5 原作どおり
「う…………ん…………」
目が覚めた。
石でできていると思われる、高い天井が見える。
ヘザーおばさんの家ではない。
慌てて起きあがると、古代ギリシアやローマの神殿っぽい部屋にいた。やわらかい毛皮を敷いた、大理石の寝椅子の上に横たえられていたようだ。
「ここは…………」
思い出した。
「そうだ! 魔王!!」
ヘザーおばさんの家に帰り、魔物の気配を感じたので裏庭に出たら――――ダークロードこと、この『セイントローズ』の世界の魔王が立っていたのだ。
「ここ…………魔王城!?」
そういえば、王都フィレンツェの建物や王城は中世ヨーロッパ風の建築様式だったけれど、魔王城は古代ギリシアの神殿っぽいデザインだった。
寝椅子から飛び降りる。
(すぐに逃げないと…………!)
ダリア・ウィードリーフは、魔王に恋して主人公一行を裏切り、最後は魔王と共に滅びるキャラクターだ。
『冬野花純』の意識が強い今、原作どおりに魔王に恋するかはわからないが、たとえば魔王の魔力で洗脳でもされてしまえば、原作通りの展開になる可能性が高くなる。
つまり『死亡フラグ』が立ってしまう!
幸い、ダリア愛用の武器は寝椅子の横のサイドテーブルに置かれていた。弓と矢筒をひっつかんで、部屋の出口へ走る。
『起きたか』
どこからともなく声が聞こえ、視界が黒く霞んだ。
「なにこれ…………っ」
驚いて足を止めたのは、数秒間。
黒い霞はすぐに晴れ、かわりに別の部屋に立っていた。
いや、部屋というより『広間』か。天井が高く、灰色の太い柱が等間隔に幾本も並んで、壁には巨大な黒い布がカーテンのようにかけられ、床には赤い絨毯が敷かれている。
私がいるのはその絨毯の上で、絨毯の先、広間の正面奥は三段高くなって、大きな背もたれの椅子に、先ほど見た黒いベールの人物が座っていた。
「魔王…………ダークロード…………」
冷や汗が流れた。
とっさに矢筒から矢を引き抜き、弓をかまえる。
が、その弓と矢はふわりと浮いて、勝手に手の中から飛んでいってしまった。すとんと魔王の足もとに着地する。
魔王の魔力による現象なのは明らかだった。
「危害を加えるつもりはない。まずは話し合いたい」
冷ややかで平坦な魔王の口調。
「言っただろう。『協力してもらう』と」
そういえば、そんな台詞を聞いた気がする。
けど。
「ずいぶん勝手というか…………一方的ね。断りなく、人をこんな所に連れて来ておいて。それに、顔も見せないし」
しゅるり、と衣擦れのかすかな音が聞こえて、ベールが床に落ちた。止める間もない。
原作では、この世界の魔王、ダークロードは常に黒いベールをかぶった、顔を隠したキャラとして描かれている。その素顔が明らかになるのは、最終決戦でヒロイン、ローズマリー達が、玉座に座った魔王の前にたどりついた時だった。
床に触れそうなほど長い、滝のような黒髪。『雪花石膏のような』と形容される肌。魔力を使っていない今は瞳の色は漆黒で、左頬に炎を模したタトゥーのような模様がある。
なにより、頭の左右に生えた湾曲した山羊の角は、この世界でなくとも『異形』とされただろう。
建物は古代ギリシアの神殿風だが、着ているのは、和服を軍服風にアレンジした黒を基調とした衣装だった。
魔王は私の目を見て、断言する。
「望むなら、あとでもとの場所に戻す。今は緊急だ」
怯みながら、考えた。
ダリア・ウィードリーフというキャラクターの設定上、魔王と接触するのは危険だ。
しかし、この世界のラスボスである魔王が『緊急』とまで言うのだ。聞いておくべきではないか? 少なくとも、個人的な遊び相手などのために連れて来たとは思えない。
「…………内容次第ね」
「けっこうだ。それでは――――」
魔王は玉座に座りなおした。
原作では『最強』設定がついたキャラで、今も氷のような威圧感がびしびし伝わってくるが、『外の世界の人間』の意識が強いせいか、緊張してはいても恐怖までは感じていない。
魔王は単刀直入に確認してきた。
「お前はダリア・ウィードリーフ。ウィードリーフ男爵の長女で、シリウス王子付き護衛官。だが、中身は『フユノカスミ』という名の別人だ。相違ないな?」
「どうして、その名前を?」
「お前が口にしていただろう。『フユノカスミ』と」
「いつ!?」
「一月ほど前か。お前はハイドランジェ神殿の裏手にある崖から川に落ちて流され、たどり着いた川岸で、自分はフユノカスミだと、くりかえしていた」
私が、こちらで初めて目を覚ました時のことか!
