜っ」と声を漏らした。
それはつい先週、家族揃って焼肉店にでかけた際に見た光景に似ていた。店員から「どうぞ」とホカホカの丸まったおしぼりを手渡され、ニコニコと顔を拭きながら「あ〜っ」と声を漏らしていたのは、僕の父だった。
それだけじゃない。焼肉屋からの帰宅後、うちの犬の顎の下を軽くコロコロと掻いてやると、これまた気持ちよさそうに目を細長くして「ク〜ッ」と漏らしていた。どちらにしろ、共通して言えることは、その「気持ちいい」という感覚が、僕には一切理解できないということだ。もどかしくて、妙に悔しい。
ドミノ倒しの最後の一個を並べ終わるのを見届けるかのように、彼の作業を見続けた。
「終わりましたー!」
無言の説教に飽きた親方が助手席で2本目のタバコに火をつけていたころ、ようやく全てのドミノが並べ終わっていた。
彼は、勢いよくドロンと運転席になだれ込み、親方にペコリと頭を下げると、目を合わせないようにしてズボンのポケットから車の鍵を取り出していた。
だがその鍵がまた問題で、銀色の輪っかはトラックの鍵の他に、パチンコの景品と思われるたくさんのキーホルダーが結わえられていた。
おかげで鍵を選び出すのに手間取り、額から流れる汗をさらに大量に流出させていた。そんな彼に、親方の吐いたタバコの煙がスーッと忍び寄り「はやくしろ」と耳元で囁いていた。
タバコの煙を目に浴びながら、やっとのことで鍵を見つけると、彼は勢いよくエンジンキーを回した。エンジンが気持ちよさそうにブルンと音をたて「オッケイです」と彼に合図を送る。
一方の親方はハンドル式の窓をグルグルと回し、窓を全開に開け終わると、右手でラジオのボリュームのつまみを回していた。たちまち聞き覚えのあるラジオが小学校の駐車場に流れ始めた。
ラジオアナウンサーが聞き取れないほどの早口で実況していたのは、夏の全国高校野球選手権だった。親方は、試合の勝敗を探るかのように、ラジオのつまみを右に左に調整していた。
ちなみに僕の父も昔は高校球児だったらしい。そのせいか、夏休みに入ると、父の車には決まって高校野球が流れていた。
もともと無口な性格もあって、父は僕に「野球をやれ」とは一言も言わなかった。だが2階の父の寝室の壁に昔使っていたであろうグローブが飾られていて、僕に野球の興味を惹こうとしているのが見え見えでだったので、少し怖くなった。僕はサッカーの方が好きだったから。
また、2年前の誕生日プレゼントに右投げ用のグローブを貰い、家の前で父とキャッチボールをしたこともあった。これだけ着々と準備が整ってくると、もはや僕に逃げ場はない。
いつか野球部に入部させられる。
僕は腹をくくっていた。
だが、父も薄々気づいていたと思う。夕飯に大好きなハンバーグを頬張りながら「昼休みにサッカーをしてゴールを決めたいんだ!」と話した時もリアクションの1つもなく、無愛想に夕刊を読み進めながらズズズッと味噌汁をすするだけだった。
途中、話しの流れで母がサッカー部に入部することを強く勧めた時も、その会話に入るのを拒むかのようにただひたすらに文字を読み進め、ほうれん草のお浸しを箸で丁寧にすくい、口元まで運んでいた。
父の地獄は終わらない。母が追い討ちをかけるように「サッカー部に入ってみなよ。ね、おとうさん!」なんて言うものだから、表舞台に無理矢理引っ張り出された父は「うん?」と聴こえないフリをしていた。
そんな父もとうとう諦めたのか、はたまた何かを悟ったのか、リビングで垂れ流しに放送されていたプロ野球中継をピッと消し、ごちそうさまも言わずにリビングを出ていった。
その時の小さくなっていく父の背中は、今でも忘れることのできない昔の記憶。僕はハンバーグの味も忘れ、母親の声も届かなくなっていた。
