2 記憶の確認
長いので、半分にわけました。
変なところで切れています。
まばたきほどの短い時間。
けれど、たしかに見た。
あの方が私より、あの女を選ぶところを。
あの方は迷わずあの女に手を伸ばし、私には目もくれなかった。
死への恐怖を押しのけ、絶望と悲哀が私の全身を包む。
(そんなに、私は邪魔だったのですか? 不要だったのですか? 迷わず見捨てることができるほど――――?)
あの女を助けたあと、崖下に消えた私を、あの方はどんな目で見たのだろう。
私は強く、強く、確信した。
(もう、この命に意味はない――――!!)
『セイントローズ 聖花の歌姫』
それは私、冬野花純が六年間、ハマっていた少女漫画。
十三年前に連載がスタートした全十八巻のシリーズで、ジャンルとしては、いわゆる「中世ヨーロッパ風世界を舞台にした、剣と魔法系ファンタジー」に入る。平凡な田舎娘のヒロインが聖なる力に目覚め、仲間と共に世界を救う旅に出るという、王道ものだ。
作中で『フローレンス大陸』と呼ばれるこの世界は、聖花神フローラから、王都フィレンツェ(「タイトルは英語なのに、何故イタリアの都市名?」などとツッこんではいけない)を中心に、六芒星を描く形で七つの聖花を与えられ、この聖花によってあらゆる邪悪から守られ、平和と繁栄の時代を築いてきた。しかし復活した魔王に聖花を枯らされ、フローレンス大陸はフローラの加護を失う。
ヒロインのローズマリーは、聖花をよみがえらせる聖歌を歌える、世界にただ一人の『セイントローズ(ルビの訳がおかしい、とツッこんではいけない)』であり、王子シリウスや他の仲間達と協力して、枯れた聖花を一輪ずつよみがえらせていく―――――というのが物語の概要だ。
少女漫画なので主軸はヒロインのラブストーリーで、ローズマリーは旅の途中でヒーロー、シリウス王子と絆を深めていく。
このシリウス王子の護衛兼幼なじみであり、幼い頃から彼を想いつづけて、ローズマリーの恋のライバル役として立ちふさがるのが『鮮血の戦乙女』ことダリア・ウィードリーフであり、今の私、冬野花純の立ち位置だった。
(本当にこれ…………私の体?)
とりあえず川からあがり、上着など、脱げるものは脱いでしぼって岩の上にひろげて乾かし、長い黒髪も着ている服もしぼれるだけしぼってから(幸い、暖かい季節だった)、あらためて状況を確認してみる。
手をにぎったり、ひらいたり、髪を引っぱったり、頬をつねったり。体は隅々まで私の思うとおりに動き、けれど、アンティークなコンパクトの鏡に映るのは、灰色がかった黒髪に赤い瞳の少女のまま。
「あああ、もう…………!!」
何度目のことか、思いきり叫んで頭を強くふる。落ち着け、と自分に言い聞かせた。
とりあえず、思考と状況と情報を整理しよう。
「ええと…………私は冬野花純、二十一歳。大学三年生。住所は日本の…………」
大学名と学科名、家族構成、誕生日に星座、血液型、高校名に友人達の名前と、思いつく端から挙げていく。あえて音読だ。
「これは、『セイントローズ』の世界。『セイントローズ』は日本の少女漫画で、十三年前から六年間の連載で、全十八巻。作者は花宮愛歌、掲載誌は『ティアラ』。アニメ化は無し。フローレンス大陸は聖花神フローラに守護されていて…………」
すぐに思い出せる範囲で、漫画の設定も音読していく。
そして今の自分の設定。
「ダリア・ウィードリーフ、十七歳。ウィードリーフ男爵令嬢で、シリウス王子の幼なじみ。幼い頃から武術を習って、十歳から王子の護衛役を努める。百匹の魔物を倒した弓の名手で、瞳の色から『鮮血の戦乙女』と呼ばれる。コンプレックスは不吉とされる赤い瞳で、瞳のせいで幼い頃から忌避され、実の父親のウィードリーフ男爵にも冷遇されてきたが、シリウス王子だけは彼女の瞳を恐れず、『名前のとおり、赤いダリアの花のように美しい』と褒めてくれたため、彼に恋するようになった。シリウス王子が惹かれるローズマリーには、剣呑な態度をとる…………」
設定資料集から丸ごと引っぱってきたような説明口調だが、この際、かまわない。
とにかく、自分の記憶も意識もはっきりしている。矛盾も見当らない。
「私は冬野花純…………」
では、ダリア・ウィードリーフは?
