4.価値のある勝ち
陽はすっかり高い位置に届き、汗が滝のように流れ落ちてゆく。
比較的軽装な自分ですらこうなのだ。通気性の悪い革鎧を着込んでいる奥方は、なおさら厳しい状況に違いない。ジャミルはこまめに水分を摂らせるよう気を配り続けた。贅沢に使っていいわけではないが、水や食料はまだたっぷりとある。
ファルスの村まで、ちょうど後一日の場所までやって来た。大小様々な岩石が転がっている荒れ地にて、今日何度目かの休憩をとっていたその時――
「奥方。準備を」
ダリアは岩場のある一角を見据えながら、小さいのにハッキリと聞き取れる声でそう言った。
エリザは短刀の柄に手をかけ、顔を引き締めて立ち上がる。
「短刀は握らぬよう」
「あ、そうでしたね……ついうっかりです」
短刀から手を離したかと思うと、奥方は畳んだ傘を剣のように握った。それに頷いたダリアさんに、いよいよ不信感を抱いた。
どうしてなのか。いくら魔物と立ち回るには不向きな武器だとしても、それを持つのと持たないのとでは、雲泥の差があるではないか。ましてや、代わりに手にしたのは殺傷力皆無の日傘だ。命が危険にさらされるどころではない。
「ダリアさ――」
ジャミルが抗議の声をあげようとしたが、一点を睨んだまま、「分かっている」と、短く言った。そして、
「おい、出てこい!」
面覆し越しでもその凄んだ声は恐ろしく、ジャミルは小さく身震いしてしまった――。
それはジャミルだけでなく、向こうもそう感じたのだろうか。
命令に従うかのように、岩陰から慌てて小さな塊が飛び出してきた。
「――――ッ!」
ジャミルは思わず息を呑んだ。
灰色のそれは、“ヒト”ではないと分かる。ジャミルよりも頭一つぐらい背が低く、大きな鷲鼻に尖り耳、横に広がった大きな口から頑丈そうな歯がズラリと並んでいた。
容姿は、言うなれば“小さなおじさん”だ。|《小鬼》と呼ばれる魔物だけあって、顎が大きい恐ろしい顔をしている。
こんな時だと言うのに、でっぷりとしたお腹にパンツ一丁の格好を見たジャミルは、水浴びした後のムフタールの姿を思い出していた。
「ゲゲゲーッ!」
ゴブリンは鳥のような哮りをあげた。
手に握り締めたこん棒を高く掲げ、今にも飛びかからんとする構えを見せる。しかし悲しいことに、それに怯んだのはジャミルだけであった――。
「わあ、本物のゴブリンさんですっ♪」
「奥方、感激してないで早く構えてください」
「ああ、そうでしたぁ!」
元気よく返事をすると、奥方は意気揚々と傘を構えた。
馬鹿げている。ジャミルは慌てて止めに入ろうとするも、ダリアさんに肩を掴まれ「ダメだ」と引き戻されてしまった。
「どうしてです! あんなので倒せっこないじゃないですか! 相手は本物の魔物、冒険者ごっこはここで終わりにするか、せめて僕の――」
「あんなので倒せるから、私はゆかせたのだ」
「えっ……?」
ダリアが顎をしゃくったことに気づいた。
両手で日傘の柄を握りしめ、恐る恐るゴブリンの方に近づいてゆくところだ。素人目に見てもへっぴり腰で、自分の方がまだまともだと思えるほどである。
痛い目に遭えば分かるだろうと考えたのか――いやしかし、その考えはすぐに否定した。なぜなら、取り返しのつかない事態となるに違いないだからだ。奥方にしろ、自分たちにしろ――ダリアさんがそのような手段を取るはずがない。
だが、制止を振り切ってでも止めねばと考えるには遅かった。
もう奥方は、ゴブリンの真正面に立っているのだ。
「よーし、いきますよゴブリンさん! えぇっと……村に悪さした罰を受けなさい!」
「ギ?」
ゴブリンも『何を言っているのか』と言いたげな顔だ。
それもそうだ。剣でもなくこん棒でもない、殺傷力のない柔らかい布の傘を持ち、訳の分からないことを口にしているのだ――。
間もなくして、天高く突き上げられた日傘はついに、ぶんと音を立てて振り下ろされた。
「えーいっ!」
ぽすっ。
エリザの日傘はゴブリンの頭を叩いた。
「えいっ、えいっ、えいっ!」
ぽすっ、ぽすっ、ぽすっ。
柔らかいため、ダメージは皆無だ。
「…………」
ゴブリンはジャミルの方を向いた。
『どうすればいいのか?』そう言いたげな目を向けてきた。問われても困る。