たしかに、あの時は自分の記憶を確認するため、声に出して、自分の名前やダリアの情報を片っ端からしゃべっていたけれど…………。
「あの時、そばにいたの!?」
「そばにはいない。だが、見てはいた。この鏡で」
魔王は玉座の横に置かれた、等身大の楕円形の鏡を示した。
黒玉の飾りで縁どられたそれには、見覚えがある。
原作で、魔王が何度ものぞいていた鏡だ。遠くの物や光景を映す魔力があり、これでローズマリー達の様子を定期的に確認していたのだ。
(昔は、ファンタジーな設定にごまかされていたけど…………いま考えると、完全に盗撮中のストーカー…………)
それはともかく。誰もいないと思ったからこそ、音読していたのだ。しかし現場を見られたのでは、言い逃れはできない。
「フユノカスミとは、別世界の人間の名前。お前はこのフローレンス大陸の人間ではない。肉体はともかく、精神は。そうだな?」
「…………そうよ」
「『ニホン』という名だったな、お前の国は」
「だから何? それを知って、どうしようと?」
「喧嘩腰になるな。話を聞きたいだけだ。ニホンの話を」
「日本の…………?」
「この世界は、ニホンで綴られた物語の中の世界だ。そうだろう?」
言葉を失った。
「『マンガ』とかいったか。すべてのページに、絵が描かれた本だった。文字は、話した台詞くらいだったか? 手の平程の大きさで…………羊皮紙ではなかった。白く薄い物に黒いインクで描かれ、そっくり同じ物が何冊も棚に並んでいて、表紙は色が塗られていた」
鼓動が速まり出す。
魔王が語っている内容が、日本の漫画のことを指しているのは明白だった。
いったい何故、どうして、その事実を知っているのか?
「少し長くなるぞ」と前置きして、魔王ダークロードは説明をはじめた。
いわく、一ヶ月ほど前に『隙間』を見つけたのだそうだ。
それは次元に開いた『穴』、別の世界をのぞく穴だった。
ちょうど私がこちらに来た日、ダリアとなった、その日のことだ。
魔王は最初、単純な好奇心からその穴をのぞいたが、そこで自分や自分達のいるこの世界が、『物語の中の世界』であることを知った。自分の生まれも過去も、存在自体が虚構だと、知ってしまったのだ。
当然、驚き(語る本人は特に驚いた様子もなかったが)、いささか混乱もした。が、やがて事実は事実と受け容れた。自分達は虚構の存在なのだ。
「…………あの…………それを受け容れていいの? もっとこう…………ショックというか反発というか疑う気持ちとか…………ええと、うまく表現できないけど…………」
「反発したところで、事実は変わるまい。間違いなく、この目で見たのだ。疑うことは、己の目を疑うことだ。俺は俺の目を信じている」
ずいぶん潔いというか、『自信家』設定のある、彼らしい台詞だ。私なんて、本の中のキャラクターに転生したらしいと知った時は、かなり混乱したのに。実を言えば、いまだに信じきれない気持ちが残っている。
「それに、虚構であるのは俺だけではない。俺も他者も、この世界すべてがそう、と言われればな。忌々しい女神とその祝福も、しょせんは作り物と思えば、俺一人が苦しむこともあるまい」
なるほど、そういう考え方か。
たしかに、彼一人だけでなく、ローズマリーもシリウスも天敵である聖花神フローラも全員ひっくるめて、漫画の中のキャラクターなのだ。
「だが虚構としても、もっと詳細を知りたくなった。だが穴は短時間で閉じ、こちらから開けようといろいろ手は尽くしてみたが、うまくいかん」
どうしたものか、と悩んだ末に、魔王は一つの仮説を思いついた。
あの穴は、魔王の前に現れた一つだけだったのか?
別の場所に、別の穴が開いていた可能性はないか?
