8 明日に備えて
『花純? んー…………カノジョ、ではないな。なんか腐れ縁過ぎて、女に見えない』
『なんだよ、今年はチョコなしかよ。え? ある? お、脅かすなよ、ったく…………なんでって…………義理でも、嬉しいんだよ! 男ってのは、そういうもんなの!』
『ほい、ホワイトデー。花純が好きって言ってたやつ。近くの店にはなくて、ネットで注文したんだからな、大事に使えよ? カネ? 気にすんな、たいした額じゃないから。嘘じゃなくて、本当に』
『なんかさー俺、彼女できたっぽい。サークルの後輩なんだけど。会ってくれねぇ? 花純には一番に会ってほしい。え? もう知ってる?』
青い月がぽっかりうかんでいる。
降り注ぐ月光を見あげていると、特に理由もなく昔のことが思い出された。
思えば、たった一ヶ月間でとてつもなく遠いところに来たものだ。
歩道橋から落ちただけで異世界に行ってしまうなんて、本気で信じたことはあっただろうか。
魔王に協力すると決めてから、一日と半分弱。
魔王は私の提案を受け容れ、今日一日はその計画の遂行のため、魔族中が駆けずり回っていた。
聖花アネモネを復活させたローズマリー一行は今頃、原初の島で聖花神フローラのお告げや聖水を受けとり終えて、明日に備えて聖花神殿で休んでいるはずだ。
月を見あげながら、ダリアとしても急展開を迎えた今の我が身をふりかえっていると、声をかけられた。
「なにをしている」
魔王だった。ベールはかぶっておらず、長い黒髪は夜空に溶けてしまいそうだ。対照的に肌は浮びあがるように白い。
「休まないのか? 明日はお前にも働いてもらうのだぞ」
「ちょっと月を見ていただけ。それより、そろそろ『お前』はやめてくれない? ダリア・ウィードリーフっていう名前があるんだから」
「そうだったな。ダリア…………いや、フユノカスミか」
「…………それは昔の名前」
胸に苦味がのぼる。
「使わんのか? 以前はともかく、今の意識はフユノカスミだろう?」
「そうだけど…………こちらの名前じゃないから、名乗ったら絶対、不思議がられるし。いちいち説明するのも面倒だし」
とはいえ『ダリア・ウィードリーフ』という名前も面倒はありそうだから、この計画が終わったら本格的に新しい名前を考えるべきかもしれない。
「うまくいくといいね、明日…………」
「いかないと困る」
短い一言だが、魔王の本心が込められているように聞こえた。
魔王を見上げる。
漆黒の瞳に、左頬の炎を模したタトゥーのような模様。左右の湾曲した山羊の角。
「あなたも、ちょっと変な人…………魔王よね。普通、魔王って、配下や仲間の命を惜しまずに野望を遂げるものじゃないの? それを『全員、助けたい』なんて」
まあ、もともと小、中学生向けの少女漫画に登場する魔王だ。『冷酷』といっても、限度があるのだろう。容姿だって『醜い』と言いつつ、角とかが異形なだけで、顔立ち自体はイケメンだ。これが青年誌なら、また違ったキャラクターになっていたのだろうが。
魔王はそっぽを向く。
「この世界のつまらぬ思惑だか運命だかに、付き合ってやる義理はない。魔族が一体でも生き延びれば、それだけで、この世界を綴る者の鼻を明かすことができる。それだけだ」
それはそれで、彼の本心なのだろう。
でも、主君としての愛情もある気がするのは、私の錯覚だろうか。
「そちらこそ、いいのか? ダリア・ウィードリーフが我々に協力するのは、物語の筋書き通りなのだろう?」
そう。このままでは、私はダリアの運命をそのままなぞる結果になる。
けれど。
「運命に無抵抗で従う気はないし。やれるだけの抵抗はしてみるよ」
ローズマリー達や作者の花宮愛歌さんには申し訳ないけれど、私だって命は惜しい。黙って破滅を待つことはできない。
「昨日も説明したけど、私達は物語どおりにしか進められない。原作では、七つの聖花がよみがえってフローラの結界が復活したあとは、魔族は消えて、ローズマリー達は王都フィレンツェに戻って『めでたしめでたし』だった。でもこれは、逆に言えば、人間の前に姿を現しさえしなければ、人間側は魔族の滅亡を疑わないだろうから…………明日の最終決戦を生き延びて、そのあと絶対に人間に関わらなければ…………『魔族は滅んだ』という体裁を整えて、物語を終わらせれば…………それ以外の部分は、自由にできるんじゃないかと思うの」
「そう願う他ないな」
月を見あげた魔王の横顔を見て、ふと、彼が今、どんな気持ちでいるか、気になった。
ローズマリーは今夜、聖花神殿で明日に備えて休んでいるはずだ。
ただ、その『休み方』が少々問題ありで。