目を閉じて、頭の内側をさぐる。
銀髪に青い瞳の優しげなシリウス王子の端正な面影に、ダリアが関わったシリウス王子の過去、シリウス王子の好物や苦手なものなど、彼に関する様々な情報…………それから、ふわふわした金髪に大きな紫の瞳を輝かせた、『セイントローズ』ローズマリーの記憶…………。
すべて、見てきたように思い出せる。
が、実感は薄い。
自分の頭の中にある記憶でありながら、どれも膜一枚をへだてて触れるような『他人事』感があり、『記憶』というよりは『情報』だ。
「転生…………『異世界転生』? ネットで流行っている『前世で大好きだった、あの漫画の世界に転生してしまいました!』というやつ?」
この川岸で目覚める直前。私は最寄駅近くの歩道橋を歩いていた。
そして、その歩道橋から下の道路に落ちたのだ。
理由はわからない。
そのあとの記憶が途切れているということは、あの時点で冬野花純の人生は終わった、ということだろうか。
ネット小説では転生先は漫画の世界に限らないというか、ゲーム世界のほうが多かった印象だが、そこは問題ではない。
重要なのは、自分は本当に『セイントローズ』の世界に生まれ変わってしまったのか、という点。それも『ダリア・ウィードリーフ』として。
「ダリアかぁ…………ライバルはライバルだけど…………基本的に不憫なキャラなんだよねぇ、この子…………」
作中における『恋敵』『ヒロインのライバル役』のダリアだが、その扱いはあまり良くない。
『セイントローズ』の作者、花宮愛歌は自身を過剰に自作に投影することで有名で、『セイントローズ』をはじめ、彼女の作品、作風には、その時の『萌え』や『好み』『願望』が如実に反映され、特にヒロインは自己投影が高じた結果、物語全体がかなりの『ヒロイン至上主義』になっているのが、花宮愛歌作品に共通する特徴だ。
イケメンキャラは確実にヒロインに恋愛感情を抱き、他に恋人や婚約者がいても、ヒロインに悪感情を持つことはない。
「ポピーの村の幼なじみのジャックなんて、昔からローズマリーが好きで、でもローズマリーはシリウスと結ばれたから、共通の幼なじみのデイジーとくっついたけど、『ジャックの心の中の特別な位置にローズマリーはいて、この先もそれがゆらぐことはないでしょう』って、作者があとがきで明言していたし。私がデイジーだったら『ふざけんな』って、お断りだろうなぁ」
仮に弘史が婚約を解消して、自分と付き合い出したとして。
『結婚は花純とするけど、元カノのことは一生、好きだし、忘れられない』と言われたら。
正直、今からでも弘史が自分を選んでくれれば、すごく嬉しいと思う。
だが自分の性格上、こんな言い方をされれば「なら、元カノのところに帰れば!」と激怒するのは間違いない。
「女キャラも、基本的にヒロインには好意的だし…………」
『大好きな親友』『大事な妹分』として可愛がられたり、『憧れの人』と崇拝されたり。
シリウス王子は立場上、競争率が高いのだが、序盤こそローズマリーを「身分の低い田舎娘が」と蔑んでいたモブライバル達は、いつの間にか「さすが、聖花神に選ばれたセイントローズ」「私達などでは、とても……」と白旗を挙げている。
また、シリウスの妹のカメリア王女は超のつくブラコンで、最初は「平民の分際でシリウスお兄さまに近づかないで!」とローズマリーに反発しまくっていたのに、中盤で「実は、初めて会った時から優しいローズマリーと友達になりたいと思っていたのに、ローズマリーはシリウスお兄さまとばかりしゃべるので、意地悪をしていた」という真相が明かされ、終盤ではシリウスとローズマリーをとり合って、「どこがブラコンやねん」とツッこみたくなるほどのデレっぷりだった。
それらのキャラの中でかなり長く、そして唯一、ローズマリーを敵視していたのがダリアだ。