魔王は己の魔力と配下を使ってあちこちを探索し、やがて「一ヶ月ほど前にハイドランジェ神殿近くの川岸で、それらしきものを見かけた」という証言を、川岸にいた低級の魔物や風の精霊達から得る。
魔王の鏡は魔力次第で、現在だけでなく過去も映すことができる。この鏡を用いて一ヶ月前の川岸周辺の様子を調べた結果、聖花を復活させてまわっているセイントローズ一行の一人、ダリア・ウィードリーフ男爵令嬢にしてシリウス王子付き護衛官が奇妙な独り言をつづける光景を発見したのだ。
彼女の語る内容は、魔王が次元の穴からのぞいた『マンガ』の内容に他ならなかった。
ダリア・ウィードリーフ自身、『私の名前はフユノカスミ』と名乗っていた。
「そこで、お前が『あちらの世界』の者ではないかと推測した。正解だったようだな」
全然、予想していなかった展開だ。たしかに川岸では音読していたが、それは誰もいないと判断したからで、鏡でのぞき見られるとわかっていたら、絶対しなかったのに。
「つまり…………あなたは、あちらの、私がいた世界の話を聞きたいの?」
「正確には、お前の世界から見た、この世界の話だ。物語の結末を、この世界の行く末を知りたい」
「…………それを知って、どうするの? 結末を変えようとでも?」
「魔族を守りたい」
「は?」
「より正確には、我が配下の安全と安寧を確保できる道筋を知りたい。魔族の未来が保障されるなら、最悪、フローレンスなどあの忌まわしい女神にくれてやってもいい」
「えっ…………」
さすがに耳を疑った。
原作における魔王ダークロードは『世界を闇に包み、この世界においては神々の愛と祝福の証である花を、すべてを枯らそうと企む』魔族の王だ。その一方で、ただ一人愛した人間の少女、マーガレットの生まれ変わりを探しつづけている。
その彼が「世界を憎い聖花神フローラの手に戻してやってもいい」だなんて。
「言っただろう。この世界は虚構。手に入れたところで、紙でできた王冠、粘土でできた箱庭に、なんの意味がある。幻影の王国など、あの女神にくれてやっても惜しくはない。むしろ、虚構で満足できるのかと、こちらが問うてやりたいくらいだ。――――こう思う俺の心すら、虚構のようだが」
ああ…………なるほど。なんとなく、彼の言わんとするところが理解できた気がする。
たしかに、自分がこれまで頑張ってきたこと、歩んできた道のりのすべてが、誰かによってさだめられ、描かれてきたものだと知ったら。生きるも死ぬも成功も失敗も、死にたくなるほどの苦しみも悲しみも、すべてが誰かの描く娯楽の一環であり、未来への希望になんの意味もないとわかってしまったら。
たしかに、なにもかも、どうでもよくなってしまうかもしれない。
この魔王は、自分の在り方そのものを投げ出そうとしているのではないか?
それが彼にできるせいいっぱいの運命、もしくは現実に対する反抗なのではないか?
彼に限らず、誰でもこの状況になったら、それくらいしかできないのかもしれない。
私は何も言えなくなる。
「世界が虚構なのはわかった。が、だからといって、座して敗北を待つ気にはなれん。こちらが『悪役』を割り当てられ、最終的に滅びるだけの存在と知ってはな。だから、お前をここに連れて来た。お前には、このあとの物語の詳細を語ってほしい」
「詳しい展開を知って、自分達に都合よく未来を変えようってこと?」
「言っただろう。魔族の安寧の道を探りたい」
「魔族を生き残らせて、この先も人間達に危害をくわえるつもり?」
警戒しつつも、『嫌だ』とつっぱりきれない気分になっている自分がいる。
悪役とはいえ、彼の立場には同情の余地もある気がする。
ある日、自分が本の中の存在にすぎないとわかったら…………すべてが誰かによってさだめられた、虚構の存在と知ったら…………。
それは途方もない衝撃であり、苦しみに違いないはずだ。
まして悪役なんて、基本的に自分から望んでなりたがるものではないのだから。
だけど…………。
「人間達に関わるつもりはない。それで魔族の安寧が保障されるならな」
「…………本当に?」
魔王達の立場には同情もする。
けれど、ここで情けをかけて物語の結末を教えて、それで人間側に犠牲が出るような結果になってしまったら、それはそれで後味が悪いというか、後悔するに違いない。
第一、彼が本当に本心を語っているとは限らない。なにしろ『魔王』なのだから。
その魔王は突然、指を鳴らした。
私の胸のすぐ前に、黒い、ロウソクほどの大きさの炎が現れる。
「我等、魔の一族が生き残っても、人間に危害は加えぬし、お前自身の安全も保障する。我が魔力と世界の闇にかけて誓う。これは誓約の証だ。――――これでよいか?」
黒い炎は私の胸に張りついて消えた。熱や痛みは感じない。
見おろすと、炎が触れた位置に赤い花の形が浮びあがっていた。
リコリスの形をした赤い痣に見えるそれは、魔族の間では絶対の効力を持つ誓いの証で、この証を用いた誓いは魔王といえども破ることはできない。
漫画内では、魔王はこの魔術を、愛するマーガレットに永遠の愛の証として用いており、彼女の死んだ数百年後に、ローズマリーがリコリスの痣を持って生まれてきた、という設定なのだ。
この証が用いられたことで、私の心は決まった。
この魔術を用いてまで誓うのだから、魔族を生き延びさせたとしても、この魔王が人間達に危害を加えたり、私をどうにかしたりする可能性は、まずない。
「わかった。協力するわ」
私は断言した。魔王と手を組んだのである。