原作では、いよいよ魔王との戦いとあって、ローズマリーは不安を抱いている。その不安を感じとったシリウスは、しっかりと彼女を抱きしめる。「私の前で無理するな」というやつだ。ローズマリーは「このまま抱いていて。シリウスさえいれば、私、なにも怖くないわ」と応えて…………二人はローズマリーの寝室で一夜を明かすのだ。
寝室でなにが起きたのか、本編では明確にされていない。なにもなかったようにも、なにかあったようにも、どちらにも解釈できる描写だった。
そもそも掲載誌は、小、中学生向けの『ティアラ』。セイントローズは『処女が条件』という設定だから、なにかあるはずはないのだが。
ちらりと魔王を見る。
月を見あげる彼の横顔は彫像のように整い、一幅の絵画のようだ。
わざわざ不確かな情報を伝える必要性を感じず、その件に関しては口をつぐんで、話題を変えた。
「あの、マーガレットのことなんだけど」
漆黒の瞳がこちらを見る。
ビビる。
かるい気持ちで口にしたわけではないので、最後まで聞いてほしい。
「一応、漫画では『ローズマリーはマーガレットの生まれ変わり』とされていたけど。これは、決定した事実じゃないの」
記憶をたどる。
「なんていうか…………ローズマリーはたしかに、胸にリコリス型の痣があるんだけど。漫画の中では、それが、あなたがマーガレットに使った証だと明言されてないし。ローズマリーが前世を思い出すような描写もないの。漫画でも設定資料集でも、『そうなのでは?』って感じの扱いで。だからローズマリーの痣は、ただの偶然の可能性もあるし…………ええと、だから、なにを言いたいかというと…………」
魔王の顔を見れない。余計なことを言っているのかもしれない。
「本物の、あなたのマーガレットは別の人で、別の場所にいて、今でもあなたの迎えを待っている可能性はある、ということ」
思い返せば、『ローズマリーは本当にマーガレットの生まれ変わりか?』と作者インタビューでも質問されていたが、作者の花宮愛歌さんが明確に『そうです』と答えたことはない。『想像にお任せします』という返事だったはずだ。
昔は「たぶん、そうだろう」と思っていたが、いま読み返すと疑問が浮かぶ。
花宮さんは『逆ハー』好きだ。その彼女が『前世の恋人』なんて設定をつけたなら、もっと、魔王とローズマリーがからむシーンを大量に入れるのではないか? 魔王の登場は一巻からだから、その機会はいくらでもあった。それこそ、『現世と前世の恋人の間でゆれるヒロイン』なんて、花宮さんの好きそうなシチュエーションではないか。
そうしなかったのは、単純に『魔王ダークロード』というキャラが花宮さんの好みではなかったからかもしれないが、違う理由がある…………と考えるのは、深読みしすぎだろうか。
「人違い、か」
かすかな笑い声が聞こえた。
「どのみち、この心も境遇も、すべては虚構、造られたものだ。今更、人違いであろうとなかろうと、たいした差はなかろうよ」
ひっそり笑った魔王は月光のように美しく、儚くさえあり――――寂しげに見えた。
魔王は背を向ける。
「もう休め。明日、寝不足で失敗などされては、たまったものではないぞ、フユノカスミ」
「寝るよ。あ、でも、いちいちフルネームで呼ばなくていいから」
「ん?」と魔王がふりかえる。
「『冬野花純』はフルネーム。『冬野』が名字で、『花純』が名前」
魔王はちょっと驚いたようだった。
「姓が最初にくるのか? 姓も名前も短いな。ニホンでは、みなそうなのか?」
「んー…………地球のすべての国がこう、というわけじゃないけど…………日本では、名字が先で、名前があと。一般に、フローレンスに比べると、名字も名前も短いね。私の名前は平均的な長さだと思う」
「フユノ家のカスミ、か。どのような由来だ?」
「由来、というか…………母が好きな名前だったから。『ふゆの』は『冬の野原』と書いて、『かすみ』は花に純粋の純……」
説明していて気がついた。
たしかフローレンス大陸の共通語で、キャラ全員が用いているフローレンス語は、英語のように一種類のアルファベットがあるだけ、という設定だったはずだ。
ということは、漢字の書き方の説明なんてしても、理解できないわけで。
なんだ、しなくてよかったんだ、と思ったら。
「冬の野に咲く純美な花、か。なかなか詩的だ。『幻の花』といった趣がある」
「へ?」
「基本的に、冬に花は咲かない。その冬に咲く汚れなき花とは、哲学的な暗喩を感じさせる」
「そ、そう?」
そんな、たいそうな意味のある名前ではなかった気がする。「フィーリングで決めた」みたいなことを言われた覚えがあるし、名字にいたっては自分でつけるものではない。
「ではな」と、短く告げて、今度こそ魔王は庭を去って行った。
私も明日にむけて気合を入れなおす。
失敗はできなかった。