その後、父に誘われて何度かキャッチボールをすることはあったが、僕から自発的に「キャッチボールしよう」と父を誘うことはなかった。
少しでも野球に興味を持って欲しかったのだろうと今になって思う。 結局サッカー部には入部せず、さらには一番恐れていた野球部にも入部せずにすんだ。今更悪いことをしたとは思っていない。ただ何となく申し訳なさは感じていた。もうしばらくグローブを手にしていない。
地元の高校の試合が今日行われることは昨日の夜のニュースで目にしていたので、興味はなかったが、仕方なくラジオに耳を澄ませた。だがやっぱり「ピッチャーセットポジションから第2球を投げました打ちましたサードゴロサード田中しっかり掴んで一塁送球アウト、ツーアウトランナー無し」という単調なリズムは、僕にとって耳障りでしかない。「大人になれば分かる」と父が言っていたが、父とは一生分かり合えないと思った。このくそつまらない高校野球も日曜日の相撲も風呂上がりのビールも。僕には分かりっこない。
チラチラと親方を見ながら、大きなハンドルをグルリグルリと回していた彼は、花壇の植え込みギリギリまでバックすると、彼はまたハンドルを今度は反対側にグルリと回し、トラックを走らせた。
彼の横にはラジオの声に聞き耳をたて険しい表情を浮かべる親方。どうやら試合は負けているようだ。
親方の口から出るタバコの煙がフロントガラスに勢いよく押し当てられ、車内には、ヤニ匂いと重い空気が充満していた。
僕が地獄の車内の様子を横目で見送っていると、トラックが校門の前で停止した。前カゴに買い物袋が入った自転車を手で押して歩くおばさん。軽く会釈をしながらトラックの前をササッと前を横切りる。と同時にトラックは再びブルンと響かせ、校門から左折退場で出ていった。ちょうど校門の向かいにある神社の大木から油蝉が1匹飛び去っていくのが見えた。
ある家族がいて、蝋燭に火をつけたぐらいの薄明かりの下に、男が座っていた。
右の目を擦りながら左腕の腕時計を近づける。明日の午前は休診日とはいえ、月曜からの、つまり週初めから睡眠不足というのはできれば避けたい、というのが男の心情だった。
喉の奥にこびりついた痰を絡め、口の中に戻す。じゅるりとした鼻水のような液体の粘塩っぱさを味わうと、男は薄黒いチャコールブラウン色の家具を敷き詰めたリビングを見回す。
おもむろに今朝の朝刊を手に取った。目新しいものもなく、雑に折りたたむ。
気分を変えるかのように、今度は手近にあるテレビのリモコンを手にとりチャンネルを押す。「まず今日のプロ野球から…」「阪神が…」「先発の…」「一打同点の場面で…」。毛ほども興味がない。んっんん。
ええいならばと、手近にあるガラスコップを手にとる。あまりに、あまりに薄い麦茶。氷も溶けた。
今日も今日とて娘の帰りは遅い。
二十歳を過ぎてから、なにか男の気配がする。内面から真実に迫るにはまだ証拠が足りない。
勢いよく小窓から投げ出された鳩は、かなり多くの回数を鳴き、仕事を終えてまた収納される。男は軽くため息をつき背もたれに肩をつけた。
男は頭の中で反芻する。「またやったな…」
しばらくして、開け放したカーテンの裾野から砂利を踏みしめる音が入ってきた。家の前の通りはそれほど狭くはないのだけれど、免許を取って間もない娘は駐車するため時間がかかる。
案の定、切り返すせいで、砂利は右に左に山あり谷あり。毎朝のその景色にはもう慣れた。
クルマのエンジン音が消えた。男は1つ、小さな咳払いをして喉の調子を整えた。苦労して待ったのに、声が裏返ったのでは格好がつかない。
車のキーロックの音、玄関のドアが開く音、傘立てに傘を差す音、スニーカーを脱ぐ音、スリッパがパタパタと廊下を滑る音がして、最後にリビングのドアがガタンっと開く音。男は身構える。今日こそーー。
「暗っ! また豆電!