どうすればよいのか分からず、肩を掴んでいるダリアを見上げた。
ダリアはようやく、腰に手をやったところだ。けれど、手に握ったのは剣ではなく……一枚の金貨であった。
「…………」ダリアは摘まんだ丸い金貨を掲げた
「…………」ゴブリンはそれをじっと見つめる。日傘でひたすら殴られながら。
わずかな間を置いて、ゴブリンもやっと腕を動かす。
相手もまた得物を使おうとしない。
「…………」左手の指を三本立てた。人間と同じで五本指のようだ。
「…………」しかし、ダリアは動じない。
「…………」ゴブリンもそのままだ。
ダリアは、ゴブリンが“音”をあげるのを待っている。
ゴブリンは、ダリアが“値”を上げるのを待っている。
しばらく睨み合った末、先に動いたのはダリアであった。
「…………」ダリアは銀貨を二枚取り出した。
「…………」ゴブリンは三本立てたまま。強調するように揺り動かす。
「…………」すると、ダリアは続けて二枚追加した。
これにはゴブリンも目線を下に向け、少し考えるように間を置いた。
そして――奥方が「えいやあ!」と、傘を大きく振り下ろしたその時、
「……ぐえーっ!」
臨場感のない声をあげながら、ゴブリンは仰向けに倒れた。
交渉成立のようだ。
「や……やったあっ! 倒せましたっ、倒せましたよ~っ!」
奥方は相好を崩し、ぴょんぴょんと跳ねながらこちらを振り返った。
「見事なお手前です」
手を叩くダリアの横で、ジャミルは唖然と立ち尽くしている。
ダリアの腰で身体を叩かれ、ジャミルはやっと引きつった笑みを浮かべながら手を叩く。
ぱち、ぱち。お見事(?)です。主人の機嫌を取るのも執事の仕事だけど、果たしてこの戦闘は執事の業務に入るのだろうか。
エリザの後ろで腹を掻くゴブリンを見ながら、ジャミルはそう考えた。
「いやあ、強敵でした~」
ダメージゼロですからね、なんて言えるはずもない。
「奥方、仲間がやって来られると厄介ですので、先にファルスに向かってください。事後処理は、私とジャミルがやっておきますので」
「あら、それは大変ですね……分かりました、二人とも気をつけて下さいね」
エリザはそう言うと、スキップでもしそうなほど軽い足取りで馬に跨がった。
そして、背を向けて歩き始めたのを見送ると、ダリアは腰に手をやりながら、「さてと」と小さくを息を吐いた。
「――おい、もういいぞ」
面覆いから覗く目をゴブリンに向けると、それはムクりと起き上がる
「ギー」
ゴブリンは半目で、『茶番は疲れる』と言いたそうにしている。
先ほどまでの物々しい雰囲気とは打って変わり、その姿は悪戯好きな小さな子供のようにも見えた。
「ほれ――小遣い稼ぎもいいが、あまり派手にやりすぎるなよ。スタルクの街にも既に知れ渡っているから、やるなら間を置くか、ここから離れておけ」
「ギイギイ!」
約束の金貨一枚と銀貨四枚を受け取ると、ゴブリンは嬉しそうに何度も頷いた。
大判金貨三枚あれば、一般家庭が不自由なく暮らせる。手渡したのは大判金貨なので、殴られ屋の報酬としては破格だろう。
まるで友だち同士のようなやり取りに、ジャミルは目を丸くした。
「あ、あの……ダリアさんは、ゴブリンと知り合い、なのですか?」
「ん? ああ、こいつのことか。別に知り合いとかではないが、単独行動するゴブリンはあまり害はないんだ。群れで動けば厄介だが、個々は弱いからな。群れがいるように見せかけて、旅人や村から金を脅し取ったりすることが多い」
「ってことは……単独行動しているゴブリンだって知ってたんですか!?」
「当然だ。群れであれば、ファルスの村は一夜で全滅している」
ゴブリンは人の言葉が理解できるのか、「ギイギイ」と得意げに頷く。
「だから、奥方に刃物を使わせなかった……?」
「その通り。刃を光らせれば、こいつも反撃せざるを得ないからな。こん棒でもない、オモチャのような得物、そして奥方の間の抜けた雰囲気と相まれば、こいつでも他に意図があると気づく」
「は、はやくそれを言ってくださいよぉ……」
へなへなと崩れ落ちたジャミルを見て、ダリアは「なかなかいい執事っぷりだったぞ」と、ゴブリンと一緒に笑った。
ゴブリンは音(値)を上げるまで待つ。(サブタイに書けなかったので……)