しかしそのダリアも、大人になって読み返すと、恋のライバルとしてはとてもひかえめというか、あまり勝負にならないキャラだったと気がついた。
序盤でダリアは「王子を呼び捨てにするなんて、失礼な!」とか「男爵令嬢で、王子の護衛官である私にケーキを焼けとは、なんの悪意あってのこと!?」とローズマリーにきつく当たる。だがこれは、身分差が存在する封建社会では、当然の主張だ。
出会った時点のローズマリーは一介の村娘だから、王子を呼び捨てにするほうが無礼だし、ダリアもれっきとした貴族の令嬢で、かつ『世継ぎの王子付き護衛官』という公的な地位も得ている。村のお友達感覚で接してならないのは当然だ。
ケーキ作りだって、封建社会では肉体労働用の人材を雇える財力がある、権力があるというのがステイタスなのだ。王侯貴族が肉体労働にたずさわるのは、そのステイタスを自ら捨てる行為に他ならない。
『ローズマリーがカメリア王女のため、シリウス王子と一緒に彼女の好物のケーキを焼く』シーンは、ローズマリーの優しさをアピールし、シリウスとの距離がちぢまるエピソードとして扱われ、厨房の使用人達もほほえましく見守っていたが、現実問題、厨房には刃物があり、鈍器になる道具もあり、高温を扱う竈もある。世継ぎの王子になにかあった場合、『王子を止めなかった罪』や『王子を守れなかった罪』で、セイントローズのローズマリーはともかく、ダリアと使用人達は全員、処罰されていたはずだ。
おかしいのは「周囲の者はみな、王子の私に頭をさげ、媚びへつらってくる者ばかりだった。こんな風に対等に接してきたのは、君が初めてだ」とか「ローズマリーがカメリアのためにケーキを焼きたいと言うんだ。手伝おう」と、ローズマリーのやることなすこと、すべてを肯定して受け容れるシリウス王子のほうなのだ。
物語内では、ローズマリーは『身分にとらわれず、高貴な人物にも堂々と自分の意見を述べる』と設定され、それが魅力の一つとして扱われている。
しかし封建社会では王子に頭を下げるのは当然で、周囲にしてみれば、ただマナーや慣習に従っただけで「媚びている」と言われるのは心外ではないだろうか。
「というか…………平民に対等に扱われるって…………平民扱いされた、ってことじゃないの? 仮に、これを現代日本にたとえたら…………」
大企業の社長令息が『現代日本に身分差は存在しない』という常識に従って、周囲から普通に対等に扱われる中、一人だけ「○○様、なにかご用がありましたら遠慮なくお申し付けください」なんて言う女性がいて、周囲が「友達なのに使用人みたいな接し方はおかしい」と言う中、令息一人が「みんな、社長の息子の俺に、対等に接してくるやつばかりだった。こんな風に敬意をはらって接してきた女は、お前が初めてだ」と感激するようなものか?
「弘史がこんな男だったら、絶対、惚れない…………」
自分で自分の想像に吐き気がした。
「だから、ダリアがシリウスを止めたのは当然だったのよね。王子の護衛官なんだから、危険は少しでも排除しなければならないし、王子の王族としての権威を守るという意味でも、ダリアの判断は正しかったわけで…………」
作中でダリアがローズマリーに反発するエピソードは大体このパターンで、『中世ヨーロッパ』を舞台にしているなら、むしろ理はダリアのほうにある。ローズマリーの言い分が正しく思えたのは、現代視点や現代日本の常識で考えていたからにすぎないのだ。
だが小学生の自分には、それがわからなかった。
ダリアのことを、ただ『身分を盾にいばって、ローズマリーとシリウスの邪魔をする嫌な女』としか考えていなかった。
今なら、ダリアの態度はなによりも王子のことを考え、彼女の職務をまっとうしただけと理解できるのだが。
「ごめんなさい、ダリア」
今は自分がそのダリアだが、誰もいない空にむかって手を合わせて謝罪した。