いきなりの先制パンチをもらい面食らった男をよそに帰宅した娘が呆れ顔で手探りに壁を触わる。カチッという音がして、先程までの薄暗がりに厳しく対比するようにリビングがパッと白に切り替わる。
手に持ったハンドバッグをソファーに投げ、両肘に抱えたスーパーの買い物袋をテーブルにドサッと下ろすと、あらかじめ用意していたように娘が言う。
「あのさ、いつも言ってて正直もう飽き飽きなんだけどさ、一応聞いとくけど。水替えてくれたよね?」
娘の一連の動きを目で追い続けた男は、返す言葉を探すでもなく、まだ状況を理解できていないようだった。
「ねぇ、聞いてるの」
はっとして、男は娘を見た。目の前にいた。白い肌に長く伸びた髪。いかにも華奢で細く折れそうな腕が買い物袋に入ったり出たりしている。厚底のスリッパを履いていなかったら、中学生か高校か判断に迷うだろう。
男が何も答えずにいると、今度はガサゴソという音がしだいに大きくなるような気がした。リンゴがテーブルを転がっている。我に返った男の視線の先には、アイスピックで人を突き刺すような目つきをする娘。必死で記憶を巻き戻す男。そうだ、花の水は……。替えてなかった。
「……あ、ああ。替えた」
この家にはそれぞれルールがあって、ある日を境に男は花の水やりを任された。最初のうち、男は花の水やりを苦とは思わなかった。花自体は好きでも嫌いでもなく、生き物に比べれば世話は楽、ぐらいの考えだった。こんな考え方はよくないのだけれど、1日ぐらいサボったって問題はだろう。毎日水を替えなくてもすぐには枯れないし、バレたりもしない。そういう問題じゃない、と言われれば、ぐうの音もでないのだが。ありがたいことに、娘が怪しむ様子はない。睨んではいるが。
「どうだか…。明日は公民館に車停めてよね。早出だから」
話の主導権を握られ、思わず「わかった」と言いそうになる。いやちょっと待て。
「竹内が早出のはずだ」
「そうだけど、誠子さんから夕方に電話があって代わってくれって頼まれたの。…ん? なんでお父さん知らないの?」
しまった、と心の中で呟いて男は口をきつく結ぶ。だんまりを決め込むことにした男は視線をテーブルにずらす。右手に破裂寸前のポテトチップス。左手に頭を押さえつけられたキャベツ。
「また脱走したの!」
ごまかせばかえって長引くことを知っていたので、男は諦めた。
「栗林のババアだ。あの野郎、『ウチの子は賢いし今度はちゃんと柱に結んであるから大丈夫』なんて言いやがったもんだから、追い返してやったんだ。病院に犬を連れてくるやつがあるか。いつからうちは動物病院になったんだ」
「呆れた。それで怒って帰ってきたの!」
頭に血が上ったおかげで、やっと思い出した。そうだ、俺は真紀を叱るんだった。
「そんなことより、真紀! 今何時だと思ってる!」
「どこだっていいでしょ。今日休みなんだから! それより、病院は!」
「説教してるのはこっちだ! 門限は22時、そう決めただろ」
「だから書き置きしたじゃん!」
「遅くなります、で済むと思うか! いいか、ルールはルールだ。ちゃんと守れ!」
「わかったから、今度から気をつける。次はこっちの番! いつ帰ってきたの!」
「もう、いい加減にしてよ。
「あっつー。って、クーラーもつけてないじゃん」
「…もったいない」
「せっかく新しいの買ったのに、使わない方がもったいないんでしょうが。てちょっと! それお酒? 呑んでないよね」
「馬鹿。お中元にもらったやつだ。呑んでない」
「どうだか。それより、明日は公民館に車止めてよね。あたし早番だから」
「なら明日は自転車で行く。鍵貸せ」
「明日雨だよ」
「……わかった。なら俺も一緒に乗って行く。
「ねぇ、なんで